かがやくもの





 天には不機嫌な神がいる。
 それを知るのは同じく天にいるものだけだが、その神の不機嫌さはとにかく天において有名事実として名が知れている。
 その神の名を、籐梓(とうし)という──

「籐梓さま、香歌さまがお見えでございます」
「……何用じゃ」
「その、ご機嫌伺いと……」
「ふん、ご機嫌とはの。……まぁ良い、通せ」

 侍女が一礼して部屋を出るのを見送ることもなく、籐梓はぱちん、と扇を閉じる。腰帯に扇を刺して椅子から立ちあがった。それと同時に、香歌が部屋に入ってくるのを見て、ふん、と籐梓は微笑んだ。

「やあ、香歌。麗しい花の顔を見せに来てくれたのだね」
「籐梓に言われると嫌味にしか聞こえないわね」

 神々の中でも眉目秀麗と言われている籐梓は、男神のような口調で女神たちを称えることが多々ある。けれど、女神の中でも随一と言われるほどの女神に容姿を褒められてもいまいちそれは喜び切れない。もちろん、年若い女神たちであれば籐梓に褒められた、認められたと喜ぶかもしれないが、長い付き合いをしている香歌にとって、それは嫌味にしか聞こえないものなのだ。

「それで、どうしたのだね。まさか本気でわたしのご機嫌伺いに来てくれたわけでもあるまいよ」

 くつりと笑うその姿はひどく妖艶だった。相手が香歌でなければどれほどの女神たちが嫉妬することだろう。籐梓の微笑みを自分に向けて欲しいと願うものは男神だけではなく女神の中でも頻繁に言われているのだから。
 向けられている相手が香歌だからこそ、他の女神たちも羨望することはあっても妬むことがないのだ。もしも相手が人間だったならば、神様志望とか言い出す者が出てきてもおかしくはない。その前に、男神と女神の嫉妬に気が狂うことになるだろうけれども。
 女神という名をした鬼神かもしれないとさえ思えるほどだ。

「わかってるくせに性格悪いわね。私が籐梓のご機嫌伺いなんかするわけないでしょ、方便よ、方便。仕事サボってるだろうから様子を見に来ただけよ」
「仕事? なんのことだい、それは」

 しれっとした顔をして、籐梓が扇をひらりと開く。そのしぐさは天女のよう、と神々からも言われるぐらいに優雅ではある。だが、それを聞くたびに香歌は思う。神が天女のようってどういう意味だ。それを言ったらここにいる女神たちはすべて天女のはずなのだが、と。
 そんなことを思い出しはしたけれどもとりあえずそれには触れずに香歌はため息をついて籐梓をたしなめた。

「……あなた、やることぐらいはちゃんとやっておいたほうが良いわよ」
「ああ、そうか。わたしが仕事をこなさねば香歌も仕事ができぬということか」
「いや、今日は私じゃないけど……」

 今日の籐梓の勤めのあとを引き継ぐのは別の女神の仕事である。香歌と同じように、降雨の神ではあるけれども。

「なら良いではないか、数時間遅れたって何のこともあるまい」
「なら、って何よ、私がそのあと引き継ぐならやるってこと?」
「考えなくもないけれど。やるとは断言できないな」

 扇をやる気なく扇ぎながら、籐梓はくつりと笑った。
 たとえ籐梓のあとを引き継ぐのが香歌だろうとも、籐梓がそんなことで仕事をするとは香歌だとて思っていない。そもそも、そういう気遣いをするような神ではないのだ。

「しかし、香歌にそんなことを言われるとは思わなかったな。君は雨を降らせるのが嫌いではなかったか」
「嫌いよ。でもやることはしなくちゃいけないでしょう、一応は神様なんだから」
「ふふっ、おかしなことを言うね。神様だからやらなければいけないと、誰が決めたんだい?」
「それは……」

 即座に反攻できれば違ったのだが、香歌は思わず口ごもってしまった。その時点で、籐梓にやる気を出させることはもう無理だった。

「私は人ではないから、そんなに物分りは良くないんだよ、香歌」
「そんなのは知ってるわよ、神々の皆様が知ってるわ。いつも不機嫌な女神の籐梓」
「不機嫌ね……そういつもというわけではないけれど。不機嫌にでもならないと、この勤めは果たせないんだよ」
「どういう意味?」
「──香歌は知る必要はない。そろそろ香歌も勤めに行ったらどうだい。大丈夫、私もそのうちやることはやるからね」
「…………籐梓」
「不機嫌にならないと仕事が出来ないと言っただろう?君がいると不機嫌になれないんだ」

 はやく出て行けと、視線が物語っていた。
 実際、籐梓はこれまで勤めをするところを誰かに見られたことがない。人界において、それが起きれば籐梓が仕事をしたとわかるだけのことである。
 美しくも、常に不機嫌と言われているからこそ、仕事をしろと進言するものはあまり居ないのだ。美貌への憧れはあっても、彼女の怒りが自分に向いてしまったらたまったものではない。
 籐梓の怒りをその身に受けたくない、という理由はふたつある。ひとつは籐梓に嫌われたくはないから。そしてもう一つは、籐梓の怒りは相当なものであり恐怖が勝るから。
 天で随一の美貌を誇る籐梓に嫌われるのは、やはりどれほど高位の神でも避けて通りたいらしい。香歌は籐梓の数少ない友人である。美貌も何も、関係なく。だからこそ籐梓が香歌の前では仕事はできないのだ。

「籐梓、お仕事が終わったら、私の部屋へいらっしゃい。お茶を用意して待っていてあげるわ」
「……ああ、そうさせてもらうよ」

 その返事を聞いて、香歌は出て行った。そして残された籐梓は、ふぅ、とため息をつく。
 この日の決められた時間に、籐梓は勤めをしなければならない。それは酷く籐梓を落ち込ませるものだった。その輝きは嫌いではない。けれど、それで失われるものを思うと、胸が痛むのだ。
 だから、香歌に負けず劣らず、籐梓は自分に課せられた勤めが嫌いだった。

「仕事を終えてすぐには、行けないけれどね」

 苦く籐梓は微笑んだ。扇は膝の上に乗せられたまま、その役目は行き場をなくしていた。扇がれることもなく、飾られることもなく。
 俯いた籐梓は、しばらくそのままじっとしていた。時を、測りながら。

「決められているとは言えども……やはり、あまりやりたくはないものだ」
「籐梓さま」
「…………何用」
「お務めはまだかと、降雨神が……」
「放っておいて良い」

 侍女は困った顔をして籐梓を見たが、籐梓は一切侍女を見ようとはしない。俯いたまま、顔が隠されたまま、動かなかった。それにも侍女は困惑したが、仕事前の籐梓は精神を落ち着ける必要があるのだろうと勝手に納得し、部屋を出て行った。
 残された籐梓は、やはり動かない。

「…………すまない」

 籐梓は自分の目の前の机に向けて、呟いた。
 キレイに磨かれたその机にはいくつもの影が見えている。人の姿をしたものが、動き回っている。それをじっと見つめたまま、籐梓はもう一度呟いた。

「……すまない。私の一存でとどめることはできぬのだ」

 机を見つめたまま、籐梓は呟く。そして膝に乗せられた扇をぎゅっと握った。机に向けて、扇で扇ぐ。さやさやと、優しい風が起こるように。そしてさらにその扇の動きが増すと、机の中の人々が風を厭って動き始める。空は黒雲が覆い始め、慌てて駆け出す人もいた。
 籐梓は瞬きもせずにその様をじっと見つめている。扇ぐ手を次第にゆっくりとさせ、少ししてから動きを止めた。ぱちん、と扇を閉じて、籐梓はさらに強く握り締める。そして扇の先を、机に向けた。

「……離れろ。高いものから」

 呟いてすぐ、とん、と机に扇の先を落とした。
 それと同時に、机に映っていた光景は見えなくなった。
 そこには、机の板の色だけが残っている。きれいに磨かれた天板は、その机をじっと見つめている籐梓の顔だけが映っている。人の影は、人界の姿は、すべて消えてしまった。
 籐梓は扇をそっと椅子に置いて、両手を組む。握り締められた指先は白く色をなくしている。強くその両手を握り締めた。

 ──早く。早く、雨を降らせてくれ。雨よ、降れ。この扇を、鎮めてくれ。

 椅子の上の扇が、カタン、と椅子から転がり落ちる。終わりに近づいている、と籐梓はほっと息をついた。きっと今頃、人界では酷い雨が降っていることだろう。けれど、それだけが唯一この扇を鎮めることが出来るもの。今は、この扇を鎮める雨が、必要だった。

「……本当に、嫌な仕事だよ」

 以前、香歌から人界に降りたと話を聞いた。それを聞いて、籐梓もおなじように人界に降りてみたいと思っていた。けれど、その願いはあまりに儚く、夢のようで、到底叶う日が来るとは思っていなかった。

 ──人に、厭われるのは嫌だ。

 仕事をしたことで、人に何かを言われたらと考えると、籐梓は胸の奥底がすっと冷え切っていくように感じていた。人に嫌われる役回りは、自分以外にもいようけれども。ただ、自分が人に厭われる務めをするというのは、やはり嫌なものだった。だから人界に降りて、それを人から言われるのが、怖い。
 たとえ同じ神々に仕事をしないと罵られてもかまわない。神々が定め、籐梓はこの仕事をしなければいけなくなったのだ。こんな仕事はしたくないと、何度も言ったけれどもそれは届かなかった。だから少しぐらい仕事を拒否しても良いだろう。それが、どれほど自分勝手な言い分だとわかっていても。

「今日も、誰かが泣いているのだろうな──」

 光り輝く雷を美しいと言う人間はいる。けれどその輝きは、美しさだけではなく、命を奪うものでもある。
 これまで、どれだけの命を殺してきたのだろう──。
 仕事だからと割り切っても、本当に割り切れる日など来ない。それが来てはいけないとわかっている。人を、命を慈しむ神だからこそ、割り切ってはいけない。例え命を奪っていても、だ。
 籐梓は落ちた扇を拾って、そっと机を扇いだ。緩やかな風が机にぶつかり、その天板は次第に色を変えていく。扇を落とす前と同じように、机の上には人の影が映った。
 黒焦げになっている木がいくつか見える。大粒の雨が辺りに注がれていた。大粒の雨がたたきつけるように降っている中、人々は黒焦げになっていない木のふもとに集まり、雨から避難している姿が見えた。
 籐梓がゆるゆると仰ぐ扇と同じように、机の向こう側に見える人々の髪や衣服がなびいている。次第に弱まる風、そして雨。人々が動き出せるようになるのはもう少し。本来、籐梓は風を送る務めはない。けれど、今は火災も起こっていないのを確認したので緩やかな風を送り出した。それ以上強くなると、雷雲を起こしてしまうことがあるので、わずかに風を送り出すだけでやめておいた。

「…………眠りを迎えたものよ、安らかに。そして時が来たら……また新たな時を刻んでくれ」

 悲しげな声が、部屋の中に響き渡る。籐梓が務めを終えた後に必ず紡ぐ言葉だった。

 ──誰とも知らない、優しい人よ、優しい生き物よ。
 どうか、安らかな眠りを経て、新たなる生を──