見つめる大地





 じっと見つめる影がある。大地を砂が流れていく様を、ただじっと見つめている影がある。
 色とりどりに飾られた鮮やかな世界だった場所は、今では傾く柱と崩れ落ちた天井、大地は砂が埋め尽くし、あれほど豊かだった緑はほぼなくなっていた。かつて、女神たちの神殿であったその場所は、沢山の女神や、女神に仕える者、女神になる少し前の者が集まり、楽しく過ごしていたところだ。だが、今ではその影も形もない。
 あれほどいた女神たちはどこへ行ったのだろうか。
 あれほど幸せそうだった女神たちは。

「……緋香」
「……香歌、殿?」
「久しぶりね。私がいるとは思わなかった?」
「ええ……いえ、いるとしたら、香歌殿と、籐梓殿と"知って"いましたから」
「……そう」

 緋香がそう言うのはあたりまえと言えばあたりまえだった。彼女は、『読み解く者』である。この天の世界を、あの地の世界を。
 だから『やがて』来る『今日』のことを、彼女が知らなかったはずがない。
 ──けれど。

「どうして、止めなかったの?」
「……どうしてでしょうね」
「あなたは知っていたはずね。そして止めることも出来たはずよ」
「知っていました。けれど、止めることは出来なかった」

 静かに緋香は呟いた。香歌はその緋香の言葉に驚いて目を丸くしていたけれど、あえて問うことはせずに、緋香が言葉を続けるのを待っていた。
 彼女は『風』の女神。しかも『風』の女神の第一位に属する者だった。脩琉のように、次代の女神たちを束ねる者になるだろう、と望まれていた。それが緋香である。それなのに、緋香は天が朽ちていこうとしている天を止めなかった、と言う。
 『止められなかった』のか『止めようとしなかった』のか、それは緋香にしかわからない。香歌は何も言わずに、緋香を見つめている。

「──私は、滅びが見たかったのかもしれない」
「……え?」
「緋色の砂が踊る。私はそれを知っていた。そしてそれを読み解くこともした。そこに銀のいかづちが降りることも知っていた。天にそれらが訪れ、すべてが壊れていくのを私は知っていた」

 くつりと緋香は微笑む。頬がこけて表情は焦燥に彩られている。目の下には黒い線が入り、心が病んでいるように見えた。けれども、彼女の言葉はどれもこれもはっきりしていて、迷いがない。
 緋香、と香歌は呟いた。

「紅は私の好きな色なのです。香歌殿は知っていらっしゃいましたか?」
「……ええ、聞いたことはあるわ」
「銀のいかづちが空にとどろき、あたり一面が緋色に染まる。やがてそのいかづちを収めるかのように豪雨が降り、その雨滴によって地は緋色に染まる。流れつづける、神々の血によって。そして、紅の風が吹く」
「……紅の風……まさか、あの風は、緋香の風……!?」

 ええ、と緋香は頷いた。
 やがて天を守るべき者になるはずだった緋香が、その手で天を滅ぼす風を起こしていたという現実に、香歌は言葉を失った。
 女神たちは『守る者』である。人であれ、神であれ。けれども、彼女たちは『壊す者』になっていた。少なくとも、籐梓と、香歌は。そして、その二人が『滅び』を連れてきたその時に、緋香もまた『守る者』ではなくなったのだ。
 俯きがちの緋香が腰に佩いた剣に手をかける。
 そして突然それを鞘から抜いた。

「緋香?」
「この剣は、神々を、人々を、守る為のものだったのです。かつて、大神より頂いた天の剣……私は知っていた。大神より聞かされていたのです」
「何を……?」
「"お前は、やがて天において唯一つの者となるだろう"」

 "──お前は、やがて天において唯一の者となるだろう。
 ただし、それは二つの道がある。すべてを助け、すべてを愛し、優しさに満ちた者。
 あるいは、すべてを殺し、すべてを滅ぼし、破壊を願い続ける者。
 いずれの道を選ぶのかは、この大神には見定められぬ。だから、この天剣を佩け。この天剣を持って、お前は神々を守ることを誓いなさい。人々を守ることを誓いなさい。それが、お前が善なる者であるための戒めとしよう。
 もし──お前が善なる者でいることが出来なくなったそのときには、天の剣は血の剣になるだろう。緋色に染まり、天剣の神々しさは消え失せる。そして、その時にはお前と同じ緋色の血塗られた道を歩く者が現れるだろう。出来れば、お前がそのような道を選ぶ日が来ないことを願っている。"

 道は、ふたつあった。紛れもなく、大神の言葉の通りに、二通りの道が。そしてそれを選ぶのは、緋香自身であった。緋香自身が願うことで、戒めることで選ばれる道。どちらが正しいとも間違いとも大神は言っていない。けれども、決して大神は『滅び』を願うことはないはずの大神だからこそ、緋香にその道を選ばないように、天の剣を授けた。
 だが、時間とはなんと無情なことか。
 大神のその言葉を知っていてなお、緋香は道を選んだ。
 ふたつの道があった。緋香はそれを知っている。そしてその道から逸れることなく進んでいる己を知っていた。けれど、最後に選んだのは──

「大神もまた"知る"者だからね」
「籐梓殿……」
「緋香、あの紅の風はあなたのものだね。炎は……誰かに頼んだのかい?」
「…………いいえ、私はこの道を選んだ時点で、風の神ではありませんから」
「それはどういう意味だ?」

 突然現れた籐梓に緋香が驚いたのはほんの一瞬だけである。籐梓が生きていることは知っていたからだ。
 緋香は籐梓から視線を逸らす。
 もう一つの真実。

「"滅ぼす者"である我らはすでに神ではない。いかづちの神でもなく、降雨の神でもなく、風の神でもない──そう言いたいのだろうか」
「いいえ。いえ……それも紛れもない事実ではありますが。──籐梓殿と香歌殿、お二人は、私の生まれをご存知ではないようですね」
「……知らないわ」

 香歌が頷くと、籐梓もまたこくりと頷く。天界一の美貌を持つといわれた籐梓の瞳は、未だいかづちが瞳の奥に宿っているのか、その色は銀色に輝いていた。

「……私は大神の子なのです。それを知る者は数少ないですが、大神がすべての力をその手に持っていることはご存知かと思いますが……私には大神の炎がこの手に得ずとも、身のうちに宿っております」
「大神の子……?!なら、あなたは脩琉さまに並ぶことも……」
「それは私が辞退させていただいたのです。私は主柱に入るつもりはなかった」

 目を丸くして香歌が見ると、緋香はわずかにまつげを落として静かに微笑んだ。
 大神の子、ということは女神たちの地位の中で誰よりも高いものになるはず。脩琉と並び、それよりも上になってもおかしくはないはずなのだ。
 けれど、緋香はそれを辞退したという。理由については、触れようとはしないようで、それ以上の言葉は何も出てこなかったけれども。 

「生まれもっての性質……ということかな」

 籐梓が首を傾げて緋香を見る。
 伏せられた瞳はすっと開かれて籐梓を見つめた。

「ええ、とても稀に、ですけれども。神が子を産むということは、その子はそのまま神として名を連ねます。私の父は大神でした。そして母は"月読"の力を引いていた。ですから私は風の神になることもなく"読み解く"力を備えています。ただ、それでは何かと問題が起きるだろうということで、大神が私を風の神に任命したのです。天では風神が"読み解く者"でしたから。そして神ではなくなった今──この手には風の神の力のみが残り、そしてこの身すべてに炎を宿している」
「……遺伝で、そんなことが」
「普通、神の子ならば片親の力だけを授かることが多いのです。ですが、私は両方受け継ぎました。本来ならば炎神となる身ではありましたが……"読み解く"力、"月読"の力があったがために身に宿る炎を隠して風の神となり"風読み"をしていたのです」

 だから、緋香が炎を起こし、紅の風が起きるのはなんら異常なことではないのだ、と緋香は言う。いまや、その手から零れ落ちるのは炎と風だけなのだ。
 風の力は緋香の身にもともとあったものではなく、風の神となるべく己を鍛えて得た力だ。もちろん、大神の手により授けられた力でもあるけれども。だが今はすでにその風の力は緋香の身に宿っている。緋香の身体そのものに根強く備わっている。だから大神がいなくなった今でも──彼女は風の力を使うことが出来る。

「ですから、私が炎の風を呼び起こせるのは何も変わったことではないのです。これまで、その力を封じていただけですから」
「……己の意思で」
「ええ。ただ……私は己の意思で"守る者"ではなく"滅ぼす者"になった。あなた方と同様に」

 緋香のその言葉に、籐梓と香歌は息を呑む。
 籐梓がいかづちを起こす日が来ることを知っていた。
 香歌が雨で生きとし生ける者を刺し貫く日が来ることを知っていた。
 そして緋香は──炎の風を呼ぶことを躊躇わなかった。

「血塗られた道を共に歩くものが現れる、そう大神は言いました」
「……緋香」
「それは、私たちのことだろうね」
「ええ。きっと大神は知っておられたのでしょう。籐梓殿と香歌殿がいずれ天を滅ぼすのだと」
「……知っていてなぜ、私たちにこの役目を」

 その力を自分たちに与えなければ、大神の統べるこの天が滅ぶことは無かっただろう。
 銀のいかづちが天を貫き、鋭い雨が神々を貫くことはなかったはず。そして、その力を与えないことは、大神にはできた。
 『大神』なのだから。

「それは"滅び"を願っていたからですよ」

 くつり、と緋香は笑った。
 瞳は冷たく輝き、天界一といわれた籐梓の美貌にも今は勝るかもしれない。その冷酷さが、緋香をより美しく見せている。それに気付いた籐梓と香歌は、ごくりと息を呑んだ。
 "滅び"を願う? 誰が?

「大神が、"滅び"を願っていたからです」
「……そんな、馬鹿な」
「ありえないとお思いですか? では、なぜありえないと? 大神だから、と仰るのか。では大神ならば"滅び"を願わないのは、何故です」
「何故、といわれても……」
「大神が神々を生み出した。そしてその神々から我々が生まれた。なぜその天を滅ぼすことを願うのだ」

 香歌は言葉に惑い、籐梓はきり、と緋香を見つめた。
 そして籐梓の言葉に、緋香はくつりと嗤う。

「大神が神々を生み出した。そしてあなた方が生まれた。人の世も生まれた。作り上げたなら──あとは、壊すだけですよ」
「緋香……!」
「新しく何かを始めるなら、それまでのものは滅ぼすしかないでしょう?」

 だから。

 する、と緋香は腰に佩いた剣を鞘から抜いた。そして切っ先を籐梓と香歌に向ける。

「すべては、ここで終わる」
「……それは、私たちを殺し、あなたが天を作るということか、緋香」
「いいえ。天を作るのは大神だけ。大神にしかその大事は成せません」
「何を言っているの、大神はもう……」
「お隠れになったと? あなた方は本当に……良い女神たちだ」
「……それはどういう」
「知る必要はありません。知ってもあなた方はもう──」

 にこりと緋香は笑う。
 そして次の瞬間には鞘から抜かれた剣には血の色が滲んでいた。

「──これで、よろしいですか、大神」

 からん、と剣が落ちる音がする。
 膝からくず折れた緋香は幸せな笑顔を浮かべていた。
 天に浮かぶ空を見上げ、瞳から透明の水を流して────




 "──お前は、やがて天において唯一の者となるだろう。
 ただし、それは二つの道がある。すべてを助け、すべてを愛し、優しさに満ちた者。
 あるいは、すべてを殺し、すべてを滅ぼし、破壊を願い続ける者。
 いずれの道を選ぶのかは、この大神には見定められぬ。だから、この天剣を佩け。この天剣を持って、お前は神々を守ることを誓いなさい。人々を守ることを誓いなさい。それが、お前が善なる者であるための戒めとしよう。
 もし、お前が善なる者でいることが出来なくなったそのときには、天の剣は血の剣になるだろう。緋色に染まり、天剣の神々しさは消え失せる。そして、その時にはお前と同じ緋色の血塗られた道を歩く者が現れるだろう。
 だが、破壊への道がお前の前に開かれたとき、それは我が願いと思え。お前は、血塗られた道を行かねばならぬ────"

『出来れば、お前がそのような道を選ぶ日が来ないことを願っている』


 それは私の願いだったのです、父神よ────