『奇跡』を呼ぶモノ 2



 世の中には、自分の思い通りにならないことが多々あります。それは、生きている人間、しかも大人と呼ばれる人間であれば、大抵の者は知っていることでしょう。まあ、時に己を知らない愚か者も存在するぐらいですから、何でも思い通りにしたいとする愚か者も存在はするのでしょうけれど。
 ですが、人間の世は無常なものでございます。自分の思い通りにことが運べば、だれもが幸せになることでしょう。けれど、そうならないのが、この人間の世というものでございます。その人間の世の中で生きていくことの、なんと楽しいことか。
 わたくしは、お嬢様に感謝しなければなりませんね。たとえ短い期間と決まっていても、この人間の世で、楽しく過ごすことが出来るのですから。

「リュウ、何か良い事でもあったの?」
「良いこと……ですか? それはもう、いつでもございますよ。リュウはお嬢様のお傍で仕えていられるこの時が何よりも大切ですから」
「……白々しいことを言うのね」

 そんな冷たい目で見ても、わたくしには効きませんよ、お嬢様。もちろん、それをわかっていてなさっているのでしょうけれど。

「白々しいなどと、とんでもない。わたくしはここにいられることにいつも幸福を感じているのですから」
「それもまた白々しい気がするけれど、まあ、確かにあなたは楽しんでいるのでしょうね。けれど、タイムリミットまではあとわずかだわ」
「そうですね」

 タイムリミット。わたくしがここで執事という仕事をしていられるのは、あとわずか。本当に、わたくしにとっては、ほんの瞬きほどの時でした。セレツィオ家はそれなりに気に入ってはいますけれど、ここにお嬢様がいなくなるのでしたら、わたくしがここにいる必要はどこにもございません。
 ──そう、わたくしがこのセレツィオ家で執事をするのは、お嬢様が十七歳になるそのときまでなのですから。
 フィーネ・セレツィオ、天地に魅入られた子供。生まれたその時から、天に愛され、地に愛された子供。天使は彼女の生誕を祝福し、悪魔は人間の血でもって祝杯をあげたものです。
 天に愛された子供は、天使の中でも等級の高いアークが娶ろうとしています。地に愛された子供は、悪魔の中でも残忍と言われているダイロスが貰い受けようとしているのです。
 天地に愛された子供は、天地に愛される代わりに、人間の愛情から遠ざかってしまっていました。天地が愛するあまり、彼女の身の回りには、人間が寄り付けなくなってしまったのです。恐怖のために。まあ、その恐怖を呼び寄せたのは、天地だけではありませんでしたけれど……ね。

「フィーネ様、そんな憂い顔をなさらないでください。わたくしは必ずその瞬間まであなたのおそばにおりますから」
「そばにいて、第三の選択肢を与えてくれるのかしら?」
「さあ、わたくしには天地と争うほどの技量もございませんから……」
「よく言うわね」

 呆れたように笑うお嬢様ではありましたけれど、事実、わたくしはそれほど腕に自信はございませんよ。喧嘩になるまえに終わらせる自信ならありますけれど。アークとダイロスなどに遅れをとるわけにはいきませんからね。
 ──といっても、それを知るのはフィーネだけ。他の誰も知り得ない、天使のアークも、悪魔のダイロスさえも知ることが出来ない、『わたし』の真実。それを知っているというのに、『わたし』に向かって強気な言葉を吐けるフィーネは、本当に面白い娘だ。

「お嬢様、タイムリミットをカウントダウンすることに意味はございませんよ。タイムリミットが近づくとお嘆きになる前に、お嬢様のやりたいことをいたしましょう。今日は何をなさいますか?」
「やりたいこと、ね……。いまいち思いつかないわ」
「今日はお天気もよろしいことですし、少し外出してみましょうか?」
「外出なんかして、アークやダイロスが来たらどうするつもりよ。いやよ、わたしこれ以上変な生き物みたいな目で見られるのは」

 天地に愛されるがゆえに、人間の愛情から遠ざかってしまったフィーネ様。それが寂しくないはずがありません。フィーネ様はこの屋敷に住まう旦那様と奥様以外の人間からの愛情は、ひどく乏しい。見目も麗しく、心もやさしいフィーネ様が、他の人々に忌まれる理由はただ一つ。
 フィーネの周囲では、奇異なことが起こるから。
 当然、その奇異なことを起こしているのはアークとダイロス。彼らがフィーネを慈しむと、天地に何かしらの異変を起こす。フィーネに傾きすぎた愛情が、天地の軸をゆがませてしまう。
 そしてアークとダイロス、とうの本人たちはそれに気づいていない、というなんとも滑稽な状態だ。あれで二人とも高位だというのだからお笑い草だが。
 いつしか、人間たちはフィーネに近づくことをやめた。天地に愛された、麗しい娘をひとめ見てみたいという馬鹿な男たちは時折いるけれども、その馬鹿な男たちはほぼそろって無傷で帰ることが出来ずにいる。それも仕方ないことだろう、天地の愛する娘に手出ししようといううえに、ひどい者では、ただフィーネを笑いものに馬鹿にしていく者もいるのだから。
 ──そんなくだらない輩を、執事としても許すわけにはまいりませんからね。

「アークさまもダイロスさまも来なければ、お出かけなさいますか?」
「そうね、リュウとふたりだけなら、それもかまわないわ。お弁当を持って、ロアンブルク公園を散歩して、昼食にする。それなら、外出してもいいわ」
「かしこまりました、手配いたしましょう。お弁当に何かお食べになりたいものはございますか?」
「リュウに任せるわ。リュウはいつもわたしのその時々の好みを理解してくれるもの」
「お嬢様にお褒めいただけるとはうれしいですね。ではすぐに支度をさせましょう。お嬢様はここで少しお待ちいただけますか? すぐに手配を済ませて参りますので」

 わかった、とフィーネ様が頷かれました。本当ならば、同じくらいの年齢の子供たちと一緒に遊びたいのでしょうね。本当ならば、同じくらいの年齢の子供たちと一緒に過ごしたいことでしょう。
 けれど、それはいけません。あなたは、選ばれてしまったのだから。そうできないことをかわいそうには思いますけれど、それが許されることはないのです。

「フィーネ様にお弁当を作って差し上げてください。中身は……」

 きっと、お嬢様はこれで少し、笑顔を向けてくださるでしょう。




 太陽が空高くに上がるころ、ロアンブルク公園でわたくしとお嬢様はのんびりと散歩をし、緑の芝生がきらきらしているところで、座り込みました。本当はお嬢様をそんな地べたに座らせるのは戸惑いましたが、お嬢様が芝生に座りたいとおっしゃったので、一応ハンカチを敷いて座っていただきました。
 お嬢様はうれしそうに笑い、ちょこんとそのハンカチの上に座り込まれ、にこにこと笑っている。たかが散歩ではありますけれど、少しはフィーネ様のお心が落ち着かれたのでしょう。

「ねえ、リュウ。もしこんなところ、お父様に見られたら、リュウがしかられてしまうかしら」
「なぜです?」
「だって、芝生の上に座るなんて、淑女の振る舞いではないもの」
「そうでしょうか。旦那様は何もおっしゃらないと思いますけれど、そう考えると奥様のほうが怒りそうですね。けれど、怒られるのはわたくしだけではありませんから」
「あら、そうかしら? だってリュウはうちの執事だわ。わたしがそんなことをして、止めなかった執事が悪いと言われるかもしれないわよ?」

 まあ、普通のお屋敷の執事でしたら、そうなるのでしょうけれど。それはあくまで『普通』であったらの話なのです。そしてこのセレツィオ家は決して『普通』ではないのですよ、お嬢様。

「そうしたら、お嬢様がどうしてもとおっしゃるので、と弁明いたしますよ。一緒に怒られてくださいましね」
「……それってなんだかおかしい気がするわ。わたしが怒られないようにリュウが謝ってくれるんじゃないの?」
「わたくしが悪い部分ならばわたくしが謝罪しますけれど。お嬢様のためとあらば……といいたいところですが、これで怒られるならお嬢様も怒られなければ意味がありませんから」

 奥様がお怒りになるのでしたら、きっとフィーネ様のためであって、奥様の体面のためではないことはわかりきっていますし、何より、その行動をしたのはフィーネ様だからとフィーネ様の躾の一環でお怒りになるでしょうから、わたくしが怒られることにはなんの意味もないのです。
 セレツィオ家は、少し変わっています。人の世の中で、わたくしが知る貴族の中ではかなり変わっているように思えます。もちろん、わたくしはそれほど存じておりませんけれど。
 けれど知っている貴族の多くは体面を気にし、己の、もしくは家族の身分を振りかざしている者ばかり。そうは見えずとも、水面下の戦いは常に行われているように思えます。わたくしからすれば、その水面下の戦いそのものこそ、愚の骨頂と思えますけれど。
 けれどそれが現実。この人の世の中で、貴族たちは自分たちの栄華を競い、女たちは身を飾り、その華美さによって競い合う。どの世界でも、女性が着飾って美しく見せようとするのは普通だけれど、貴族社会においては異常と言えることも多くある。傍から見れば正気の沙汰とは思えない。まあ、私の趣味ではないし、人間がそれで栄華を誇ろうが、破滅しようが、どちらでもいい。どうせ、儚いものなのだ、人間など。
 おや、ちょっと素が出てしまいましたね、失礼しました。

「フィーネ様、奥様がお怒りになるとしたら、フィーネ様のためでございますから、きちんとお聞き入れくださいね」
「じゃあ、リュウは怒らないと思うの?」
「さあ、それは奥様にしかわかりませんよ。けれど、奥様はフィーネ様のことをよくわかっていてくださっていますから、それほど心配されることはございません」
「そうね……確かに、普通の家じゃ無理でしょうけど。ううん、普通の家ならなんということないわね、貴族の家じゃ無理ね。うちは、貴族でも変り種だもの」
「だからこそ、セレツィオ家は愛されるのですよ」
「わたしは愛されないけどね」

 セレツィオ家は、たいていの貴族とは違い、平民に近い感覚を持っていらっしゃいます。食事は長いテーブルで、顔も見えない距離なのに向かい合って食べることなど決して無いし(来客時は別だが)、旦那様も奥様も出来るだけフィーネ様との時間を作ろうとしてくださる。
 食事はシェフもいるけれど、普段から奥様もキッチンに立たれます。普通の母親はそうするものよ、と笑って。本当に、変り種です。
 だからこそ、わたくしはこのセレツィオ家にいようという気持ちになるのでしょう。もちろん、何よりの変り種のフィーネがいるから、というのはあるけれど、フィーネだけを見ているなら、執事にまでなる必要などどこにもない。セレツィオ家という面白い家だからこそ──その家の終わりを、見てみたくなる。

「そのようなことはございませんよ。フィーネ様は旦那様にも奥様にも大変愛されていらっしゃるじゃありませんか」
「そうね、わたしをかわいがってくれるのはお父様とお母様とリュウぐらいかしら。それでも、十分かもしれないわね。世の中には愛情を知る前に命を落としてしまう子供もいるのだから」
「……フィーネ様、少しお話をしましょうか」
「リュウ?」

 お嬢様が憂いていらっしゃるのは、刻限が近づいてきているからに他ならないのは存じております。お嬢様自身が選ぶことの出来ない、命の刻限。その先に、お嬢様に何が待っているのか、それを知る者はどこにもいないのですから。

「ある、金持ちの男がいました。その男は、人を騙し、お金を稼ぎ、それをもとにまた人を騙すためのものを買い、人を騙して、またさらにお金を稼ぐ。そうしてお金を増やして、生きてきた男がいます」
「……商売と考えたら、普通じゃないの?」
「騙していなければ普通ですよ。人を騙していると言ったでしょう?」
「ああ……そうね、きちんとした商売なら、騙すことはないわね」
「そう思いますか?」
「違うの?」

 売買するときに、騙そうとして騙す者と騙すつもりは無くても騙すことになってしまったということがあります。まあ、言ってみればその本人も騙されていたということになりますけどね、後者の場合。

「まあ、それは良いでしょう。男は、そうしてお金を増やして、財を築きました。それはもう、いち貴族と言っても良いほどのお金です。男はお金に囲まれているうちに、ある妄想をしました。これをもっと増やして、城を作ろう、と」
「勝手に作れば良いじゃない」

 ええ、確かにその通りです。作りたければ好きに作ればいいのです。お嬢様の仰ることは最もで、それがいかにお嬢様に興味のない話か明確にわかりますね。

「城というものものを作るという意欲だけならいいのですけれど、それを維持するとなるとそれを作った男は城主ということになります。城主というのは器量を問われるものなのですよ。城主たる器量がなければ、その城はあっという間に衰え、朽ち果てます」
「つまり、その男にはそれだけの器量がなかった、そう言いたいの?」
「その通りでございます。城主になった男の城はほんの数年で朽ち果て、男はすべてを失いました。さて、ここでお嬢様に質問です。城主とまで一度はなったその男は、どういう人柄だったでしょう?」

 きょとんと目を丸くされるところもお可愛いですよ。きっと、そんなこと知るはずがない、と仰るのでしょうけれど、『普通の人間』が考えることを思えば、それほど難しいことではありません。まあ、わたくしに対して『普通』は何の価値もありませんけれど。

「……どんな悪人でも、父親と母親ぐらいは愛してくれていたと思うわよ」
「おや、先読みしたようですけれど、お嬢様にしては『普通』すぎませんか、そのお答えは?」
「わたしはいつだって普通よ。普通の子供だもの」
「お嬢様が『普通』でしたら、わたくしはここにはおりませんよ。まあ、『普通』ならばそう思うでしょうけれど、お嬢様、世の中には子供を愛せない親だって存在するのですよ。そういう親子を見たことはございませんか?」

 親は子供を、子供は親を選ぶことは出来ません。いくら自分の家族だからといって、なぜ愛せると決まっているのです? 愛せない親がいる。愛せない子供がいる。それは『他人』だから。家族であっても、それは自分ではないのだから、愛せないことがあったっておかしいことはありません。

「……そういう人もいるのかしら」
「いますよ、誰も彼も嫌いではないけれど、好きでもない。自身しか大切に出来ないという人間は存在します。その男は、父親からも母親からも愛されませんでした。その男も、父親と母親を愛してはいませんでした。どこか冷めた目で見て、両親は子供に怯えていたのです。その男は、人を愛せなかったのです。当然、愛されることもありません。人柄は……決して、良い人とはいえなかったのですよ。もともと、人を騙して財を築いた男ですから。それでも、騙すときにはとても人当たりの良い人物ではあったようですが」
「……それで、リュウは何を言いたいの」
「人間の世界には、親ぐらいは愛してくれていると容易に考えられています。けれど決してそれは現実ではございません。フィーネ様、あなたは旦那様と奥様に愛されています。それは、親だからという当然の愛情ではございません。当然の愛情など、存在しないのですから。旦那様と奥様という個々の人間が、フィーネ様という個人を、愛している。それは『親だから』ではございませんよ。あなたが、愛されるべき娘であったから、それに他なりません」
「……そう」
「はい」

 タイムリミットがある娘を愛せる人間がどれだけいるでしょうね? タイムリミットだけなら、憐れんで愛してくれる者も存在するかもしれませんが、フィーネ様の周りには常に天地の存在があるのです。周囲に奇怪な現象を起こし、その娘がいるだけで自分たちも周囲からは疎まれるのです。そんな娘を、愛せる人間がどれほどいるのでしょう。たとえ親でも、愛せない。それだけのことが、フィーネ様の周囲では起きているのですから。
 天使は人間にやさしいだけの存在ではありません。悪魔も、人を堕落に落とすだけの存在ではありません。アークも、ダイロスも、自分たちが人間たちに畏れられる存在ということを忘れているかのように、フィーネのことになると夢中になっている、厄介な男たちなのです。──まあ、おかげで余計な虫はつかずに済んでいますけれど……。

「ずいぶん回りくどい話をした気がするわ。つまり、わたし自身に問題があるから、周りはわたしを嫌うと言いたいのね」
「おや、そちらに受け取りましたか。何も悪い方を考えなくても良いでしょうに。フィーネ様が恐れられるのは紛れもなくアークさまとダイロスさまのせいですからご安心を。彼らがしゃしゃり出てくる前は、大変愛されておりましたよ、フィーネ様は」
「本当にそうかしら」
「本当にそうですよ。アークさまもダイロスさまも大変でしたからね、お嬢様に気に入られようと、年中こちらに降りてきてはフィーネ様をかまう人間を排除しようとしますし……」
「…………そんなののところに嫁入りしなくちゃいけないのかしら」
「さあ? それはフィーネ様次第、かもしれませんよ」
「わたしに選ぶ権利なんてないわよ」
「ございますよ。そのときがくれば、きっと」

 腑に落ちないお顔をされていますけれど、仕方ありません。それ以上はわたくしの口から申し上げることは出来ませんし、そのときが訪れないとどうなるかはわたくしにもわかりません。
 ──だって、その鍵はわたくしが持っているのですから。

「さあ、お嬢様。お嬢様を愛してくださる旦那様と奥様のところに帰りましょうか。これ以上ここにいると寒くなってしまいますからね」
「そうするわ。お父様もお母様も、リュウもわたしを大切にしてくれるのだから、わたしも大切にする。──あと少しの間だけど、ね」
「人間が生きる時間は、いつだって少しですよ」

 その先に生き残るのは、また別の人間と、この人間の世界に住まない者だけなのだから。




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