27:夏だから!




 電車を降りると、構内はむわりと暑い。日本の夏特有の高い湿度。なんというか暑苦しい。そして混雑。駅には会社帰りのサラリーマン、遊びに行く女の子、人によっていろいろ目的はあるのだろうけど、この暑さは多くの人が混雑する駅特有の空気であるかもしれない。
 そんな空気が、余計にテンションを下げる。少なくとも、ゆきにとっては。夏の暑さが苦手なゆきは、駅の湿度の高さは本当に苦手である。
 が、さすがに今日はそんなことも言っていられない。隣には龍二がいる。暑苦しさに不機嫌な顔をすることもなく、ゆきと龍二は待ち合わせ場所へと歩いている。

「場所、わかる?」
「えーっと……だいたいはわかりますけど」
「よかった、俺なんとなくしかわかんなくて」

 楠原が決めたという今日の飲み会の場所も聞かされてはいないらしい。当初は駅での待ち合わせ予定だったのだが、ゆきと龍二が遅れるということで、急きょ喫茶店での待ち合わせになったのだ。喫茶店なら、楠原も時間がつぶせるから、という理由で。
 ちやからは特に連絡は来ていない。ゆきが遅れると連絡したことに、了解、という返事は来ているけれども。
 そのちやが、ちゃんと到着しているのか気にもなっているので、余計にゆきは落ち着かない気持ちなのだ。

「ゆきちゃん、そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「え、あ、はあ、でも、待たせちゃってますし」
「大丈夫、楠原はもう着いてるし。ちやちゃんも特に連絡来てないんでしょ? ならちゃんと合流できたんだろうから」

 小走りで歩くゆきに、龍二が大丈夫だよ、と言うものの、ちやが楠原のことを覚えているか、心配でついつい焦ってしまうのだ。

「メールとか、来てない?」
「来てはいないんですけど……」
「俺の方も来てないしなあ。でも大丈夫だよ、たぶん。ちやちゃん、しっかりしてそうだし。それに、この混雑で下手に急ぐと……あっ」
「おわっ」

 ぶつかったりして危険だから、と言おうとした龍二の言葉は間に合わず、ゆきは盛大に向かってくるサラリーマンに激突してしまった。
 あわてて龍二が手を伸ばして支えたものの、危うく尻もちをつくところだ。

「ごごごごめんなさいっ」
「あ、ううん。俺は大丈夫。ゆきちゃんは?」
「だ、大丈夫です」
「よかった。でもね、ほら、危ないから。ゆっくり歩こう」
「そ、そうですね……」

(心臓に悪いっ!)

 なんとか平静を装ってはいるものの、ゆきの心境はこんなものだ。
 一方、龍二はというと、突然のことにとっさに手が出て支えることはできたけれど、ちょっと龍二の心臓には優しくない。とっさに、という形で、思わず抱きとめてしまった。少しばかり、心臓が痛いのも仕方ないだろう。

(ああ、びっくりした。心臓に悪い。ちょっとバクバクしてるよ、まったく……。思わず抱きとめちゃったけど……ゆきちゃん、変に思ってない…かな)

 ちらりと龍二がゆきを見ると、それほど変わった様子はない。ほっとしたような、ちょっとさみしいような、そんな気持ちになった龍二だったが、実際のゆきの心境は悟られなかったようだ。

「えーっと、何をそんなにみんな急いでるんでしょうねぇ」
「え、あ、うん、そうだね。俺たちとそう変わらないかもよ? あ、それとか、早くおうちに帰って彼女のご飯を食べるんだー、とか?」

 ぶつかったのが、ちょうど龍二やゆきより少し若そうなサラリーマンだったから、龍二はそんなことを言ってみた。なるほど、とゆきが頷いている。そういえば、自分も待ち合わせで急いでいるのだから、そういう人が他にいてもおかしくはない。

「でもサラリーマンめっ! って気分になりません?」
「たまにね」

 自分勝手な言い分なのは重々承知ではあるけれど、ついついそう思ってしまうものだ。おそらく、相手も同じように思っているのだろう。よけろよ、とか勝手なことを思っていたりするものだ。

「あ、真幸さん、あそこですよ……って、なんか……あんまり入りたくないんですけど」
「…………そ、そうだね」

 見つけた喫茶店の中、入り口近くの席で、大きくドアに向けて手を振っている楠原を見て、思わず通り過ぎたくなったのは、ゆきだけでも、龍二だけでもないようだった。

「ま、まあ、でもほら、そのままにしとくと他の人に迷惑だから」
「そ、そうですね……」

 なかなか酷い言われようをしている楠原は、そんなことは知るはずもなく、大きく手を振っている。向かい側に二人分の頭が見えるあたり、ちやと『サプライズゲスト』とやらがすでに到着しているのだろう。
 龍二が先に店に入ると、おつかれー、と楠原の通った声が響いた。

「お疲れ。クッシー、目立ちすぎ」
「え、そう? だってマサもゆきちゃんもこっちに気づいてくれないんだもん」
「気付いたけど通り過ぎたかったんじゃないの? 僕たちも別の席に行こうかと思ったもん」
「え、そんな酷い、瀬田さんっ」
「えー、僕だったら近づかない」
「ええええ!」

 うるさいよ、と瀬田がそっけなく言うと、楠原がしゅんとうなだれる。いつものこととは言えど、確かに喫茶店でこのテンションはちょっとうるさいな、と思った龍二は特にフォローも入れなかった。

「っていうか、玲くんがいる! クッシー、サプライズゲストって玲くん?」
「うん、まあ、ゆきちゃんもちやちゃんも知ってる人の方がいいかなって思って。でもそれじゃあんまりサプライズじゃないからもう一人いるけど」
「真幸くんも聞いてなかったんだ? ちやちゃんも全然知らなかったって言うから。そんなサプライズってほどのものじゃないのに」

 いやいや、サプライズでしょ。と龍二は思ったけれども、一応それは口にしないでおいた。
 そう言って楠原は携帯電話を確認する間に龍二とちや、瀬田とゆきも挨拶を交わしていた。ひとまず隣のテーブルに龍二が座り、その向かい側にゆきが座る。

「おつかれー、ゆきちゃん」
「お疲れー。ごめんね、遅くなって。ちや、すぐ待ち合わせわかった?」
「うん、楠原さんが同じ状態で手、振ってくれた」
「……それはそれは」

 ゆきはよくそこに近付けたな、と思わなくもないが、その場に瀬田さんもいたのなら、まあ近づけるんだろうな、きっと。そう思ったものの、とりあえず口にはしないでおいた。

「なんかまだかかりそうだって言うから、先に行こっか」

 携帯を確認した楠原がそう言って、伝票を片手に立ち上がる。瀬田とちやがコーヒー代を出そうとすると、ここはおごり、と笑った。困った顔をしたちやに、瀬田がご馳走になっておこう、と言って喫茶店を出た。

(……あれ。なんかいい感じ?)

 そんな光景を見たゆきが、ふとそんなことを思った。
 ちやが瀬田のことを気に入っているのは知っている。が、瀬田とは前回の飲み会以来なので、それほど印象がなかった。けれど、瀬田の持つ雰囲気がちやにそんなに悪い雰囲気ではない。

「それでクッシー、どこ行くの?」
「夏ならではのところ!」
「だからどこだよ」

 いいから俺についてこーい! などと言って楠原が意気揚々と歩きだす。どうもテンションが高い。

「まさかクッシー、まだ飲んでないよね?」
「飲んでないよ、失礼な」
「だって変にテンション高いじゃん。ね、ゆきちゃん」
「え、あ、いや……でももともと高めじゃ」
「いやいやそこは否定しようよ、ゆきちゃーん」

 ゆきの言葉に、楠原が思わずうなだれる。龍二はくすくすと笑っていた。

 
 
 
「夏といえば、はい。ゆきちゃん」
「え? あ、えっと……暑い?」
「いやまあ確かに。じゃあ、ちやちゃん、夏といえば!」
「は? えっと……海?」
「うんうん、海はいいよね、確かに。でもそうじゃなくて、こうして集まって、夏といえば!」
「楠原くん、しつこい」
「……すみません」

 不機嫌な顔でこそないけれども、少し呆れたように瀬田が言うと、楠原がしゅんとした。言いたいことが何か、なんとかフォローをいれようとしたが、この楠原の空回り具合が少し面白いのでちょっと黙っていた。
 が、それに気付いたのか、楠原が龍二に助けを求める。

「マサ、助けてよー」
「あ、ごめんごめん。夏といったら、やっぱりビール、じゃない?」
「ああ」
「なるほど」
「いや別に」

 ゆきとちやは納得したものの、瀬田は酒を飲まないので当然のように首を横に振っていた。飲まない相手にそれを問うのは間違いというものだ。
 さらりと否定されてしまった楠原は、少しさみしげにしたが、仕方ないよ、と龍二になだめられている。面倒だなあ、とちょっとばかり思ってしまったのは内緒だが。

「ということで、ここでーす」
「……ホテル?」
「の、屋上です!」

 ゆきの疑問形につなげるように、楠原が楽しげに言う。
 この季節のこのホテルでは、ビアガーデンが開催されているのだ。夏といえばビール、そしてビールならばビアガーデンが最高だろう、というのが楠原の言い分である。

「瀬田さん、ちゃんとジュースもありますから」
「まあ、そりゃあるだろうけど。寒かったりしないの?」
「ビル風次第です!」
「……どっかお店探そうかな」
「ええええっ」
「冗談。ちゃんとお誘いに乗ったんだから行くよ」

 瀬田はくすくすと笑っている。楠原をいじることをすっかり楽しんでいるようだ。
 ホテルの屋上階に行くと、賑やかなざわつきがすぐに感じられた。ホテルに入った時とは、空気が一変してしまうビアガーデン。会社帰りだろうサラリーマンや、恋人同士、友達同士など多数の客でひしめいている。

「うわあ、混んでますねぇ。私、ビアガーデンって初めて来た」
「そうなの? 私は久々だなあ」

 ちやとゆきが話していると、こっちだってー、という楠原の声が聞こえた。席を案内してくれるのは、ホテルの従業員なのだろうか、かっちりとした服装をしている。すれ違うたびにぺこりと一礼するのは、ホテルの決まりごとなんだろうか。そんなことを思いながら、ゆきは案内される方へとついて行った。
 用意された席に座ると、まずは、ということで四人分のビールと、瀬田の分のウーロン茶をオーダーし、お酒が来るまでにつまみを注文しよう、とメニューを決めた。楠原が。
 同じテーブルにいるが、すべて楠原任せで、ゆきは龍二と、ちやは瀬田と話をしていた。

「……なんか俺だけさみしい」

 ぽつりとつぶやいた楠原に気づいた四人は、何が? という顔をしていた。
 
 
 
 ほんのりと酒が入ってテンションが上がったころ、ちやが口を開いた。

「ところで楠原さん、もう一人のサプライズゲストって誰ですか? というか、まだ来ないんですか?」

 すでに少し時間が経過しているだけに、気になってしまう。あんまり遅いと、飲む時間もあまりないだろうから。
 すると、楠原はへらっと笑って、こう答えた。

「もうすぐ着くって連絡来たから大丈夫ー。かわいー子が来るから、期待しててねっ」
「かわいい子?」
「いい加減、誰なのか教えてくれてもいいんじゃないの?」
「内緒ですー。瀬田さんの質問なら答えたいところだけど、来るまで内緒!」
「何が内緒なのー?」

 そう言って、突然楠原の背後から現れたのは、色白で細身の女性。スーツを着こなして、すごく仕事が「デキそう」な女性だ。
 きょとん、と目を丸くしたゆきとちやがそれぞれ龍二と瀬田を振り返るが、彼らもその女性のことを知らないらしく、首を横に振った。

「おー、お疲れー。すぐ分かった?」
「ここまではね。上がってきたらこの人出でしょ。わかんなくて、うろついてたけど」
「そか、見つかってよかった。ほら、座って座って。あ、本日最後のサプライズゲストでーす」

 楠原はその女性を椅子に促すと、片手をあげて上機嫌で言う。女性はとにかくにこやかだが、他の四人にとってはサプライズゲスト、といっても誰も知らない状況だ。

「えと、その、クッシー。サプライズと言われても……」
「俺意外初対面だもんねー。当然といえば当然だけどー」
「サプライズ? なに、わたしが? ずいぶん嬉しくもなんともないサプライズだねー」
「俺はうれしいからいいの!」
「友一だけ嬉しくてどうするのー」

 楠原を『友一』と下の名前で親しげに女性が呼ぶ。と、ゆきは内心驚いていた。

(楠原さんって、友一って言うんだー)

 観点がズレているのは、いつものことだ。そして以前ちやに自己紹介した時に名乗っていたのだが、その時には気付かなかったらしい。

「こちらは冬木 美典(ふゆきみのり)。俺の彼女でーっす」
「はじめまして、よろしくー」
「……」
「……」
「……」
「……」

 その一瞬で、一同が一斉に黙ってしまったのは、なんでだろう? というのは、それからしばらく楠原が疑問に思ったことである。
 



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