優しさの色



──はやく、きて。はやく、きて。
   はやくしないと……おにに、なる……!


 声、というものは聞こえる者を選ぶものではない。それを成明は覚えているのだろうか、と浮遊しながら晴明は考えていた。確かに、近くに居たわけでもなく、遠くから聞こえる思念のようなものなのだから、相手を選ぶかもしれない。そういったものが聞こえる者、という意味で。
 けれど、それで言うなれば、成明に聞こえずとも晴明には聞こえる、という方がありえるとは思わないのだろうか。
 晴明は、すでに鬼籍の人なのだから。
 晴明は何も言わず、すぅ、と森の中を浮遊して進んでいる。地上を歩く成明は、そのあとを追いかける形になってついて行っている。声が聞こえるのは成明だ。けれども、その成明が声の方向を示し、晴明はその示された方向へと先に進む。
 子供の声が自分ではなく成明にしか聞こえない、という異変は晴明にとって警戒するには十分の理由だった。
 もちろん、成明が晴明の子孫であり、晴明の力を色濃く継いでいるというのは晴明が誰よりも認めている。成明の父よりも、その晴明自身が、だ。けれど、霊体とも言える状態の晴明に思念が届かずに、成明に届くとはどういう異変だ。思念、ということは、最も霊体の状態に近い声だというにも関わらず、より似た状態の晴明にはそれは届いていないのだ。

「おーい、晴明ぇー」
『間延びした呼び方をするな』
「だーってさっきからいくら声を掛けても返事しねえんだもん」
『それで、何だ』
「子供の声の持ち主、って話、しただろ?」

 成明は晴明を見上げて、すぐに足元に視線を落として話し始めた。晴明はすいっと成明近くに降りてきて、すぐ横で浮遊している。まるで、一緒に歩いているかのように。
 けれど成明は視線をあげることもなく、そのまま足元を見ながら歩いている。

「もしもこの声の持ち主が妖で……俺を誘き寄せようとしてるんだとしたら……やっぱり俺、何かされたりするのかなぁ」
『だろうな。わざわざ呼び出しておいてさよーなら、とはゆかぬだろう』
「だよなぁ」
『妖ならば、見に行くのをやめるのか』
「いや? 別にそういうわけじゃない」

 普通ならば、わざわざ戦いに、というか襲われに行くことになるかもしれないのだから、そう思った時点で引き返すだろう。けれども成明は、当然のように言って首を傾げる。

「迷子だったらやばいじゃん」
『……まあ、たしかにそうだが、それはありえぬと思わぬのか、お前は』
「うーん、確かにこんな森の奥で迷子ってのもないとは思うけど。普通だったら森に入る前に引き返してるだろうし」
『……それでいてお前にだけ声が聞こえるのなら、尚のこと尋常のことではないと思うが』

 そうだな、とさらりと成明は認めた。
 彼に聞こえる声というものが、通常ありえないものだということは理解しているらしい。そして、その声の持ち主が普通の人ではないことも理解しているのだろう。けれど成明はそのまま足を進めている。止まるつもりなど一切無いかのように。

『それを分かっていてもお前は行くのだろう?』
「そりゃまあ、一応ね。相手が鬼だとしてもさ、そのままにしといたらまずいだろ」
『で、何を聞きたかったのだ、お前は』
「いやー、何か襲われたりしても、相手が子供だったら俺、戦えんのかなぁ、なんて思って」
『…………』

 もしも、相手が普通の子供の様相ならば。
 成明がこれまで相手にしてきたのはいかにも鬼、という形相だったり、白骨だったり、人ではなかったり。見た目が普通の人間だとしても、その中に巣食う鬼や、完全に人になりきっている鬼だとしたら。
 ……まだ、成明にはそういった敵との対面の経験はない。
 それを思い出した晴明は、思わず声をなくした。
 もちろん、相手が鬼ならば、人の姿をしているものだろうとなんだろうと対峙しなければならない。それを退治することが彼の生業だ。けれどそれをするには、成明は優しすぎる。そう晴明は感じていた。これまで幾度も思ったことがあるそれは、決して悪いものではない。けれども、その優しさが命取りになる場面もなくは無い。陰陽師というのは、感情に敏感でなくてはならない反面、感情に流されてはいけない。己の感情をコントロールする──それに長けなくてはならないのだ。
 今の成明はどうだろうか。そう考えると、決してその点に長けているとは言い難い。成明の持つ自然体の優しさは大切なものだとわかっている。わかってはいても……その優しさが強さに変わるほど、まだ成明は陰陽師としての経験を積んでいない。

「まぁ、なんとかやっては見るけど……いざとなったら晴明が頼りだからな」

 本当ならば、そんなことは言いたくもないだろう。それが分かるだけに、成明の苦い笑顔が突き刺さる。己の力を知っているが故に出る言葉は、良く理解しているとも言えるが、己の無力を晒さなければならないもの。たとえどんな人間でも、無力を人に晒したいとは思うまい。

『どれだけ人の姿を取っていても、お前ならばそれが鬼かどうかは見極めることが出来る。相手が鬼であれば──決して、気を抜くな。本当に鬼かどうかが見抜けないようであれば、この晴明が守ってやるさ』
「……ん。頼むな」

 それを祓いたいから頼むのではない。それを助けたいから頼む。
 成明が霊を祓うのは、それを助けたいがため。それによって害をなされる人間のためではなく、亡者のためだ。亡者が生者に害をなすから祓うのではなく、妄執に取り付かれた亡者を安らかにさせてやりたいのだ。もちろん、人を守ることも念頭にあるのだが、ただ叩き伏せるように祓うのは誰よりも成明が嫌っていた。
 相手が鬼という生き物だというなら話は別だけれども。

「せめて、亡くなった人にとり憑かれたとかじゃないと良いけどな」
『そうだな』
「……っと、もうそろそろ、かな。あの"目"で見たのはこの辺だと思うけど」

 進むにつれて成明に聞こえる声ははっきりとしてきている。それでもやはりその声の主には近づいているのかどうか良くわからなかった。声が大きくなることはなく、ただ、その言葉がはっきりしてくることで近づいている、と測っているにすぎない。──何と言っても、人の気配がないのだから。

「晴明」
『そこにおれ』

 すい、と晴明が少し高く浮遊し、前に進む。森の中は鬱蒼と暗がりが広がっていて、重苦しい空気が立ち込めている。それまでもこの森の中は暗闇に包まれていたけれども、成明が感じるそれは普通の闇とは違うものだ。成明や晴明が感じるもの──それは、陰陽師の直感、触感。
 常と違う闇が、ここにある。
 成明はこくりとつばを飲み込んだ。手に汗をかいているのがわかる。人じゃない。人の持つ気配ではない。人の持つ空気ではない。人のいられる闇では、ない。
 浮遊して晴明が先に進んだほうをじっと見ている。空中に残る軌跡は、成明にわかるように晴明が残したものだろう。成明はそれを見つめて、晴明が戻ってくるだろう空を見つめていた。

『たすけて……たすけて……おにが……』

 呟くようなそれは消え入りそうに弱いものだ。それまで聞こえていたような弱いけれども強い願いのようなものが成明には聞こえている。近づくにつれてはっきりとしてはきたけれども、大きさとしてはどんどん小さくなっている。怨霊か、それとも怨霊に憑かれた子供か。このあたりにある気配からは後者とは思えなかったけれども、人の気配を消してしまうほどの怨霊ならば、後者もありえないことはない。そしてもしも後者、とり憑かれたのならば、憑かれた人の方はどんどん衰弱していると見られる。人である己を失いそうになっているのだろう。
 そう思った成明は、ぎり、と唇を噛んだ。
 安らかな眠りを与えたい。そう願いながらいつも祓っている。それでも、怨霊というものは安らぎを求めるよりも存在を求める。人という器を奪ってまでも。そういうものだというのは、わかっている。それでも、これまで対峙したことの無かった、人から姿を奪った鬼がいたら……果たして、安らかな眠りを与える為に、などと言えるのだろうか。
 今の煮えたぎるような想いを考えると、到底それは無理そうだな、と成明は思った。生者を守りたいが為、亡者を守りたいが為。どちらの為かといわれたら、おそらく今ならば生者のためだと声を大にして言うだろう自分を、理解していた。

『成明、来い』
「晴明? え、お前戻ってこない気かよ」
『早くしろ』

 晴明の声だけが響く。それもまた成明にしか届かないものだ。もちろん、ここに秋陽がいれば話は別だけれども。
 ──そうだ、秋陽。
 ふと成明は思い出して、とっさにポケットの携帯電話を手にした。使い慣れた携帯電話。発信履歴の一番最初を選んで発信をする。

「あ、秋陽? オレだけど」
『どうしたの、成明から電話なんて珍しいね』

 電話の向こうで面白がっている秋陽の顔が思浮かぶ。なんだか複雑な心境だ。確かに自分からはあんまり電話をしたことが無かった気がする。多分秋陽に他意は無いのだが、自分の行いが行いなだけにちくちくと責められているような気もした。

「悪い、ちょっと聞きたいんだけど」
『なあに?』
「糺の森あたりで、なんか"見え"るか?」
『糺の森? なんでそんなところにいるの?』
「ん、ちょっと。またそれは詳しく別の時に話すよ」

 わかった、と返事をした秋陽は、その日見た夢の話をした。
 夢の中では子供が彷徨っていたという。けれど、それはどこなのか判別がつかず、まして子供が何かを訴えているようにも見えなかったと。だから秋陽は異変として感じ取らなかったのだろう。なんのことはない、普通の夢だと。

「その子供、何か言ってたか」
『ううん、何も。泣きそうな顔で歩いていただけ』
「……そっか」

 おそらくは、その子供だろう。けれども、それが何を示しているのかまでは成明にはわからなかった。子供はさまよい、歩いている。何かを訴えるわけでもなく。一致するのは子供と森、というだけだ。

『あ、そういえば……』
「ん?」

 子供の手に、変なあとがあったよ。あざみたいなもの。色がない夢なのに、手だけ色があったから変な感じがした、と秋陽は言う。
 夢や星で先見をする秋陽の言葉。本当にそれがこの糺の森で起きていることに関係があるのかどうかは分からない。だが、秋陽の先見の力は稀有なものだと保憲も晴明も驚いていたことを成明は知っている。だから信用できる。成明自身にも、直感のようなものがある。その"手"に何かある、と。
 それが何を意味するのかと成明は考えた。すぐに答えは見つけられなかったけれども。

「わかった。サンキュ、秋陽」
『ううん。役に立った?』
「ああ」
『良かった。あ、成明』
「え?」

 ────気をつけてね。
 その一言で、成明には十分だった。思わず顔がほころんでいる自分に少しだけ驚いていた。そんなに、緊張してたのかな、と。
 わかった、と返事をして成明は電話を切った。そしてそれをジーンズのポケットにしまいこみ、足を進めた。
 森の奥へ。
 晴明の光の導を辿って、声のする方へと。



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