近いひと。



 春眠暁を覚えず、とは良くぞ言ったものだ。この季節、朝なんか来なければいいのに、と思ったことは何度もある。もともと寝起きの悪いオレとしては、春に限らず、というのはあるけれど。

「こぉら、ハル! まだ寝てるのっ」
「……っせえなぁ」
「……なんか言った?」

 思わず寝ぼけて言ってしまったのだが、トーンががっつり下がった声が聞こえてきた。
 ──ヤバイ、蹴られる。
 そう思って動き出すのには一瞬遅く、その蹴りは思ったとほぼ同時に飛んできた。

「いつまで寝てんの!! 起きなさいっ!」

 蹴りと同時に布団を剥がれて一気に寒気が襲う。何も布団まで剥がなくてもいいじゃないか、と思うのは仕方のないことだろう。

「……さみぃ」
「あんたね、いつまでも寝てると太るよ?」
「……うっさい、くそババァ」
「…………」

 無言のままごんっと頭を殴られた。何か理不尽な気がするのは気のせいじゃないだろう。起きたばっかりなんだから寒いに決まってるし、寝起きにごちゃごちゃ言われたらうるさいに決まってる。っていうか自分でそれをされたらものすごい怒るくせに。

「ハル、早く下行ってご飯食べてどっか行ってきなさい。あんたほっとくとごろごろして邪魔だから」
「……邪魔って」

 早くいけ、と追い出されたのでしぶしぶ部屋から出て階段を下りる。リビングには妹が同じように飯を食っていた。

「おはよー、お兄ちゃん」
「はよ。ってお前今ごろ飯かよ」
「お兄ちゃんに言われたくないね」
「……それもそうだ」

 自分だって今起きたのだからそりゃ言われたくないだろう。きっとおんなじように母親に起こされた妹に同情をしながらオレは椅子に座る。テーブルにはしっかりとオレのご飯も用意してあって、それが普通になっているというのはさすがに甘えすぎだろうか、と思えるところもある。
 まあ、そう思えるようになっただけ成長した、というだけであって、決してそれがなくなって欲しいとか一人暮らししようだとかいう気はさらさらない。
 今日も働いてる父さんに感謝、そしていつもご飯を作って洗濯してくれてる母さんに感謝。
 学生のうちぐらい甘えててもいいだろう、と勝手に理由をつける。学生が終わるまであと一年(の予定)、それを過ぎたら──どうするんだろう。
 ふと考えたけれど、今はまだあんまり考えたくなかった。

「お兄ちゃん、今日はどっか行くの?」
「あー…さっき母さんにどっか行けって言われたしなぁ……」
「お兄ちゃんも言われたんだ。あたしもー」
「っていうか父さんは? 今日、仕事休みだろ?」
「知らない。出かけたって言ってたけど」

 仕事人間という印象の強い父は平日はもちろん、休日もあまり家にいない。それでも昔、妹が小さかった頃とかは結構一緒に遊びに行ったりしてたんだけど、さすがに妹が高校生じゃ……嫌われてないだけマシ、ってところだろう。



 出かけてくる、と母さんにひとこと言ってから家を出てきた。どこに行くあてもないのだけれど、どっか行けと言われたからには家でごろごろしてるわけにもいかない。まあ、折りよく今日は天気も良いし、散歩がてらに歩くのは悪い気分はしない。
 外は良い天気だし、風も気持ち良いし。やっぱり春っていいよなぁ。

「……ハル? こんなところで何してるんだ?」

 振り返ると、そこには親父が立っていた。そういえば、出かけたって言ってたっけ……。

「親父こそこんなところでどうしたんだ?」
「いや……まあ、ちょっと」

 はは、と笑ってごまかそうとするのがあからさま過ぎる。何か隠してるんだろうけど、まあ、子供相手に言えないこともあるんだろう。親だって色々考えるだろうし。
 ──とは思うけど。

「何ごまかしてんだよ」
「そういうわけじゃないけどな。ハル、どっか行くのか?」
「んー、別に決めてない。母さんにどっか行ってこいって言われたからさ」
「そうか」
「で、何」

 多分親父としてはごまかしたつもりなんだろうけど。悪いけど、そこまでアホじゃないつもりだし。まあ、どうしても、っていうなら無理には聞かないけどさ。一応これでも二十歳越してるんだし、そろそろ少しは話せるようになったと思うんだけどなあ。
 ……ま、親父にとってはいつまでも子供だろうから仕方ないか。

「そうだなあ。別に話せないってわけじゃないんだけどな……ちょっと座るか」
「ああ……」

 近くの公園に入ってベンチに座る。休みの昼間だというのに人影があんまりない。小さい子供とかはいまどき公園で遊んだりしないんだろうか……。ああ、小学校ぐらいになってたらもうゲームかなあ。……オレもそのクチだったし。
 親父はベンチに座ってからぼんやりとしている。もともとおっとりしたタイプだとは思ってたから別に驚きはしないけど、ずいぶんと穏やかだなぁ、などと思った。
 こんな風に親父と公園に来たのなんて、小さい頃ぐらいだろうからあんまり覚えていない。ずっと仕事人間だったからなぁ。家にいることは少なかったし、朝もオレより早かったし、一日に顔をあわせないってのも少なくはなかったし。……うわ、オレって親父と接点ねえじゃん。いまさら何話したら良いのかわっかんねぇ。

「……ハルも大学四年か……来年は卒業だな」
「まだ一年ある、っていうか、まだ四年になったばっかりじゃん」

 気が早いよ、と笑うとそうだな、と親父も笑った。
 ──何か、親父ってこんなだったっけ。
 おっとりしてるな、とは思ったけど、何か仕事人間、って感じでちょっと怖かったような気がする。それにもっと何か……

「そろそろな、父さん、仕事やめようと思ってるんだ」
「……は?」

 突然切り出した言葉にオレは思わず素っ頓狂な声をあげた。だって、そろそろってなんだよ、まだ現役バリバリな年なのに。オレはまあ大学あと一年だし良いけど、妹はまだ高校だぞ。大学なり専門なり行くだろうし、そんな悠長なこと言ってて良いのか?

「やめるって言っても、仕事しないわけじゃないよ。今の会社を辞めて別の仕事をするんだ。ちょっと友人から誘われててな」

 しばらく前に会社を辞めた友達とかいうのが新しく事業を興したらしくて、その友達に一緒にやろうと誘われているらしい。その話を聞くために今日は出かけていた、ということだった。
 ただ、その仕事というのも最近出来たばかりの会社だからまだどうなるかなんて先が見えないところがあるらしい。だから少し迷っている、と。

「まだお前たち学生だしなあ、もう数年してからなら良いかと思ったんだけど……何しろ、出来たばっかりの会社だろ? あと数年、なんて言ってたら父さんみたいな年寄り要らないって言われるかもしれないしな」
「年寄りって言うほどの年じゃねえじゃん」
「はは、そうでもないよ。もういい年だ。お前が大学生だもんな」

 いつまで経っても親父から見たらオレは子供だと思う。だから、そう考えるとオレが大学生って……なんかすごく年とったような気がした。オレがそう思うくらいなんだから、親父からしたら余計にそう思えるんだろうなぁ。

「まだ元気なうちに、そういうのやってみるのも良いと思ってな」
「…………オレとしてはまだまだ親父が元気でいてくれるつもりだけど?」

 何か弱気になってるみたいな親父を見てるのが少しだけ悲しくなる。そりゃ、自分が大人になるってことは大人だった人はもっと年をとっていくわけで。当然といえば当然だけど何か……すごく寂しくなってくる気がした。
 毎日、当然のように顔をあわせてる母さんだってオレが小さい頃よりは確実に年をとってるし、親父だってそうだ。周りの大人たち、みんなそうなんだ。大人になるって……そんなに寂しいものだったっけ。

 先に帰ってるな、と親父が言って公園を出て行った。一緒に帰るか、と言われたけど、そういう気分にもなれなくて。なんかぼんやりとしていたい気分だったから先に帰ってて、と言った。けど、実際残されて見ると、ものすごく寂しい気がする。
 いなくなる、ってどういうことなんだろう。どういう感じなんだろう。
 こんなにも毎日が当然のように流れてて、それがなくなるって、どんな風に感じるんだろう。想像でしか出来ないけれど──やっぱり、それはすごく寂しい気がした。
 そう思ったら、オレは走りだしていた。
 慌てて公園を出て、追いかけていた。小さい時から見ていた背中を。

「父さん」
「ん? どうした、ハル。どっか行くんじゃないのか」
「一緒に帰ろうかな、と思って」
「そうか」

 にっこりと笑ったその笑顔が、すごく優しく感じた。
 並んで歩くと、父さんと視線の高さがそんなに変わらないことに気がついた。何かそれが嬉しくもあり、寂しくもある。いつの間にか、身長だけは父さんとそう変わらなくなってたんだ。普通の家よりうちは会話とか多いほうだと思ってたけど、そんなことに今頃気付くくらいに、なにも気付いてなかったのかもしれない。

「好きなことしなよ、父さん。オレ、いるし」
「……ああ、そうだな。ハルがいるもんな」
「ところでさ、どうして父さんも母さんもオレのことハルって言うんだ?」

 そんな、小さなことから、少しずつ。
 いろんな話をしていこう。




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