『DOLL』 1:アスク そこから見えるのは、夏の日差しに照りつけられた、明るい緑色の葉っぱ。でもその前に、透明のガラスが覆われていて、あたしはひんやりとした風のある部屋の中で座ってる。 真っ黒な、大きなソファーで、亜紀が座ってる。今日一日、あんまり動かないで、ずっと本を読んでいる。亜紀のお母さんは、少し前にいつもうっすらとしかしていない化粧をしっかりして、出かけてしまった。亜紀のお父さんは、朝から出かけてる。亜紀のお母さんが嬉しそうに見送っていたのを、あたしは見た。 そして、この家の一人息子、亜紀はずっと一人で本を読んでる。 あたしは、亜紀が小さい頃に、この家に来た。その時から、ずっとずっと亜紀を見てる。あたしが来てすぐの頃は、亜紀もよく構ってくれた。けど、中学校に上がってから、あんまり相手にしてくれなくなった。大学生の今では、全然見向きもしてくれない。 それでも、あたしは亜紀をずっと見ている。 だって、知っているから。 亜紀が、小さな頃から、ずっと寂しがっていることを。 多分、今日は夜まで誰も帰ってこない。亜紀が出かけない限り、この家には、あたしと亜紀しかいない。 亜紀のお母さんは、男のひとと会っている。亜紀が学校に行っていて、亜紀のお父さんがお仕事で家にいないとき、時々亜紀のお母さんを訪ねて男の人が家にくる。亜紀のお母さんは、その人が来ると、すごく嬉しそうな顔をする。いつもより口紅をちょっと濃くして、玄関に行くのを、あたしは知ってる。 それが何か、あたしは知ってる。 あの人は、亜紀のことを、裏切ってる。 亜紀のお母さんは、亜紀のお父さんと、亜紀を裏切ってる。 そして、それを亜紀が知ってることを、あたしは知ってる。亜紀は何も言わない。亜紀のお母さんも、何も言わない。亜紀のお父さんは……知ってるかもしれないけど、やっぱり何も言わないからわからない。 亜紀は、いつもひとりぼっちだ。 亜紀のお母さんという人も、亜紀のお父さんという人も、亜紀の傍には、いてくれない。亜紀は、いつだって寂しがっていたのに。 「……もしもし」 ごそごそと亜紀が動き出した。 片方に頭を傾けているから、電話をしているのだろう。人間は、それで離れたところにいる人と話すことが出来る。 「別に、うちでぼーっとしてる。……すぐにはムリ。……ああ、一時間ぐらい。……ん、出たら連絡する。じゃあな」 電話を切った亜紀が、立ち上がった。 何も言わずに、リビングを出て行く。あたしは追いかけることが出来ないから、亜紀がどこに行ったのかわからない。でも、大きな黒いソファーの上に、亜紀の本が置いてあるから、少しすれば戻ってくるだろう。 あたしは、じっと亜紀を待っていた。 早く戻ってこないかな。たまにはお話できないかな。 …………あたしは、どうして亜紀と話せないんだろう。 「そーいや、ずいぶん汚れたなあ、アスク」 あたしは、驚いた。 アスク、と亜紀が言ってくれたから。 見上げることはできないけれど、亜紀があたしの前に顔を出した。亜紀の濃茶の目が、あたしを見てる。ああ、久しぶり。亜紀、久しぶりだね。あたしを見てくれたのは、本当に久しぶりだね。 「顔ぐらい拭いてやるか」 そういって、あたしの前から亜紀がいなくなった。いかないで。そう言いたかった。でも、あたしはそんなこと、言えないから。ただ黙って、亜紀が戻ってくるのを、待ってるんだ。 「よいしょっと」 亜紀があたしを持ち上げる。ああ、ここから動いたのなんて、久しぶり。視界が、全然違う。亜紀、大きくなったんだね。昔は、あたしを持ち上げてもそんなに視界は変わらなかったのに。 亜紀にじっと見つめられて、あたしは白い布で顔を拭かれる。ああ、こうして拭ってもらうのも久しぶりだ。亜紀に触れてもらったのは、何年ぶりだろう。亜紀のお母さんがたまにきれいにしてくれるけど、亜紀が触ってくれるのは、すごく久しぶりだ。 「少しはキレイになったかな。それにしても、アスクは変わらなくていいなあ」 変わらないよ。あたしは変わらない。 亜紀も、変わってないよ。小さなときの、優しい目と、優しい手は、全然変わってない。 ──亜紀が寂しいのも、変わらないね。 「そういや、小さいころはよくアスクに話かけてたっけなあ」 そうだね、前はたくさんお話したね。あたしは、どれだけ話しかけても亜紀には聞こえないから……すごく寂しかったけど。でも、あたしが話すことが出来ないから、亜紀があたしに話しかけてくれるのが、すごく嬉しかったんだよ。 「……っと、そろそろ出かけるか。じゃあな、アスク」 ふわりと、亜紀があたしの頭を撫でてくれる。 あたしは、嬉しくなりながら、声にならないままいつものようにいってらっしゃい、といって亜紀を見送った。 あたしが、人間だったなら……あたしは、亜紀の傍にいられたのかな。 あたしが、人間だったなら…………。 あたしが、人間だったなら…………。 亜紀が、人形だったなら? 黒いピアノの上。 そこが、あたしの居場所。 この家で、あたしはいつもピアノの上に座っている。 この家に来たときに決められた、あたしの居場所。それから何年も、あたしの居場所は変わっていない。ときどきあたしをキレイにしてくれる人間が、動かしてくれることもある。 でも、あたしはその女の手が嫌い。大切にしてくれてる感じはするけど、その女の手が嫌い。いつも一緒にいる男を裏切って、他の男といるときだけ、幸せそうな顔をする、あの女が嫌い。 でも、それを知っていて、黙っている一緒にいる男も嫌い。あたしがここにいることなんて、忘れているような男だから。女に裏切られたのも、そういうのが理由だろう。だからって、その女がかわいそうなんて思わない。あたしは、この家の女も男も嫌いだから。 だけどあたしは、この家にいる。 だって、あたしの隣には、あたしの大好きな亜紀が、一緒に座っていてくれるから。 |