散りゆく日



 さわさわと風が吹く。桜並木がかすかな音を立てて揺れている中で、桜を見上げてたたずんでいる人影がある。風が桜の花びらを舞わせていて、その舞う花びらは音もなく人影の上に降りていった。
 ひとひら、花びらが落ちる。
 そしてその上にまた、ふわりとひとひら。
 繰り返すそれを、ただじっと影は見つめていた。なぜそこでそうしているのか、問う人はいない。こんな場所で夜桜を楽しむような物好きな人はそうはいないからだ。
 日中でもあまり人が来ることのない、静かな墓地に程近い場所。普通の人ならば不気味がって近づかないそこは、夜桜としてはすばらしく美しい場所ではあるのだが、いろいろと不気味なうわさもあるために人が寄り付くことはない。まして桜の季節も終わりに近づいている今の時期に。
 そんな場所で、彼はひとり桜を眺めていた。
 まだ花びらが舞ってはいるけれども、それもまもなく終わるだろう。緑色の葉が少しずつ見えてきている。
 彼がそこにたたずんでから、すでに一時間が過ぎようとしている。一時間の間、ただずっと彼はそこに立ち尽くし、時には空を見上げ、桜を見上げ、足元に目を落とし、軽いため息をつく。そんな繰り返しをしながら、彼は呆然とそこに立っているのだ。何かを、待っているように。

「……今日も、無理かなぁ」

 ぽつりと呟いて、彼は桜を見上げる。
 いくつもの桜の木のうちのひとつを、彼は両手を広げて抱きしめる。その桜の木はそれほど大きくはなく、彼の両腕で一周してしまう。
 彼は、まるで愛しい人を抱きしめるかのように桜の木をそっと包み込み、頬を木の肌に触れさせた。まだ、ひんやりとしている春の夜風が、彼と桜の木を撫でていく。それを感じても、彼は寒さを感じない。ただ、木の肌の冷たさと、木の鼓動を感じているだけ。

「いつ来れば会えるんだろう……」

 彼はたった一人に会えるのを待っている。ここで立ち尽くすのは、その待ち人と会ったのがこの場所だったからだ。ここ以外の場所ではその人と会ったことがない。初めて出会ったのがこの場所で、それ以降に会ったのもこの場所だった。だから、待ち人がここ以外ではどこにいるのか、彼は一切知らない。
 唯一、待ち人と彼をつなぐのが、この桜の木の下であり、それ以外に彼らのつながりはどこにもないのだ。
 だが、彼はその人を待つ。どこの誰とも知れない、ただ『オウ』という名を持った女性だということしか彼は知らない。
 彼女は自分のことを語らない。いつも彼が仕事の愚痴やその日にあったことを語るのを静かに聞いているだけだ。かすかに微笑んで、いつも物静かに相槌をうつ。時には励ましの言葉もくれるし、悲しげな顔もする。けれど、彼女は自分のことは一切語らない。
 そして、彼はふと思ったのだ。
 彼女は、この木の精なのではないかと。
 そんな夢のようなことを考えた自分を笑いはしたけれど、彼はそれまでこの桜の下でしか彼女に会ったことがなかったし、彼女からはいつも桜の香りがする。初めて会ったときにも桜の木の下ではあったけれども、足音などはまったく聞こえなかったりしたのだ。だからこそそんなことを考えてしまったのだが、あまりにもロマンチスト、というかドラマとか小説とかの見すぎだろう、と自分を笑った。
 ──ただ、否定する要素が、見つからなかったけれど。

「……こんばんは」

 彼が木に抱きついたまま俯きがちになったときに、背後から声が聞こえた。はっとして彼は振り返る。そこには、淡いピンクの服を身に纏った彼女──『オウ』がそこに立っていた。待ち人が、現れたのである。

「オウ……やっと会えた……!」
「どうして…………来たの?」
「どうして……? どうして、ってそれは……」

 ただ、彼は会いたかっただけなのだ。オウに。けれどその彼女は彼の目を見ることはなく、どこか悲しげな顔で俯いている。長いまっすぐな髪がさらりと降りていて、彼女の顔を隠してしまう。

「……もう、私は来ないって……言ったでしょう?」
「でも……」

 最後にオウと会った日、彼女はもうここには来ないといっていた。二度と会うことはないだろう、と。もちろんそれは忘れてなどいない。けれど、彼は会いたかったのだ。だから毎日のようにその桜の木の下に足を運んで、そこで彼女を待っていた。人があまり寄り付かないといわれているだけあって、誰かと会うこともない。それはそれで気楽なものだった。
 桜が満開だった日に、オウはそう言って去っていった。現れるときは気付かないけれど、その後姿だけは見送ったことがある。それはいつも彼が先にこの場所に居るせいだろう。

「……オウは、俺には会いたくないってこと?」
「…………」

 オウは沈黙で返した。何も言わず、何も語らず、彼女は去っていこうとしている。それは彼にも十分にわかっていた。
 いつも、自分のことは語らずに、彼の話を聞いている彼女。
 言葉はいつも少なくて、ただ微かな笑顔で答えてくれる彼女。

「オウが……いやなら、もう来ないよ。でも今日だけは、付き合ってくれるだろう?」
「…………」

 言葉でこそ返事はなかったけれど、彼女はこくりと小さく頷いた。良かった、と彼が微笑むと、彼女はやっと彼を見て微かに微笑んだ。
 いつものような仕事の愚痴は話さなかった。ここ数日あったことや、天気のこと、季節のこと、そんな他愛ない話をいくつもしていた。オウは頷いて、相槌を打って、微笑んで。いつもと同じように接していた。

 ──これで、最後。

 その言葉が、怖かった。
 会話が途切れて、帰るという言葉が出たらもう最後だということを彼は知っていた。感じていた。だから、彼はずっと話し続けている。彼女と、別れの時が来るのを少しでも遅らせたくて。彼女が最後だと言うのを聞きたくなくて。

「……もうすぐ、桜も終わりだね。桜が終わると……あっという間に夏になるなぁって気がする。オウは桜、好き?」
「……あまり好きじゃない」
「好きじゃない? どうして?」
「…………すぐに散ってしまうから」

 それまでの微かな微笑みを消して、オウは呟いた。けれどそれ以上もそれ以下も何も答えてはくれない。俯いて、いくらか悲しげな顔をしていた。
 桜の季節は確かに短い。一ヶ月とないだろう。けれどその一ヶ月の間に綺麗に咲き誇り、次の春まで静かに眠る。緑の葉をつけて、夏は次の春に花を咲かせるために栄養を蓄えて、そして秋、冬と静かにそのときが来るのを待っているのだ。
 短い春を、桜はその短い時の中で精一杯咲き誇る。儚いけれども、やはりそれは美しいものだと、彼は思っていた。

「でも、短すぎる」
「そう……かな」
「短い。一ヶ月あるかないかなんて、あっという間に時間が過ぎてしまう。次の春までがどんなに長く感じるか……あなたにはわからないでしょうけれど」
「……オウ?」

 悲しげな瞳が、桜を見上げる。もう緑が少しずつ芽吹いていてその葉は桜の花が終わるのを待っているのだ。次は自分の番だぞ、と。

「……もう、帰るわ。今度こそ、お別れ。私はもう、ここには来ない」
「本当にもう……会えない?」
「ええ。もう、二度と……」

 そう言ってオウが踵を返す。彼に背を向けて一歩、足を踏み出そうとしたそのとき、彼は彼女を呼びとめた。

「オウ……最後に、教えてくれないかな」
「…………何?」

 彼女は振り返ることなく、答えてくれた。そのことに少しだけほっとして彼は言葉を続ける。

「オウって……どういう字を書くんだい?」
「…………桜」

 小さな声が答えたと同時に、強い風が吹きぬける。
 ぶわりと吹いた風が桜並木の花を大量に散らせてしまう。桜吹雪を巻き起こして桜が木から離れていってしまう。あたり一面が桜色で埋め尽くされて、その桜が落ちて辺りが見渡せるようになったときには、もうオウの姿は見えなくなっていた。
 辺りにあるのは暗闇だけ。そして上を見上げれば、桜の花びらのなくなった桜の木。

「……桜」

 一度で良いから、ちゃんとその名前を呼んでみたかった気がする。
 いつもと同じように、ふんわりと微笑んでくれるだろうか。

「桜。来年……また会いに来るよ」

 彼は両手を伸ばしてその桜の木を抱きしめた。とくん、とくん、と木の鼓動が聞こえるように。
 本当にその音が聞こえているのかはわからないけれど、彼は微かに微笑んで、その木から離れて行った。
 振り返ることもなく、彼はまっすぐに自分の家へと帰る。日常へ、現実へ。



 彼が抱きしめた桜の木から、ふわりとひとひらの花びらが落ちた。今年最後の、桜の花びら。また来年──その木に桜の花が開いたら、彼はまたこの木を抱きしめに来る。愛しい人を抱きしめるように。