紅き風





 天の国から流れ出る風。
 ふわり、ふわりと天から優しく降りていき、そしてそれは地上を撫でる。
 優しく、母が子を撫でるように風を吹かせなければ、下界は、人は簡単に吹き飛んでしまうから、それをするのにはとても気を使う。だから神々の中でも、風を吹かせる神は数少ない。それだけの技量と器量が必要になるからだ。

「脩琉さま、緋香(ひこう)様が参りました」
「おや、この間の籐梓といい、また珍しいお客さまだこと。お通しせ」

 ぺこり、と侍女が一礼してから下がっていく。
 部屋の中から窓の外を眺めて脩琉が待っていると、侍女とその後ろについてすらりと背の高い女性が現れた。
 その女性の上背は侍女の頭の一つ分上にあり、瞳と髪が深い紅の色をしている。天界の女性の中でも、一、二を争う長身の持ち主である。そしてその長身ゆえにか、彼女は男装を好む。男神や人界の武人がするような格好を好み、腰に剣を携えている。

「脩琉様、お邪魔いたします」
「礼などいらぬぞ。こちらへ来やれ」
「では失礼して……」

 緋香が自分の後ろについている従者に視線をやると、従者は会釈をして下がっていった。
 脩琉は天界の女神たちを統べる存在、数多の女神たちの中でも、脩琉に目通りが叶うのはほんの一部の神だけである。従者たちは自分の主が脩琉に目通りが叶うほどの人物であると誇りさえもあるけれど、従者自身は脩琉と直接見えることは許されていないのだ。
 従者が脩琉に目通り願いたいとすれば、脩琉付きになるか、偶然を願うことしかできない。とは言えども、前者になるのは難しいだろう。脩琉付きの従者となれば、従者の長であるのだから。

「緋香、いかがしたのじゃ」
「先日、下界へ参りましたので、脩琉様にお土産をお持ちいたしました」
「それはそれは嬉しいことよの。いかようなものかえ?」
「茶器にございます。脩琉様のお好きそうな陶器を見つけましたゆえ、迷わず手にしてしまいました」
「緋香の目に叶う陶器とは珍しいのぅ」

 くつりと脩琉は微笑んだ。緋香は陶器が好きでよく人界に降りるたびに新しい陶器を仕入れてくるといわれている。けれど実態は、陶器好きではあるものの、仕入れてくることは稀である。陶器にこだわるだけに、なかなかその目に叶うことがないのだ。
 ゆえに、陶器の店に行くことは常、購入することは稀なのである。

「こちらでございます。名のある職人の作ったものではなく、陶器作りを学んでいた者の手によるもの。売り物ではございませんでしたが、頼み込んで譲っていただきました」
「ほう、緋香がそこまで気に入るとはの」
「どうぞ、お手に。手に触れてこの画をよくよく見てこそ、これの価値がわかるというもの」

 にこりと微笑んだ緋香が脩琉の手にその茶器を渡した。
 滑らかなゆがみのある円、描かれた画もまた、そのゆがみに添って波打つように見える小振りの椀。細く白い、ゆがみのある線は、水平線を見せているようだった。

「いかがでございましょう?」
「なるほど、緋香が気に入るのもわかるやもしれぬ。この紅であろ」
「さすがは脩琉さま。この緋香のことをよくご存知でいらっしゃる」

 土の色の茶に薄く色づけられた朱色、そしてその上に濃く引かれた白の水平線。その朱色の中に紅の渦がある。

「これは良い画じゃ。人にはわからぬであろうがな」
「それは確かに。人の出せる色ではございませぬ。ゆえに作り手は陶器作りを趣味にしか出来ぬようです」
「稀なる存在か……けれどこの色が人の世に伝わるわけにもゆかぬ。緋香、良いものを貰った。もちろん、緋香はこれとはまた別で手に入れておるのであろ?」
「それはもちろん。紅の盃にございます」
「作り手は?」
「そちらの茶器と同じ者の手によるものです」

 なるほどな、と脩琉は笑った。
 人の世に伝わるものと伝わらないもの、天の国と人の国とは遠い遠い隔たりがある。けれど時に、神のものを身に宿して生まれて出る者がいる。例えばそれは、能力であったり、技術であったり、容貌であったり、と形はさまざまだけれども。
 
「では、私はこれで。務めがございますゆえ──」
「そうか、またいつなりと。次に来たときにはこの茶器で千華茶を用意しよう」
「ありがたきお言葉でございます。それでは」

 緋香はにこりと微笑んで、脩琉に礼をし部屋を下がった。
 脩琉の部屋を下がると、そこには長い長い回廊が続いている。回廊をすすむと、緋香の執務室がある。緋色の執務室が。

「私がいない間も管理をしてくれていたのだな。ありがとう」

 部屋を見渡した緋香が振り返り、侍女に声を掛けた。
 緋香は務めで下界に降りることが少なくはない。そのたびに、陶器を見にうろつくので、務めとしての予定よりも逗留期間が長くなることがある。今回もそうで、天での時間にして二日の滞在の予定が、五日ほど過ぎていた。しかも緋香は突然帰ってくることが多いので、侍女もまた気を抜けない。
 緋香がいなくても部屋を綺麗に片付け、花を飾り、いつ主が戻ってきても良いようにしているのだ。

「緋香さま、今日はお務めの予定は特にございませんが、この後はどうされますか?」
「すこしゆっくりとさせてもらうよ。まだ天では五日しかすぎては居ないけれども、人界では色々あったからね」
「さようでございますか。ではお茶を用意させていただきますね」
「ああ、頼む」

 侍女はおっとりと微笑んで部屋を出て行った。
 脩琉の部屋を下がるときには、務めがあると出てきたのだが、実際は今日緋香に本来の務めの予定はない。それは緋香も脩琉も知っていた。けれど緋香にはそれ以外にも務めがある。
 ──風を読む、という。
 常の緋香の務めは風を起こすことだ。風を起こし、人界を包むこと。人々が生きていくのに必要なだけの風を起こし、必要以上の風をとどめること。けれど、彼女にはそれ以外にも務めがあった。それが、風読み。

「失礼いたします」
「ありがとう」
「何かありましたらいつなりとお呼びくださいませ」

 ぺこりと礼をして侍女が部屋を辞していく。机に置かれた茶がふわりと白い湯気を上げていた。
 緋香はそれを手に取り、こくりと喉を潤す。

「さて」

 緋香は腰から剣を抜き、それを鞘から抜き取る。きらりと輝いた剣を振り下ろす。剣が斬った空に裂け目が生じる。その裂け目から、ふわりと風が起こった。

「紅の、風……」

 裂け目から流れ出た風に色はない。けれど、その空を見つめたまま、緋香はぼそりと呟いた。そして次は横に一閃。そこから起こった風を見て、緋香はわずかに柳眉を顰めた。空には何も映っていない。何も見えるものはない。けれど、緋香にだけ見える『風』がそこにはあった。

「紅き風に緋色の砂塵、か」

 風が示すものはほんの些細なことかもしれない。けれど、それを読み解くと時に酷く重要なことが示されていることがある。風を見ることが出来ても、読み解くことが出来なければいけないのだ。そしてそれを読み解き、予言のように語る力に長けているのが緋香だった。
 風を生じさせる『務め』はなくとも読む『務め』はいつでもある。
 それは緋香が読むという行為はいつせねばならないかなどという規制はないからだ。緋香が読みたければ読む。読みたくなければ読まない。けれど実質は『常に読む』ことを課せられている。それを課しているのは緋香自身だけれども。
 緋香は椅子に座り、険しい表情をしている。
 紅の風に緋色の砂塵。
 先ほど呟いたそれは、緋香がその目で見た『風』であり、その目で読んだものである。風と砂塵が赤に染まる。それが何を示すのか──緋香は考えていた。
 とんとん、と机を指先で叩く。
 緋香が考え込む時の癖である。もちろん、それを知る者は数少ないけれども。

「紅……色としては好む色ではあるのだけれども」

 それは天に起こる何かか、それとも人界に起こる何かか。それだけでも見極めねばならなかった。何が起こるのか、それがもしも天に起こることだとしたら、それを読み解くのは容易ではない。ただでさえ、自分がいる天のことを『読む』のは限られた者にしか出来ない行為なのだ。
 だが、緋香はそれを『読む』ことに長けている者。この天において、誰よりも長けていると言われている者。だから、緋香が読めないことを他の誰が読めるはずもない。
 天に関わることであったなら、それは緋香が読み取り、未然に防ぐようにしなければいけない。だから、ことは慎重を要する。
 緋香はちりん、と鈴を鳴らした。それが響くと、緋香の執務室の扉がきぃ、と開く。

「お呼びでございましょうか」
「清めをしてくれ。室に入る」
「承知いたしました」

 つい、と頭を下げてから侍女が下がった。清めの為の準備をしにいったのだろう。
 室とは、緋香が『風読み』をするときに入る部屋である。そこは人一人と道具で埋まる程度の狭い部屋である。が、他人に邪魔をされないで『風読み』をするための場所なので、広い場所は必要ないのだ。

「緋香さま、お支度できました」
「わかった」

 立ち上がった緋香は清めを済ませて室に入る。
 室の中にあるのは大きな水鏡だ。ゆわん、と揺らぐ水面に、剣で円を描く。そしてそれを緋香はじっと見つめている。水鏡に町が映る。それが『紅き風と緋色の砂塵』に関わる場所のこと。唇をきゅっと引き締めて、ただじっと緋香は水面を見つめていた。





 緋香はかつん、と靴のかかとを鳴らして歩いている。人の姿も見えない、天の回廊。そこは、脩琉の部屋から続く回廊だ。かつて、幾度も緋香が通った道。
 かつん、かつん、と靴のかかとの音が鳴る。他に誰の足音もしない。声もしない。
 緋香がこつ、と小さな音を立てて立ち止まり、すぅっと視線を回廊の外に移す。

 映ったのは、緋色の砂。
 紅い、風。

 そこには、女神の姿は一つもなかった。
 いるのは『元』女神の姿だけ──