北の調べ




 異形の姿を持つもの、それは人によって『鬼』
と呼ばれる。いや、この時代ならば『バケモノ』
か。その異形の姿を成すものを『鬼』
というのは、あまりこの時代にはいないだろう。『鬼』
と言われて想定するのは角があり、牙があり…棍棒でも持っているのではなかろうか。けれど、彼の言う『鬼』はそれではない。角があり、牙があるものもいるだろうが、決して思い描かれる『鬼』の姿とは異なる。

「でも、おにだよ」

 彼はそう言った。きょとん、と目を丸くして彼は言う。あれは、鬼だと。角もないし、牙もない。棍棒も持っていないし赤くも青くもない。けれども、鬼だ、と。彼の友達は彼をうそつき、と言った。彼の親はそれを言ってはいけないと言った。納得は出来なかったけれど、彼はそれを人に言うことをやめた。うそつきと言われるのは嫌だったし、親に怒られるのも嫌だ。だから、彼は言葉を閉ざした。

「おにがいる」

 それを言わなくなって、彼は言葉を失っていった。笑顔を失っていった──。


 ◆ ◆ ◇ ◇

 

 京都の秋空には赤い葉が揺れている。そこかしこの木々が紅葉し、葉は緑から黄色へ、そして赤くなりやがて土に還る。この季節の風物詩とも言えるその見事な紅葉が、身近に迫っている。ここまで葉が赤く染まれば、まもなく冬も訪れるだろう。
 そんな、秋の一日に。
 今日も彼は、叫ぶ。

「晴明、手伝えーーっ!!!」

 陽射しが夏から秋に変わろうとも、成明の叫びは変わらない。そして空に浮かぶ晴明もまた変わらない。相も変わらず成明は怨霊がいることを晴明に指摘されては調伏する、という毎日の繰り返しである。
 けれども、その成明もいくらか変わってきた。
 怨霊の姿を捉えることがすばやくなった。術を繰り出すのがすばやくなった。
 そして、晴明への毒舌が減った。
 それは成明の成長かどうかはわからないが、少なくとも晴明がにやりと口の端をあげる機会が減ったということでもある。子孫の成長を見るのは楽しいものだが、いくらか物寂しい気がしなくもない晴明だった。─もちろん、そんなことは成明には言わないが。

『お前、気付いたなら早う倒せ』
「簡単そうに言うなーっ!」

 そう言いながらも成明の手は印を結んでいる。早口に呪言を唱え、指先を怨霊に向け、天に掲げる。それと同時に、怨霊はしゅう、と姿を消していく。

「しまっ……!!」
『成明みたいなことをするなよ』

 すい、と晴明は空を駆け、成明の術から逃れようとした怨霊を捉える。ぱちん、と晴明が指を鳴らすと、その怨霊は固まって動かなくなった。逃げようとしていたのは一目瞭然、雑鬼の類が早々に逃げ出して生き延びようとしていた。もちろん、それを放っておくわけにはいかない。
 雑鬼だとしても、一応は成明を狙ってきたもの、いつそれがまた成明を狙ってくるかはわからない。その雑鬼だけならばまだ良いだろうが、他の鬼を引き連れて来られたらたまったものではない。逃げようとしていた鬼は晴明の術に囚われ、まったく身動き出来ずにいる。

『成明』

 晴明の呼びかける声を合図に、成明が調伏術を行使した。
 光の中に鬼の姿が溶けていく。調伏された怨霊がその後どうなるのかは成明は知らない。そしてそれを知っている晴明はそれを成明に教えようとはしなかった。

「俺みたいなことってどういう意味だよ」
『お前らしいということだ』
「なんだとぉっ!」
『雑鬼を取り残すあたりがお前らしいではないか』
「別に俺だって好きで逃がしているわけじゃないっ!」
『好きでされたらたまったものではないわ』

 くつりと晴明が笑った。それを見てむぅ、と成明は晴明を睨みあげる。けれどもちろん、そんなものは晴明には通用しない。すい、と上空を駆ける晴明は知らない振りをして成明よりいくらか前を飛んでいる。
 もしもこの晴明の姿が見えるものがいたならば、おそらくは何だアレは、とひと騒動起こるところだろう。けれど、晴明のあの姿が視界に映るような人間はもうほとんどいない。かつて、そういった力を持つものが居た時代ならば、それを見て感嘆するだろうか。いや、おそらくは異形の者と恐れられるに違いない。成明が。

「ところで、晴明」
『なんだ』
「あれから晴明神社の呪詛はどうなったんだ?」
『投げ文は梨花のものであったし、それに蓄えられた呪詛の元は断った。あそこはもう落ち着いているだろうよ。それより成明、お前は自分の心配をしたほうが良いのではないのか』
「俺? なんで?」
『……お前、梨花の言葉を忘れたのか』
「ああ、俺が狙われてるんだっけ?」

 さらっと成明は言う。なんてことのないように。それを聞いた晴明は呆れたような顔をして成明を見下ろしている。

「平気平気。だって俺を狙ったって晴明いるし」
『……何を言ってるのだ、おれは手は出さぬぞ』
「え、マジ?」
『当たり前だ。なぜおれが狙われているわけでもないのにおれがやらねばならぬ』

 うーん、と成明は一度首を傾げ、次の瞬間出たのは

「俺、子孫だし」

 というにこやかな笑顔だった。そしてそれを聞いた晴明は絶句する。晴明を頼っているとは絶対に言わない。成明だからこそ。けれども、そうして言う言葉は、晴明にいくらか甘えているのだろうか。少なくとも、晴明には嬉しい言葉でもあった。

「でも、俺を狙ってどうするつもりなんだろ。フツーの人間なんだけどな」
『お前が普通だというなら他の人間がどうなる』
「え? 違うのか?」
『こんなしち面倒くさい問題を起こすやつが普通だなどと腹抱えて笑ってやるわ』
「しち面倒って…」

 じとりと成明は晴明を見上げる。晴明はふい、と素知らぬ顔で表を背けた。
 成明は平安時代の帝の生まれ変わり、そして晴明の子孫という生まれである。そして本人は陰陽道を修めている。怨霊にとってはいい器でもあり、けれど厄介な人間ということになる。けれど成明自身はそんなことはたいした問題ではなかった。というよりも帝の生まれ変りだかなんだか知らないがなぜ今の自分が狙われなければいけないんだ、と理不尽な感覚さえ持っているようだった。成明は自分がどんな生まれであろうとも、自分が自分であるという以外何も持っていない。
 それは、ある意味最強の意思であった。
 晴明や成明が対峙する『鬼』とは人の心の異変でもある。怨霊であったり、鬼の姿をしていたり、人の姿をしているものや獣の姿をしているものもある。そしてそのどれでもなく、ただ凝り固まった思念である場合もある。異形、という生き物ももちろんいるが、一番厄介なのは人自身が作り出す『鬼』であった。その『鬼』とは心に宿るもの。強い意思があるものほど、その意思が崩れたときには危険となる。だが成明のようにただあるがままという意思が強いものは『鬼』が宿り難いのだ。わかっていて成明がそういった心持ちになったのか、もともとの性質なのかは誰にもわからない。
 けれど、彼が鬼に好まれ易く、けれども近寄りがたいということは晴明にもわかっている。それがすべて、心の力のせいだということも。

「……あれ?」
『どうした、成明』
「なんか…聞こえる……」

 いくらか眉間に皺を寄せて難しい顔をしたまま成明はきょろりと首をめぐらせた。人影はない。まして大きな音も聞こえない。けれど確かに先ほど音が聞こえたのだ。かすかな、歌声が。

「……晴明」
『どうした』
「何か…聞こえないか」
『何か……?』

 成明に言われて晴明もまたきょろりと辺りを見渡す。
 けれど、辺りに広がるのは穏やかな静けさ。成明の言うものは聞こえては来なかった。成明に聞こえて、晴明に聞こえないもの。どちらかといえば逆ならばあり得るが、それはこれまであまりないものだった。興味深げに晴明が成明を見ていた。成明は小さく呟く。

「……おに?」
『成明?』
「おにがいる、おにがくる……って」
『…なんだ、それは』
「わかんねぇ。でも、そう言ってる声がする。小さいけど……子供みたいな声で……泣いてる……みたいだ」
『おにがくる…』

 鬼がいる。鬼が来る。子供の泣き声。
 晴明には聞こえないその声が言う言葉はどういった意味を持つものか。晴明は思案している。成明はそれの出所を探っている。きょろりと首をめぐらせて辺りを見るが、見渡せる辺りに子供の姿は一切見えない。
 どこだ。どこからだ。
 成明はじっと声に耳を傾けつつ、視線を動かしている。

「北……北の方から、声がする」
『北…』

 成明と晴明は2人揃って北の方角を見る。視線の先にあるのは下鴨神社。その手前には深い森が、糺の森がある。まさか、子供が森で迷っているのではないだろうな、などと思いながら成明は駆け出した。晴明は空中からすう、とその方向へと向かっていった。
 空は夕焼け色に変わっていて、まもなく暗くなるだろう。たとえ相手が大人であっても、あの暗がりの森は恐怖に感じるものである。今ではそれこそ街灯もあるので少しはましだが、それでも参道から少し外れて森の中に入ってしまったらそれこそ暗くて恐怖が襲ってくるだろう。しかも声の持ち主は子供なのだ。

『成明、急げよ』
「急いでるっつーの!」

 そんなときでも怒号のぶつけ合い、というよりも成明が一方的に怒鳴るのだが。
 空をすい、と飛んでいく晴明は視界を凝らす。子供の声など聞こえはしないのだが、成明が聞こえるというならそうなのだろう。何の疑いも晴明にはない。それは成明の力であり、晴明はそれぐらいの力が成明に備わっているということをわかっているからだ。ただひたすらに北上する。辺りが暗くなる、その前に。せめてまだ夕日が残る、その間に。鬼と何かが起こる、その前に。子供を見つけて、守らなくては。

 ──時は黄昏、逢魔が刻。いつ、鬼が子供を攫うかわかりはしない──。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 声はいまだ成明に響いている。けれど、それは異常である。なぜなら、成明にしか聞こえないからだ。晴明にですら、届いていない。下鴨神社へ続く糺の森の道を歩いている人の誰も、声が聞こえているようには見えない。人は普通に歩き、普通に広い通りに出て行こうとしている。夕暮れ時も空が藍に近づいてきた時刻、訪れていた人たちも帰途に着くところなのだろう。成明たちはその人たちとは逆に、下鴨神社へと足を向けている。
 ──誰も、『声』には気付いていないかのように。

「晴明、やっぱり聞こえないか?」
『おれには聞こえぬ。もともと人ではないからかもしれぬが……だが、人にも聞こえておらぬようだな』

 道行く人を晴明は眺めやる。家族で訪れている人、恋人と来ている人、観光で来た人、様相はさまざまだ。けれど、誰一人として何かおかしなことが起きている、と感じている様子はなかった。

「俺の気のせいか?」
『いや、そうとは言えぬ。仮にもお前は陰陽師だからな』
「仮って……仮だけどさ」

 複雑な表情をして晴明をちろりと見上げてからまた成明は視線を動かす。声の聞こえるほうを探っているのだ。かすかな、小さな声。それはこの糺の森についてからも大きくなることはなかった。それもまた、おかしい。声が聞こえる方向へ近づいているはずなのに、近づいている気配がしないからだ。
 けれど、成明は確信を持っている。この辺りだ、と。
 おにがいる、おにがくる…そう言って泣いている。それだけが、成明に聞こえる。

「……俺だけって、おかしくないか?」
『何がだ』
「俺が陰陽師だから、っていうなら晴明に聞こえてもおかしくないだろ」
『実体がないからなんとも言えぬ』
「でも、実体無くても俺の声は聞こえるんだろ? やっぱりおかしいじゃないか」

 それが、普通の『声』ならば。
 普通の人の『声』ならば。
 他の人に聞こえているはずだろう。
 それが、異形の『声』だとしても。
 晴明に聞こえず、成明にしか聞こえないといのはおかしいだろう。

「あーもう、わけわっかんねぇ。とにかく探すしかないか」
『成明』
「んー?」

 成明がきょろきょろとしながら空返事をする。けれど上空にいる晴明の表情は固い。いくらか険を帯びているようだった。薄く赤い唇は、いつものような笑みを含んだようには見えない。瞳は真剣で、かすかに眉間に皺を寄せているようだ。……実体が無くても皺がきざまれるのならば、の話だが。

『どの辺りから声がする』
「えっと……この先、だな。森の中だ」

 参道にはそういった人影はない。だから森の中だということは検討がつく。けれど、この糺の森は広大である。鬱蒼と木々が折り重なるように伸びている。参道さえも光があまり通らない始末だ。この中を子供が一人で入る……あまりありえないことだ。
 それでも、声は中からする。奥から聞こえる。

「入る……しかないよな」
『まて、成明。お前はそこにいろ』
「え?」
『式を飛ばせ。人でなくて良い、様子をみることが出来るものを』
「式でいいのか?」
『お前が入って出て来れなくなったらどうしようもない』
「あ、そうか」

 それもそうだ、と頷いた成明はポケットから白の懐紙を出す。小さなペーパーナイフでそれを切り、空に飛ばした。紙が変化し、鳥の姿に変わる。小さな鳥が5羽。声も発することなく森の中に消えていった。
 このあたり、と指し示したところを基点に鳥を飛ばした。成明はその基点で鳥たちを待っている。子供を見つけるのを。

「……つか、夜の森って薄気味悪……」
『神域なぞ、唯人であれば昼でも薄気味悪いものだ』
「そうか? 昼間なら明るいし、気分いいんじゃね?」
『お前は唯人ではないからわからぬさ』
「いや、俺ただの人だし……多分」

 なんということもない会話をして、鳥を待つ。
 見つけてくるのは、子供か、鬼か。それは成明にもわからない。声の聞こえない晴明にいたってはわかるはずもない。それでも、結果を待つしかない。今は、待つことしか出来ない。
 ふたりは、じっと森の奥を見つめていた。




  15話 * BACK * NEXT