神に捧げる愛の詞





 神の世界というのは普通の人間には知れる事のないもの。人間とは隔絶された、天の世界に住まう神という存在は、人間にはあまりに遠いものである。あまりに遠すぎるために、人間は神の存在というものを信じないし、信じていても、それは人間に都合の良いものになっていく。だが、神とは人間にとってそう都合の良いものではない。人間は、神の僕なのだから。
 そしてここには、神に恋する男が一人。その神の姿を見たことはないけれども、彼は神に恋している。彼の崇める、神に。

「……僕は、ここにいるよ」

 彼は、小さく呟いて、空を見上げた。






 透明な声がした。浅海はその声に目を覚ました。すでに夜も更けており、いつも電気を消して暗色の遮光カーテンをしっかりと閉めて眠るから、夜に目が覚めると常に真っ暗なのだが、その日は少しいつもと違った。
 部屋の中は暗い。けれど、ほんのりと明るい場所がある。
 ──窓?
 うっすらとした目覚めの中で、浅海は窓の方へ視線を向けた。
 ベッドの中から首だけを動かし、開いてるのか開いていないのかわからないほど細い目で、窓辺を見た。そこは遮光カーテンで暗く閉ざされているはず。窓のすぐ外に街頭もない。だから暗いはず。
 だが、そこはぼんやりと、ほんのりとあかりが灯されていた。淡い、黄色っぽいけれど白い光。手を伸ばしたら暖かそうに見える、優しい光。

「……何で明るいんだろう?」

 寝起きのせいもあり、その声はけだるく、ゆっくりとしている。けれどはっきりと音を発していた。

「……眠っているのではなかったの?」
「眠って……? ああ、じゃあ、これは夢か……」

 ほわ、と浅海は微笑んだ。ベッドの中で微笑んで、そろりと腕を伸ばした。光から、形ははっきりせずとも、手のようなものが差し出される。それが本当に手なのかどうか、それは浅海にもわからない。わからないけれど、浅海はそれに触れた。握り締めた。

「あったかい……」

 小さく呟いたあと、浅海はすう、と眠りに落ちた。夢の中か、と思ってしまった時点で安心してしまったのだろう。それは彼女にしては幸運だった。
 ここで姿を見られるわけにはいかない。この光が落ち着くまで、浅海に見られるわけにはいかないのだ。創葉はほっと息をつく。そして静かに、光を収めて暗闇の中に紛れていく。姿はすぐに、見えなくなった。



 朝目を覚ますと、そこにあったのはいつもの光景。ぼんやりとした目をこすりながら、浅海は立ち上がり、顔を洗いに洗面所へと向かった。歯を磨きながら鏡に映った自分の姿を見て、あれ、と首を傾げる。

「……なんだ、これ?」

 浅海の髪の毛に、一筋の白い糸が引っかかっていた。何の糸だろう、と首を傾げて考えてみたけれど、その糸に覚えはなかった。今浅海が着ているのは紺色のパジャマだし、ベッドも濃い藍色のシーツとカバー。
 ──覚えがない。
 たかが糸、まあいいか、と浅海はそれをぽいっと捨てて口をゆすぎ、顔を洗った。糸には覚えがないけれども、そういえば夕べなにか夢を見た気がする。ぼんやりとそんなことを思いながら、彼は顔をばしゃばしゃと洗っていた。
 出勤の準備も終えて、浅海は家を出た。朝食は、コンビニのパン。いつもどおり、コンビニに足を運び、いつもどおり、パンとお茶を買って出社する。定時15分前。その間にパンをかじる。
 そんないつもどおりのことをしようとしたのだがなんとなく、いつもと違うことをしてみようと思った。コンビニの袋をぶら下げて、かばんを片手に会社を通り過ぎて歩き出す。天気も良くて、気分も良い。近くには公園もある。そこでパンをかじるのも良いだろう。
 その『なんとなく』がきっかけだった。

「……あれ?」

 公園のベンチに人影があった。木陰にあるベンチなので、多分この季節だとまだ少し肌寒いと思われるのだが、その人影はうずくまっているように見えた。
 どこか具合でも悪いのだろうか、と思った浅海はそおっと影に近づいていく。
 じゃり、と砂を踏みしめて恐る恐る近づいていっても、その影は身動き一つしない。具合が悪いのかと思ったけれども、それよりも生きてるのだろうか。そんな不審な気分になってきた。
 ベンチに座ってうずくまっているのは女性だった。細い肩が揺れたと思ったら、長い髪がさらりと前にかかってくる。けれど何がおかしいって、その人の肌はやけに白いし、髪の毛はやたら銀色っぽい。染色、というには艶やかだし、外国の人だろうか?
 そんなことを逡巡しながら、一歩、また一歩と足を進める。

「……あのぉ」

 そっと浅海が声をかけると、びくんっとその影は動いた。はっと顔を上げた彼女はほんのりと赤い唇をぽかんと開いて、浅海を見上げた。開いた瞳は大きな青灰色、それでいて髪の毛が銀色ときたら確実に日本人ではない。
 ──すごい美人な外国人だなー。どこの国の人だろう。

「どうかしましたか?」
「……いいえ」

 彼女の表情はほぼ無に近い。綺麗な肌、綺麗な瞳。けれどその顔に感情が見えない。
 ──もしかして、俺、不審者?
 突然声をかけてきた見ず知らずの男、となったらナンパとか思われてたりして、などと思いついた浅海は焦って声を上げた。

「あ、いや、あの、いきなり声かけてすみません。何か具合悪いのかと思って……」
「……そう、見えました?」
「え? あ、はい」
「そうですか……ありがとうございます」

 礼の言葉とは裏腹に、やはり表情はあまりない。微笑まれることもなく礼を言われるのは、礼を言われている気分にならないものなのだな、と浅海は思った。別に険があるわけではないけれども、決して礼というものには見えなかった。
 浅海は何とも無いなら良いか、と思い、少し離れた別のベンチに腰を下ろした。ビニール袋からおもむろに取り出したパンとペットボトルのお茶。浅海は黙々と朝食をはじめた。
 彼女はまだぼんやりとベンチに座っている。先ほどのようにうずくまることは無いけれども、ぼうっと座ったまま、特に何もせずにいる。
 浅海は時々ちらちらと彼女の方を見るが、彼女はそれに気付いていないようだった。

「……あの」
「え?」

 浅海の方を見ることもなく、彼女はぽつりと声を出した。自分のことかどうかもわからないのに浅海は思わず返事をしてしまう。すると彼女はゆっくりと浅海を振り返り、小首を傾げた。

「何をしていらっしゃるの?」
「え、何って……見ての通り、食事ですけど」
「……そうですわね」

 それだけの会話で、また口を噤む。何を話せばいいのかわからないかのように、彼女は目を泳がせた。浅海もまた、同様だった。
 別に話す必要などないと言われればそれまでなのだが、何も話さずにいるのも悪いような気がしてしまったのだ。一度それを思ってしまうと、どうしたものかと頭の中では会話の想定を一生懸命してしまう。
 考えながらもくもくとパンをかじる。しまった、お茶じゃなくて牛乳でも買ってくればよかったか……などとワケの分からない思考に邪魔されながらも、何を話そうかと考えていた。

「いつもここでお食事をしているのですか?」
「え? いいえ〜、いつもは会社で食べてますよ。今日は天気が良かったのでなんとなく」
「そうですか……何かご縁があったのでしょうね」
「えん……ですか」
「ええ」

 青灰色の瞳がわずかに細められ、銀色の髪が少しだけ揺れた。浅海はぼんやりと彼女を見つめていたけれど、彼女がきょとんと目を丸くしたのを見て焦って視線をずらした。
 思わず見惚れていたらしい、と気付いたのは、彼女が目を丸くしたからだった。
 慌ててパンにかじりつく。さっきまで結構美味い、と思っていたはずのパンがやけにぱさぱさしている気がした。

「あ、あの、日本語お上手なんですね」
「……日本語、ですか?」
「その、外国の方……じゃないんですか?」
「……そうですね。確かにこの国の者ではないですわ」
「ですよね? でもその割には日本語上手だなぁって」
「言葉は、不自由しないもので」

 きっと語学が堪能なんだろなぁ、などと浅海は思った。けれどそれはちょっと違う。彼女に、言語圏などないだけのこと。いまいちかみ合わない会話ではあったものの、互いがあまりそれに気付いていない。だから最後には笑顔で納得したような顔になっていた。
 浅海はパンの袋をコンビニの袋に詰め込んで、ペットボトルのお茶を飲んだ。そしてぐるぐるとコンビニの袋を巻いて小さくして、ベンチの傍のゴミ箱に捨てて立ち上がる。彼女は浅海のその動きをただじっと見つめている。
 ベンチに置いたかばんを手にとって、彼は彼女に向き直る。

「すみません、突然お邪魔して。僕はこれから仕事に行きますので退散します」
「仕事……」
「はい。具合が悪いようでしたら、早めに帰られた方が良いですよ。ちょっと風強いですから冷えると思いますし」
「……強い……ですか?」
「え? 弱くはないと思いますけど……」

 そうですか、と彼女は返事をして、俯いた。
 それほど強い風とは思えなかった。どちらかといえば心地よいほどの。けれどそれは彼女の思い違いだったらしい。人からすれば、この風が少し強いのならば、本当に自分とは感覚が違うのだと思わせられた。

「ま、歩いてたりすれば気持ちいいですけどね。じっと座ってたら冷えるもんでしょ、強くても弱くても。じゃあ、僕はこれで」
「あの……っ!」

 え、と浅海が振り向いて、彼女は慌てて訊ねた。

「お名前……教えていただけませんか?」
「あ、僕は浅海と言います。すぐそこで働いてます。あなたは?」
「……創葉、と言います」
「創葉さん。自然を創る、なんて神様みたいな名前ですね」

 にこりと浅海は微笑む。それは創葉、という名前からそう思いついてするりと出た言葉なのだけれども、彼女はそれを聞いて目を瞬かせた。

「神……ですか?」
「あ、すみません、変なこと言っちゃって。気にしないで下さい」
「……もしも、神だったら?」
「あなたが? 神さま?」

 こくりと創葉が頷く。人と神とは交わらないもの。たとえ人と交わることがあったとしても、それは人には知られてはいけないもの。神は、ひっそりと人々を見ているのだから。
 けれど自分の名前を神のようだと言ったこの人は……人と関わる神を、どう思うのだろうか、と聞きたくなった。
 浅海は微笑む。彼女に、やさしい笑顔を見せる。

「何も変わることはないと思いますよ。僕はやっぱりあなたがうずくまっていたら声を掛けるでしょうし、普通に隣のベンチにお邪魔してパンをかじります」
「……それはそうだと思っていないからでしょう? もしもそうだとわかったら、その後はどうなさいますか?」
「うーん、そうだなぁ。多分、神様に一目惚れなんてまずいなぁって思いながら空を眺めます」

 創葉は唖然とした。今、彼が言ったのはどういう言葉だったかと噛み砕くよりも先に、目を丸くし、口をぽかん、と開いた。それを見た彼はくすりと笑った。

「すみません、もうあんまり時間がなくて。またどこかでお会いしましょう、創葉さん」

 そう言って浅海は走って公園を出て行った。本当にもう時間がなかった。始業時間まであと一分。別にちょっとぐらい遅れても文句は言われないが、さすがに社会人として一応時間を守るのは最低限のことだ。
 残された創葉は、ぼんやりと彼の姿を見送った。その姿が見えなくなった頃、彼女はふわりと微笑んだ。

「間違って降りたのでは……なかったのかもしれませんわ」

 夜遅く、創葉が降り立ったのはなぜか人の家の中だった。本当ならば、降り立つところを人に見られてはまずいので、人の居ない場所を選んでいたのだが、なぜか実際降り立ったのは人の住まう場所だった。
 そして、そこに居たのは、彼だった。
 声を掛けられたときにはどきりとした。もしや、覚えていたのだろうか、と。昨夜の突然の来訪者のことを、覚えていたのだろうかと。けれどそうではなかったようで、ほっと一安心していた。
 創葉はぎゅっと自分の手を握った。人とは違う、神のもつ『形』の一つでしかないこの冷たい手を、彼はあったかいといって握って眠った。

「……不思議な人間もいるものですわね」

 信仰というものの薄れた人間。神を神とも思わない者の増えた地球。創造主は、それを良しとは見ていない。やがて来るだろう『終焉』の日は、そう遠くはないのかもしれない。けれど創葉は、思った。
 ──それほど、神は人を知らない。
 神は人を見続けている。人同士の信頼や、優しさや、そういうものを見落としているかもしれない。だから、もっと、近くで彼らを感じてみたい。そう思って創葉はここにやってきた。神という場所からだけではなく、もっと近くで。

 創葉はすっと立ち上がる。このベンチでうずくまっていたのは、声を聞いていたからだ。この公園の木々や、草の声を聞いていたからであり、具合が悪かったわけでもなんでもない。けれど、浅海が言っていた。じっと座ってたら冷えますから、と。
 だから、創葉は公園の木々や緑にまたね、と呟いて、歩き始めた。
 浅海が走りぬけたのとは、逆の方向へ、と。



 昼時、浅海はコンビニの袋を持って、公園を訪れた。
 アレから三時間。居るはずがない、と思ってはいるものの、少し気にかかって彼女がまだ居るのかどうかを確かめたかった。コンビニで食事を購入して、走って公園に向かう。なんだか恋人と待ち合わせでもしているみたいで、楽しい気分になっていた。
 けれど、公園にはすでに彼女の姿はなかった。
 三時間も経っているのだから当然だ、と思うのだけれども、やはり残念だと思う。もっと話をしてみたかったなぁ、と。

「途中で倒れたりしてないと良いけどな」

 朝と同じベンチに座って、コンビニで買ってきた弁当を食べはじめる。

『……何をしていらっしゃるの?』

 そんな彼女の声が聞こえてくる気がした。

「今度は昼ご飯。お昼にもご飯を食べないと、夜まで持たないんですよ。神様は、食事なんてしないんですか?」

 それに答える言葉は、どこからも返っては来なかった。浅海は弁当を平らげ、ペットボトルのお茶をごくごくと飲み干す。ベンチ横のゴミ箱にそれを捨てた。

「しばらく、空でも眺めてみようかなぁ」

 目を細めて、浅海は空を見上げた。
 太陽がまぶしく照り付けて、青い空が輝いていた。それから、それは彼の日課となった。
 天気の良い日には公園で弁当を食べる。朝も、昼も。夜には、さすがに公園で座っているわけにもいかないから、家に帰って、ベランダに立つ。
 そして空を見上げる。広い空の向こうに、『創葉』という神様がいるのかな、と思いながら。もう一度会いたいなぁ、とぼんやりと呟いて。

「僕は、ここにいるよ」

 もう一度、君の声を聞かせて────と。