8.Calling






 テーブルの上に、携帯電話。
 それをじーっと見つめて、ゆきはぼんやりと座っている。
 夕方近くに、龍二から入ったメールは、夜電話してくるということ。ただ、ゆきには彼にとっての『夜』という時間がどれぐらいかわからないのだ。普通に考えたら『夜』といったら七時から十時ぐらい、それ以降は『深夜』と呼ばれるのではないかと思う。だから、八時から九時、それぐらいには電話が来るだろうと思うのが普通だろう。
 だが、龍二の職業は『声優』という時間不規則な職業である。時間がどれほど不規則かは、以前呑みに行ったときに、龍二や楠原から何度か聞かされていた。
 だからこそ、ゆきは少し困っている。彼らにとっての『少し早い夜』というのは、どれほどのものか。まあ、ゆきはもともと夜更かしをする方だから、少しぐらい遅くても平気なのだが。
 現在、夜の九時を回ったところである。日々残業で日付が変わる頃に帰る人たちからすれば、『少し早い夜』だろう。だが、普通に七時ぐらいに自宅に到着するゆきにとって、夜の九時まで仕事をしていれば『遅い夜』である。

「……どれぐらいに電話が来れば、早いのかなあ」

 うーん、と唸りつつ、ゆきは携帯電話を眺めていた。
 結局、そんなこんなでぼーっと過ごして、九時半を過ぎた頃に、電話は震えだした。

「はいっ」
『はやっ! こんばんは、真幸ですけど』
「こ、こんばんは」

 いつも『偶然』顔をあわせたことと、メールでのやりとりしかしていなかっただけに、電話で話をするのはいくらか緊張する。
 ゆきは思わず姿勢を正して、龍二の電話に応えていた。

『今、大丈夫?』
「は、はい、大丈夫ですけど……真幸さんは、お仕事終わったんですか?」
『うん、さっきね』
「お疲れ様です……結構遅くまでやってるものなんですね」
『そう? ああ、そうかも。でも今日は早かったんだよ、始まったの八時だし』
「…………そうなんですか」

 それが『早い』という時間だろうか? そう思ってしまうのは、ゆきが一般人だからとは限らないだろう。常識的に八時に始まる仕事で『早い』とは言わない。そもそも、八時に始まる仕事がある時点でちょっと認識が違う。
 それでも、龍二にとっては、レギュラー番組だったおかげで、八時開始(まあ、実際始まるまで少し時間が延びたが)、九時半には解散というのは早いものであった。
 当然ながら、ゆきはそんなことは知らないけれども。

「お疲れ様でした」
『いえいえ。ゆきちゃんも一日お仕事お疲れ様でした』
「あ、どうも。それにしても……電話なんて初めてですね。どうかしました?」
『うん、それがね、今日の昼間の収録で、クッシーと一緒だったんだけどさ』
「楠原さん?」
『そう。結構あるんだよ、同じ現場で会うことって』

 そういうものなんだ、と言いながら、ゆきは電話ごしの龍二の声を聞いていた。すると、少し遠くで、車の走りぬけたような音が響く。

「も、もしかして真幸さん、まだ帰宅されてないんですか?」
『ああ、うん。さっき終わったばっかりで、スタジオ出たところ。あんまり遅くなると悪いから、先に電話しちゃおうと思って』
「え、そ、そんなの大丈夫ですよ。あの、私まだ起きてますし、おうち帰ってからまたお電話くだされば……」
『いやいや、さすがにちょっと遅いかな、と思って』

 それほど『遅い』という認識ではないにしても、電話をするには『遅い』時間になってしまうということは龍二もわかっている。だからあえて帰宅前に電話したのだ。

『っていうか、ゆきちゃんっていつも家に帰るのって何時ごろ?』
「残業がなければ七時ぐらいには……って、残業なんてほとんどないですけど」
『はやっ。そーなんだ。じゃあ、夜の仕事入る前に電話すればよかったね。ごめん』
「いえいえ、そんな。というか、本当に大丈夫ですよ? 歩きながら電話で話すのって疲れません?」
『あはは、ちょっと息あがるよね。でも大丈夫、肺活量には自信あるから。なんたって声を出すのが本業だからね』
「なるほど……」
『でも、そう言ってくれるなら、しばらくしてからかけなおしてもいいかな。電車乗らなくちゃならないし。大体そうだなあ……一時間もかからないとは思うんだけど』
「わかりました。気をつけて帰ってくださいね」
『うん、ありがとう。じゃ、またあとでね』

 そういって電話を切ると、ゆきはほうっと息をついた。
 とりあえずの連絡は取れた。じゃあ、あと三十分程度は何をしていても大丈夫だろう、そう思って、ゆきは立ち上がり、風呂に行った。いつ電話がくるかわからなかっただけに、ずっとお風呂にも入らずにぼーっとしていたのだ。ちやいわく、そういうところが『ゆきテイスト』らしい。
 かといって、それほどゆっくりできるわけでもないので、そうそうにシャワーを浴びて部屋に戻り、軽いお酒を用意してのんびりとパソコンの前に向かっている。かちかちとマウスをクリックする音が部屋の中に響いていた。
 一時間とかからない、ということは、龍二は都心から結構近い場所に住んでいるのだろう。ゆきの家は都内でも神奈川県に近い方だ。そう考えると、龍二はより都心に近いのだろうと思えた。
 以前タクシーで一緒に帰ってきたときに聞いた地名は、ゆきの家からもそう離れてはいない。とはいえども、そこも狭くはないので近い場所から遠い場所まであるけれども。
 パソコンのメールチェックなどをしながら、ゆきがのんびりしていると、ふと携帯電話が鳴り響く。先ほど電話を切ってから、まだ三十分。

「はやっ」

 慌てて電話をとったゆきが「もしもし」と言うと、電話の向こうからはとても聞きなれた女の──ただし少し低めの──声がした。

『も〜しも〜し、ゆ〜きちゃ〜ん』
「……ちやか」
『何それ! なんでそんな嫌そうかな!!』
「いやべつにそんなことないよー?」
『そのせりふが嘘っぽい!』

 あんたって人はーッ! と叫ぶちやに、ゆきはくすくすと笑っていた。けれど、心の中では少し焦りもある。
 いつ、龍二から電話が来るともわからないから。

「それで、どうかしたの?」
『あ、うん。週末どうかなーって』
「ああ、いいよ。どっちにする?」
『たまにはそっち行くよ』
「ん、わかった。土曜日?」
『そうだねぇ、土曜日の昼間かなーって、何そんな急いでんの? なんかやってた?』

 思わずぎくりとしてしまう。別に悪いことをしているわけではないし、隠す必要もない。龍二との不思議な縁のことも、ゆきはちやに話しているし、別にやましいことなど何もなかった。
 ただ、早く電話を切らないと、と少なからず思っていることを知られてしまえば、申し訳ない気持ちになってしまうのも仕方ないことだった。

「じ、実はちょっと今電話待ちしてて」
『え、そうなの? ごめんごめん、んじゃもう切るよ。とりあえず土曜日昼間合流ってことで。そっちに行くかどっかで合流するかはあとで決めよ』
「うん、ごめんね」
『いえいえ。最初に聞けばよかったね。まあ、何かあったら連絡して〜』

 わかった、と言ってちやとの電話を切る。要した時間は三分程度。その間に電話が来てなければいいけれど、と思いつつ、ゆきは携帯電話を手元に置いて、また視線をパソコンに戻した。
 それから十分ほど経ってから、また携帯電話が鳴る。先ほどはサブディスプレイで確認するよりも早く電話を取ってしまったのだが、今度はしっかりとそれを確認してから電話に出た。

「もしもし?」
『ふたたびこんばんは〜、真幸です』
「こんばんは」
『さっき到着しました〜。ごめんね、結局遅くなっちゃって』

 そう言いながら、電話の向こうで少しばたばたとした音が聞こえてくるので、ゆきは首を傾げた。なんの音だろう? と。

『あ、ちょっと待ってちょっと待って。ビール買ってきたんだけどさ、ちょっと開けさせて』
「あはは、どうぞどうぞ」

 何の音かと思えば、帰り道に買ってきた食事か何かを用意していたのだろう。がさがさとビニール袋の音が聞こえてきたのだ。
 これで早いというのなら、やはり声優の仕事って大変なんだなあ、とゆきはつくづく思う。もちろん、仕事というのは何をやってもそれなりに大変だったりするものだとわかってはいるけれども、時間不定期、勤務場所不定期……決められたものがあまりに少ない。

『お待たせ〜。ゆきちゃんもお酒呑んでるの?』
「え、あ、はい、軽く」
『おお、じゃちょうどいいや。かんぱーい』
「あはは、お疲れ様でーす」

 電話越しでグラスを上げて、乾杯をする。毎夜軽くお酒を呑んでいるゆきには、少しだけ新鮮だった。

「ところで、突然電話なんてどうかしたんですか?」

 新鮮な気持ちは味わっていても、やはり話題などそう持っているわけでもなく。思わず疑問に思っていた本題を、さらりとゆきは口にした。
 実際、一度目にかかってきたときに、ちやとの電話のように用件だけ話せばよかったのだろうが、なぜか『かけなおす』方向にいってしまったのだ。ゆきとしては無意識に、そして龍二としても、無意識に。まあ、ゆきがそう言ったから龍二はその通りにした、のかもしれないが。

『あ、そうそう。今度呑みに行こうよーってことで、ご連絡。今日クッシーと現場一緒だったからさ、ちょっと話しして。それで早速連絡しよう、と思ったんだよね。メールでも良かったんだけど、直接のがいいかなーと思って』
「はあ、なるほど……」

 ゆきの性格を知っているのか、知らないのか、とてつもなく微妙なところである。直接話せば、ゆきが断る確立は格段に減る。ゆきの性格上、だ。
 そして龍二が電話にしたのも、メールのが断られるかもしれないな、と思ったからではあった。ゆきの性格をそこまで知っているわけではないけれど、どうやら今回は龍二の直感の勝利だろう。

『で、今度の土曜日どうだろう。俺とクッシーは昼間は仕事なんだけど、夕方にでも』
「今度の土曜日ですか? あ……ごめんなさい、土曜日は」
『あ、予定入っちゃってた?』
「すみません。あの、友人と会う約束があって」
『そうなんだー。あ、なんだったら、そのお友達と一緒に呑みに行かない?』
「へ?」

 唐突な龍二の申し出に、ゆきが素っ頓狂な声をあげた。それもまあ、龍二の中では想像通り、といったところだろうか。

『あ、もしかしてデート? それなら邪魔はしないけど……』
「ちっ、ちがいますよ、そんなんじゃないです。女の子だし」
『そう? なら、良かったらどうだろう。クッシーももちろん来るし、そのお友達もいやじゃなければだけど……せっかくだしさ』

 どうせっかくなんだ、と思わず龍二は心の中でツッコミをいれた。元々そういった形ではどうだろう、というのは楠原と話してはいたが、こうもちょうどよく友達と会う予定のある日だったとはタイミングが良いのか悪いのか。
 うーん、と電話の向こうでゆきが考えているのが何となく想像できて、龍二はわずかに笑みを浮かべた。

「連絡してみないとなんともいえませんけど……友達がOKだったら、いいですけど」
『そう? 良かった……って、あ、そのお友達って、オレたちみたいな人、好きな子?』
「は? ああ、いえ違いますよ。真幸さんと楠原さんのことはこの間話してますけど、全然知らない子ですし、逆にそれで興味を持ってる……かもしれない?」

 それを聞いて、龍二は少しばかりほっとした。そのお友達が声優マニアみたいな子だったりしたら、やはりそれなりに気をつけなければいけないだろうから。ファンは大事にしたいけれど、会った、とか言いふらすような子だとしたらそれはちょっと、申し訳ないけれど近づくわけにはいかない。

『あはは、そうなんだ。それはそれでありがたいっていうのかなあ?』
「どうなんでしょう? でも真幸さんと楠原さんは大丈夫なんですか、そういうの」
『あ、うん、それは大丈夫。ま、別に普通の人だし、オレたちも』
「そうですね。一応、その友達もそういう業界? っていうか、まあ、いわゆるマスコミ関係の会社で勤めてるから大丈夫だと思いますよ。……って、それ以前に話してみないとどうかわからないんですけど」
『そういえばそうだった。なんかすっかり一緒に行く気満々になってたかも?』

 電話の向こうとこちらで、龍二もゆきもくすくすと笑っていた。ゆきにとっては、龍二のする仕事の話は新鮮だったし、龍二にとっては、ゆきの日常を聞くのも新鮮だった。
 何の気なく、龍二の仕事の現場のことや、ゆきの会社の人のこと──話に出やすいのは坂上だが──を話をしながら、気付けば一時間近く話をしていた。

「あ! も、もうこんな時間だったんですね。すみません、長電話しちゃって」
『え? あ、本当だ。なんかまったりしてたらいつのまにか……ごめんね、こんな時間まで』
「いえいえ。というか、真幸さん、もしかしてこれからまだ仕事するとか……?」
『えーっと、軽く台本は読むけど、適度にして今日は寝る。新しい台本とかじゃないから、一応目は通してるし、レギュラーだからまだ……たぶん……』
「うわあ、ごめんなさい、邪魔しちゃって」
『あはは、冗談。大丈夫だよ、まだいつも起きてる時間だしね。ゆきちゃんも明日仕事でしょ? 遅くまでごめんね、ゆっくり休んで』

 なんとなく、慌てているゆきの姿が想像できて、龍二は思わず微笑んでしまう。それは、龍二も無意識なほど、自然に。

「じゃ、友達に聞いてみますから……またメールでも入れますね」
『うん。あ、電話でもいいよ。もし出られなかったら時間できたときにかけなおすし』
「そ……ですね」
『うん、メールでいいよ』
「す、すみません。だって、真幸さんの時間帯ってよくわからないから……」
『……それも否定しない。オレも今度電話するときはもう少し早い時間にするよ。じゃ、今日はありがとね』
「いえ、こちらこそ。じゃあ、おやすみなさい」
『うん、おやすみ』

 そう言って、二人は無言になった。龍二が電話を切るのを待つゆきと、ゆきが電話を切るのを待つ龍二で。

「切ってくださいよ!」
『切っちゃってよ!!』

 思わず出た言葉が、またまったく同時という、また小さな『偶然』を起こして、二人は電話を切った。



 日付が変わって、翌日。ちやに連絡をいれるべく、ゆきはメールを送った。昨夜、龍二との電話を切ってすぐメールをしても良かったのだが、ぼんやりとしたままいつのまにか眠っていたので、それが出来なかったのだ。ちなみに、そんなことがちやにばれると、ゆきは結構な勢いで怒られる。

「これでよし……かな?」

 ちやの返事はなんとなく想像できていた。おそらくは『別に付き合うよ』。あまりそういうことで嫌だと断ることがないのだ、ちやは。ゆきもちやも、あまりに他人には認められないけれども人見知りの傾向があるので、最初は少しぎこちなくなるだろうけれども、最初なのだからそれは仕方ないこと、そう割り切って、ちやは『一緒に行く』と言うような人なのだ。
 ある意味、選択権を与えても、自分で決めるのがいやだという一種のわがままかもしれないが。
 昼間のうちにメールを入れた。忙しくなければ、遅くても夕方までには返事もくるだろう……と思っていた瞬間に、返事が来た。携帯電話のディスプレイにうつった文字は、ゆきの想像通りのもの。

『別にいいよ〜ん。
 というか、私いて平気なの?』

 龍二の方から出した話なのだから、平気も何もないだろう……と思いつつ、ゆきはちやへ返事を打つ。そしてすぐに、龍二へもメールを打った。少しすれば、時間や場所の連絡が入るだろう、それを待つことにして、とりあえず二日後の休日の予定は、決定された。





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