25:それより。




 外に出るのもいやになるほどの暑さと湿度。それでも、外に出ないわけにはいかない。当然のように仕事はあるし、生きていくには家の中にこもっているわけにはいかないのだ。
 ゆきはげんなりとした顔をしながら会社に向かっている。昼に出かけるよりも日差しは弱いかもしれないけれども、決して涼やかでもさわやかでもない、夏の日差しが照りつけていた。

「暑い……」

 うだるような暑さの中、ダークカラーのスーツを着込んで出勤するサラリーマン。頭がおかしいんじゃないか、とゆきは思う。
 確かにスーツでなくてはいけない事情も人によってはあるだろう。それはわかるのだけれど、何も通勤途中からスーツを着てくることはないと思う。客先でジャケットを羽織るなどをしてせめて通勤の途中ではシャツでいればいいものを、と思ってしまうのだ。もちろん、長袖のシャツでも暑苦しいのだが、さすがにそれは仕方ないだろう。それに半袖のワイシャツはあまり好きではない。なんとなく親父臭い気がしてしまうから。
 夏になってうれしいのは、洗濯をするときに天気がいいこと。うれしくないのは暑いこと、日差しが強すぎること、雷が鳴りやすいこと。冬生まれのゆきには、夏がとにかく苦手だ。
 そんな夏が苦手なゆきも、出勤ばかりはどうにもならない。日傘をさしてぐったりとしながら通勤している。
 
「おはようございます」
「あ、おはようございます」

 驚いた顔をしてゆきが声に反応し、挨拶を返す。
 通勤途中で同じ会社の人に会うことがはないとは言わないけれども、挨拶をされるのはあまりない。しかも後ろから来た人に突然声をかけられるのはゆきの苦手とするところだ。──どうも苦手だらけだが。
 この日、とても珍しく、同じ会社の同じ部署の人間が挨拶を交わしてきた。しかも、なぜか歩くペースが同じになっている。ということは、ゆきの隣に、挨拶してきた同僚──春日という──が歩いている。
 一緒に歩いているみたいでなんかいやだなあ、などと思いながらも、ゆきは黙々と歩いていた。

「暁さん、今日は忙しい?」
「は? ああいやえっと……そんなに忙しくはないと思いますけど……」
「じゃあ、ちょっと今日は仕事頼んでもいいかなあ」
「はあ、大丈夫ですけど……?」
「よかったー。頼める人いるか心配だったんだよねー。今日出かけなきゃならないんだけど、ちょっとデスクの仕事があってさあ」

 そんなに喜ぶことはなかろうに、と思いながら、ゆきは春日の話を聞いていた。彼は社内でもよくしゃべる方だ(ゆきと、ではなく誰とでも、だ)。ゆきは聞いているだけなので気は楽なのだが、歩きながらそんなにしゃべって疲れないのかなあ、などと思っていた。どこかとんちんかんな気がするのは、ゆきだからこそだろう。

「そういえばこの間、ちょっときいたんだけど……暁さんって、同棲してるってホント?」
「は!?」
「いやちょっと噂で聞いただけなんだけどね。なんでも結構かっこいい人だとか……」
「何言ってるんですか?」
「あ、ごめんごめん。ちょっと気になっただけだから、気にしないで。同棲とか、別に悪いとか思わないし、ほんとに気にしないでよ。ちょっとした興味みたいな……ほら、暁さんってあんまり自分のこと話したりとかないじゃない? いつもおとなしい感じだし」
「別におとなしいってわけじゃないんですけど」

 会社ではとくに話す人がいないし、改めて話したい人がいるわけでもない。特に用がなければ話すこともないというだけなのだが。……おそらくそういう考え方自体がおかしいのだろうが、そんなことはどうでもいい。

「そんな噂になってるんですか?」
「まあ、小さな範囲ではあると思うけどね。暁さんの謎な感じがね、どうも噂しちゃう感じがあって……」

 少し焦りながら、春日はごまかすように話している。
 それを他人事のようにゆきは聞いていた。適当に相槌を打ちつつ、いくらかげんなりした気分で会社に向かう。朝から気分は最悪だ。
 龍二と話しているところを坂上は見ている。そして少し前には同じ会社の人にも会った。きっと坂上が『もしかして』と面白おかしく話していることを、その同僚が『もしかしてあの人?』という感じで話は大きくなっているのだろう。そのくらいは簡単に想像はつく。
 だからといって、不快にならないわけではない。勝手に推測で噂をしないでほしい。
 ビルに到着すると、お先ねー、と春日は先に歩いて行った。興味本位に聞き出してみようと思ったのかもしれないが、あまりいい成果は得られなかったのか、春日はそそくさと離れて行った。
 そして、離れてほっとするのはゆきのほうである。おそらく今日、少なくとも午前中は坂上と春日、その他その周りに群がる人で春日の成果の話になるだろう。けれどそれはもうどうでもいい。チラ見されてこそこそ話されるのは慣れてきた。──慣れても気分のいいものではないけれども。
 そんなことよりも、会社に行く前のほんの少しののんびりした気分でいられる少ない時間。ゆきにはそれを取られるほうが迷惑である。せめて放っておいてくれ、というのが正直なところだ。
 ちょっとうんざりした気分で会社に到着した途端、携帯電話が音を鳴らした。どうやらマナーモードにするのを忘れていたようで、焦ってバッグから電話を取り出した。着信音から、メールだというのは分かっていた。
 
 
『おはよう、楠原です。この間はいろいろごめんなさい。
 ちょっと諸事情ありまして……今後はあんなことのないようにしますから許してくださいっ! お詫びに、がっつりおごりますから、今度飲みに行きましょう! お願いしますっ!!』
 
 驚いたことに、メールの相手は楠原だ。アドレスを交換したものの、メールが来たのは初めてだった。当然、ゆきから送ったこともない。
 そして『この間』というのは、龍二と食事に行ったあの時のこと以外にありえない。そもそも、楠原ともだいぶ顔を合わせていないのだから。
 それより、あの時のことで、最終的に気分を害したのは自分よりも龍二の方だとゆきは思っていた。
 確かに、楠原から変なことを聞かれたりしたのは気分が悪かったけれども、そのあと、龍二にかかってきた電話の方が、なにやら不穏な空気が流れていた。電話の向こうがどうなっているのかなど、ゆきが知るわけはないのだが、龍二のあれほど低い声をゆきは聞いたことがなかった。
 その後、ゆきと話している間に、その時のような低い声を出すことはなかったし、ひどく機嫌が悪いというようには見えなかったけれども、その後どうなったのかは聞いていない。
 
 
『おはようございます。それより、その後真幸さんは大丈夫ですか?』

 
 気になっていたそれだけを打って、メールの返信をした。
 おそらく、聞いても龍二は笑って『大丈夫だよ』としか言わないだろうことを、ゆきは感じていたからだった。
 
 
 
 ◆◇◆◇
 
 
 
「……それよりって言われた……」

 くすん、と泣きまねをしつつ、龍二にどっしりと寄りかかる。おわっ、と一瞬よろけたようだが、自分に被害はなさそうだったので知らないふりをしている楠原だ。
 
「なんだよクッシー。重いって」
「だってそれよりって言われたんだもん……」

 いやいやと龍二の肩に寄りかかりつつも首を振る。龍二には何のことだかさっぱりわからない。
 今日、この日は珍しく楠原と同じ現場に入っている。龍二のレギュラーで、楠原はゲストキャラだ。時間まではまだ少しあるので、龍二は台本を読み返していた。

「マサ、『それより』ってどーいう意味だと思う?」
「は?」
「だから『それより』の意味』
「それよりの意味? ってどういう意味?」
「だーもう、使えないなあっ」
「……ブッ飛ばしていい?」

 少々イラっとしつつも、そう言ったのだが、楠原はまったく聞いてない。さみしーっと、一人で携帯を片手に嘆いている。何をそんなに嘆いているのか、龍二には当然わからない。

「クッシー、とりあえず重いんだけど」
「だってオレ、ちゃんと謝りたかったのにっ」
「……だから、何を言ってるのかわかんないんだけど」

 はあ、と龍二が軽くため息をつく。と、楠原はがっしと携帯を握ったまま龍二の手をつかんだ。少し痛い。

「ゆきちゃんに『それより』って言われたんだもんっ」
「…………ゆきちゃん?」

 それまでどんなにアホなことを言っていても、適当に流してきた龍二だったが、その言葉だけは聞き逃さなかった。
 それを見て、楠原は笑う。心の中でこっそりと。

「うん、ゆきちゃん」
「なんでゆきちゃん? っていうかゆきちゃんってあのゆきちゃん?」
「あのゆきちゃんがどのゆきちゃんかわからないけど、たぶんそのゆきちゃん」

 龍二の驚いている顔を見て、楠原は笑っている。なかなかこんな面白い顔を見る機会はない。龍二の驚いた顔、というよりも、本気で『なんで?』と思っている顔が、楠原にとっては意外だ。そう見れる顔ではない。

「ゆきちゃんがどうかした?」
「いや別に」
「別にって感じじゃなかっただろ」
「いや大したことじゃなかった」
「大したことでもそうじゃなくてもいいけど、ゆきちゃんと連絡とってるの?」
「いや連絡ってほどじゃ」

 微妙にあいまいさを残していると、龍二がだんだん苛立ってきているのがわかる。それがわかるだけに、楠原は余計にあいまいに答えてしまいたくなるのだが、いつまでも続けてると本気で怒られる。

「この間のこと、謝るのにメールしただけだよ」
「……わざわざ掘り返したの?」
「掘り返したっていうか、まだちゃんと謝ってないし。一応メールだけでも先に、と思って」
「そっか。それで? 返事きたの?」
「それが、『それより』なんだってぇ」

 ゆきから来たメールの返事を龍二に教えると、龍二はきょとんと目を丸くした。楠原が謝っておこうと思ってメールをするのは悪いことではない。が、ゆきの返事にはそれには一切触れられていないのだ。楠原も、どう受け取ったらいいのかわからずにいる。

「そりゃ、マサにも悪いことしたなー、とは思ってるし、心配してくれたのかなー、とも思えるんだけどさ。オレの謝罪については何もないんだよね。まだ怒ってるのかなぁ」
「そんなことはないと思うけど……」

 この間、その話のあともずっと怒っているようには見えなかったし、それほど心配することはないだろうと思うのだが、その場に楠原がいたわけではない。心配になっても無理はない。
 それにしても、と龍二は思う。
 ほぼ間違いなく、ゆきが『それより』と言ってきたのは、楠原と龍二が喧嘩でもしないか気にしていたから、『それより』と聞いてきたのだろう。ゆきは別に、楠原に謝ってほしいとは思っていないのだろうから。
 それが、ゆきらしい。思わず『それより』と言ってしまうあたりが。
 そしてそれを少しばかりうれしく思ってしまうのが、龍二も重症かもしれない。もちろん、そんなことはおくびにも出さないようにしている。とはいえ、目ざとい楠原が気付いているかは、龍二に気づけるはずもないが。
 
「ってことで、今度の金曜日空けといてね」
「は?」

 突然けろっとした顔で楠原が龍二に言う。あまりに突然で、何が、という言葉すら出てこなかった。
 唖然とした顔で、いる龍二に向かって、楠原はにっかと笑う。
 
「もう夏だもんなー。やっぱ夏はビールでしょ!」
「えーっと……スケジュールは入ってない……から、ダイジョブかな」
「よし。じゃ、今回はオレプレゼンツね! サプライズゲスト楽しみにしてろよー!」
 
 そう言って、楠原はうれしそうにスタジオの中に入っていった。

「おーい……間違ってもそーちゃんをサプライズにするなよ〜……」
 
 その言葉が、聞こえていたかはわからない。




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