森の奥




 すでにあたりは暗くなり始めていた。ここにたどり着いてからまださほど時間は経っていないはずだが、射しこんでいたかすかな西日はもう木々の向こう側に隠れてしまっている。藍色の空が色濃くなっていき、夜の帳が下りてくる。
 森の中で、成明はじっと森の奥を見つめていた。ただでさえ薄暗い糺の森。夜の帳が下りてくれば、より一層その暗闇は深くなる。普通の人ならばそのような場所にただ一人で立つのは避けるだろう。だが、成明はそこにいなければいけなかった。自分の『目』
が戻るまで。

『成明、声は』
「…まだ…聞こえる…でも、小さい。さっきより小さくなってる気がする…」
『……そうか』

 晴明もまた成明の隣で浮遊しながら森の奥を見つめている。晴明はすでに実体を持たない者。ゆえに夜の暗闇など、それほど気にかかるものではない。けれど、晴明の表情は緊迫している。気がかりになることは沢山あった。なぜ、成明にしか聞こえないのか。なぜ、子供の泣き声なのか。なぜ、『おに』というのか。今はただ、その子供を成明の式が探してくるのを待つしかない。

「…いた!」
『どこだ』
「ここからまっすぐ奥…え?ちょっと待て、どういう…なっ!」
『成明?』

 成明の様子がおかしい、と晴明が成明を見る。成明は目を見開いて森の奥を睨んだあと、驚いた顔をして硬直した。晴明が何度か成明、と声を掛けていると、成明の手元にふわりと白い紙が降りてきた。

『……それは』
「ど…いうことだよ、これ…?」

 空から降りてきた白い紙。それは成明が式として使役したものである。紙を鳥の形にかたどり、それに呪をかけて空に飛ばした。その式が、突然戻ってきたのである。
 子供を、見つけてすぐに。

「さっき…この式の"目"で子供を見つけたんだ。で、この鳥が近づいたら、影みたいになって…」
『さらに近づいたら、式がもとに戻った、ということか』
「多分…そうだと思う。戻るのは見えなかったからわかんねえけど…どうしてだ……?」

 仮の命を与えた白い紙片が、成明の手の中にある。戻るよう指示もしていないし、まして鳥の姿でなく戻ってくることがおかしい。─明らかに、式を破られた、ということだろう。
 けれど、この森の奥に誰かいるのだろうか。到底、人が入り込めないような場所。その森に、誰がいるというのだろう。
 いくら考えても答えは出そうに無い成明は、足を一歩前に出した。

『成明』
「だってまだ声するし。大体の場所はさっきわかったから大丈夫だ」
『……だが、先にひとつ確かめろ』
「なんだよ」
『その子供は、ひとか?』
「…え?」

 成明は目を丸くして晴明を見た。浮遊している晴明は、わずかに前に出て成明に振り返る。その瞳は真剣そのもの、成明を試したり、からかっている様子は無かった。
 そして、もう一度同じことを問いかけた。

『子供は、人か?』
「……どういうことだよ?」
『糺の森の、この参道の奥に、子供が一人で迷い込むのは考え難い。それでも声がするのならいるのだろう。だがそれは……ひとの子か、妖か。妖であってもおかしくはない』
「……そうかもしれないけど」
『妖ならば助けるな、といっているわけではない。妖ならばどう対峙するか決めよ、と言うている』

 ひとの子だと思っていったら鬼でした、なんて確かにしゃれにならない。そう思ったのか、成明は耳を済ませて、子供の声を聞き分ける。けれど聞こえてくるのは子供の声であることには変わりないし、言っている言葉も変わりない。

「わかんねえ。でも、妖なら"おにがいる"って泣くことはないんじゃないか?」
『…そうかも知れぬ。だが罠…ということも考えられなくは無い』
「罠?」
『お前をおびき寄せるための、餌。それがその子供かもしれぬ』
「……」

 こくりと成明は息を呑む。
 まさか、とは思う。何のために自分を誘き寄せたいのか、成明には心当たりがないからだ。
 けれど、いまさらあとに引くわけにはいかない。子供が人か、妖か。それだけでも区別をつければどうすれば良いのかもきっとわかることだろう。
 もう一度成明は耳を澄ます。その声は成明にしか聞こえないのだから、晴明に助けを求めようも無かった。いや、それ以前に成明が晴明に助けを求めることはしないだろうが。
 耳を澄まして聞こえてくるのは、子供の泣き声、そして木々の揺らぐ音。ざわざわと揺らぐ木々が葉をこすり合わせて音を立てる。それがよりいっそう恐怖を煽るのだろうが、成明にとってそれは恐怖の対象とはならない。薄気味悪い、とは思っても、それ以上はないのだ。暗闇迫るこの糺の森に恐怖を感じない、というのはそれだけで唯人とは言い難い。もちろん成明は認めようとはしないが。
 成明がぽつりと『あれ?』とつぶやいた。訝しげに首を傾げて晴明が成明を見ている。くい、と視線を上げて、成明が晴明を見上げた。

「なあ晴明……"おに"って言ったら、普通何のことを言うんだろう」
『……おに?』
「俺とか、晴明だったら、おにって言ったら妖だろ。物の怪とか。でも、子供が言うとどんなのがおになのかなぁ、と思って」
『おに、か……。この時代では鬼と言えば角があると聞いたことがあるが。空想の生き物のことだろう?』
「ああ、それは言われるな。赤鬼、青鬼とか」
『そういうものをおにと言うのではないのか』

 晴明がそう言うと、でもなぁ、と成明がつぶやいた。何か思うことがあるらしいので、晴明は何も言わずに成明に続きを促す。思案顔で成明は話始めた。

「子供はおにがいる、おにが来る、って言ってただろ?でも今聞こえるのは、おにになる、って……」
『おにになる?』

 ああ、と成明は頷いて、晴明を見上げる。浮遊している晴明は厳しい顔つきで考えている。それをじっと成明は見上げていた。

『おにになる、というなら人であったもの、か…?やはり、いずれにしても相手を見なければわからぬな……』
「ああ、そう思う」

 本来ならば相手が人か妖かだけでも見極めてから入りたい。それは予期せぬ危険性を出来る限り少なくするためであり、晴明としてもその気持ちは変わっていない。だが、それを見極めることができない。成明の力でできないからと言って、実体の無い晴明がおいそれと手を出すわけにも行かないし、なんと言っても相手が晴明には『見え』
ないのだからどうしようもない。

「まあ、行ってみるしかないな。大体の場所はわかってるし……一応、こいつを置いてって、と」

 土の上に紙片を置いて、成明は小さく呪を唱える。晴明は何も言わず、その様子を見ていた。式をここに配してこちら側への道を残しておく。もしも何かがあったとしても、それが導べとなる。それは先人が成明に教えたこと。遡れば晴明が教えたことである。意外と覚えているものだ、などと晴明は頼もしげに成明を見ていた。

「さて、行ってみるか」
『仕方ないな』
「そんなに心配だったら、晴明はここに残ってれば?」
『お前が一人で行く方が心配だとは思わぬか?』

 しれっとした顔で晴明は言う。何か反論してやろうと思いはするのだが、とっさに言葉が出てこなかった。成明としてはここに晴明が居てくれるほうが目印になる気がしていたのだが、そうもいかないらしい。というか晴明からしてみれば成明が一人でうろつく方が危険だ、ということなのだろう。
 そんな風に思われるのも癪なのだが、言葉がすぐに出ない時点で負けである。なんと言っても相手は晴明、とっさの対応が出来なければ負けることは確実。それはこれまでに十分わかっているので成明は何も言い返さず、心の中で反論するに留まった。

「晴明」
『何だ』
「とりあえず、行くぞ」
『ああ』

 土の上に置かれた紙片はすでにそこにはない。鳥の形を取って、傍の樹に飛び立ってそこでじっと成明たちを見つめている。
 成明はそれを認めて、うん、と小さく頷いてから振り返る。
 視線の先にあるのは、暗い闇。すでに暗くなってはいるものの、参道には明かりが灯されている。けれど、彼らが進むのはその明かりのないところ。より暗く、鬱蒼として見えるその森の中に、光は見つからなかった。


◆◆◆◆



 鬱蒼とした森の中は、清々しいまでの清らかな空気を保っている。辺りの熱量などまったく関係が無いのか、ひんやりとしていてどこか薄ら寒くさえ感じられる。光の射さない糺の森の奥など、成明は入ったことがない。
 そこにあるのは、とにかく静寂。光も無いことでより一層その静寂は恐怖を与えるものとなる。

「これで太陽の光とか入ってればもう少し気持ち良いんだろうけどな」
『そんなことを思うのはお前ぐらいだろうよ』
「え、なんで?」

 霊性の高さゆえに保たれる清浄な場所。とは言えども、そこか清浄かどうかなど、普通の人には測り知ることは出来ないだろう。その身をもって感じることの出来る成明だからこそ、清らかだと、光があれば気持ちが良いなどと思える。普通の人ならばこの深い森に入るなど、昼間でもお断りするに決まっている。それだけ霊性が高く、人を寄せ付けない。
 けれど、成明にその自覚は無い。ゆえに、成明は唯人とは違う、と言えるのだ。

「あー……近くなって…来た?」
『おれに聞くな』
「ずっと聞こえてるからなんか変な感じなんだよ。遠くても近い気がする」
『それはお前の耳がおかしいのではないのか?』
「うるせっ」

 くつりと晴明が笑う。実際、子供の声は、成明にしか届いていない。だから晴明に訊ねても無駄なことはわかっている。わかっているのだが、思わず訊ねてしまうのは仕方の無いことだろう。
 耳に届く音が、他の人に聞こえない、と言われても実感など持てるものではなかった。
 つい、と晴明が成明の一歩前にでて浮遊する。

『向こうか』
「ああ、まっすぐ……って先行くなよ!!」
『少し先に様子を見てやろうという思いやりではないか。良いからおとなしくついて来い』
「なんか……むかつく……」

 声も聞こえないから晴明は場所がわからない。
 それなのに。
 どうして自分が付き従うような形で進むことになるのだろう。
 成明には理不尽に思えて仕方が無かった。
 とはいっても、浮遊している晴明に、歩いている成明が簡単に追い越せるはずもない。というか追い越してもまたすぐに追い越されるのは目に見えている。とりあえず晴明を見失わないように成明は足を進めた。
 がさがさと枝を分けて、その間を潜り抜ける。
 子供の声は、次第に近づき、成明の耳元で言っているかのようにも聞こえる。

──はやく、きて。はやく、きて。
   はやくしないと……おにに、なる……!

 子供の声は、成明にしか届かなかった。成明にだけ、届いていた。




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