21:初夏のため息






 お天気お姉さんがにこにこ笑って『梅雨明け宣言が出ました。夏の到来です』と言っていた、今朝のテレビ。夏は薄着で、汗も感じさせない笑顔。そして冬なら、しっかりコートを着込んで、それでもあんまり寒さを感じさせない笑顔をする、そんなお天気お姉さんはすごい。そんなことを思いながら、気だるい顔でゆきはテレビを眺めていた。
 これから出勤のために支度をしなくてはいけない。支度をする前に天気予報を見るのは日々の日課である。まあ、とにかく今日も暑そうだ、というのは、天気予報を見なくてもわかりきっているけれど。

「暑いなあ……」

 ぼそりと呟いて、ゆきは重い腰をあげて支度を始めた。顔を洗って、着替えをして……と支度を進めていると、携帯電話から音楽が鳴り出す。その音はEメールだ。ゆきはテーブルに投げ出してあった携帯電話をとって、それを確認する。送信者は、龍二だった。

『件名:おはよう!
 本文:おはよう、ゆきちゃん。今日はお仕事だよね? まだ寝てたらどうしよう。
    この間はどうもありがとう。おかげで順調に仕事が進みました。
    ゆきちゃんパワーはすごいね!』

「私パワーってなんだろ」

 そう言いながら、ゆきがくすくすと笑う。基本的に夜のメールが多いだけに、こんな朝から来るメールは珍しかった。もうまもなく家を出なくてはいけないので、大急ぎで支度を終えて返信をする。といっても何か用事があるといった文面ではないので、何を返せばいいのかおおいに悩むのだが。

『件名:おはようございます。
 本文:おはようございます、メールありがとうございました。
     ちゃんと起きて出勤準備中です。……もうすぐ出ますけど。
     私パワーってなんですか……。でも順調ならよかったです。
     今日もお仕事ですか? 頑張ってくださいね!』

 他愛ないやりとり。それは前から始まっていたことである。ここしばらくはそういうメールのやり取りもなくなっていたために、とても久しぶりな感覚がする。思わず顔がほころんでいることに、ゆきは気づいていないようだが。

◆◇◆◇

 真っ青な夏の空。白いふかふかな雲が空にある。まぶしい日差しは夏特有のじりじりと焼け付くような感じがする。実際、肌が痛いくらいだ。日傘はとうに必需品となって、毎日持ち歩くようになっている。
 ゆきの通勤ルートは、当然ながら同じ会社の人間の通勤ルートでもある。知り合いに会ってもなんらおかしなことはないのだが、やはり会って気まずい人間もいたりする。

「今日は誰にも会わないといいけど……」

 すれ違いざまに挨拶だけを交わし、それからまったく同じ方向へとそしらぬ顔で歩いていく。微妙に居心地の悪いそれが、ゆきは苦手だった。相手が誰だとしてもそれはあまり変わらない。だから少し早めに出勤することがゆきの癖になっていた。

「おはよう」
「っ!?」
「あはは、驚いた? ものすごい奇遇! 本当に偶然が多いねぇ」

 ぽん、と背中を叩かれたゆきが驚いてはじかれるように振り返ると、そこににこにこ笑顔の龍二が立っていた。背後から近づかれるのが大の苦手なゆきはびくっと体を縮ませている。

「あれ、そんなに驚かせちゃったかな。ごめんごめん、大丈夫?」
「ど、どーして真幸さんがこんなところにっ」
「こんなところってほら、うちの事務所この近くって言ったじゃない」

 確かに、それで何度かこの駅で遭遇したりもしたけれども、ゆきはそんなことはすっかり忘れていたし、まさかこんな時間に会うとは思いもしなかったのだ。
 それに、なんといっても龍二は時間不定期職場不定。その日の現場ごとだから時間もまばらで場所もまばら。そして毎日事務所に行くわけではないと聞いている。それなのに、なぜこんな朝早い時間に龍二がここにいるのだろう、そうゆきが思うのも無理はなかった。

「今日は朝イチの現場がうちの事務所のスタジオなんだよ。まあ、時間はさすがにかなり早いけど。打ち合わせることとかあるから早めに来たんだ。ゆきちゃんは、いつもこの時間なの?」
「え、あ、はい、まあ……」

 それでも出勤時間には少し早いのだけれど、とは言わなかった。龍二はそうなんだ、と頷いている。

「この時間は本当に電車混んでるねー。朝からかなり体力使った気がするよ」
「そうですねえ。まあ、結構慣れましたけど」
「……慣れたくないねぇ」
「はい……」

 思わず顔を見合わせて二人は苦く笑った。

「実は一瞬迷ったんだよね、ゆきちゃんかなーって」
「え?」
「だってほら、日傘さしてるから」

 同じように日傘をさして歩いている女性の姿はそれなりにいる。確かに、日傘をさしていると、いくらか姿が隠れてしまうからわかりづらいだろう。とはいえども、龍二は後ろからゆきの肩を叩いたのだ。

「……日傘さしてるうえに背後からで、私ってわかりました?」
「うん、なんとなくわかった。あれ、ゆきちゃんかな? って思って、でも違ったらどうしようかなーって少し迷って、近づいて見て『あ、ゆきちゃんだ』って。さすがに迷ったままでは肩叩く前に声かけるよ。別人だったらまずいじゃない」

 確かに、見知らぬ人にいきなり肩を叩かれたら驚く上に怖いだろう。龍二も笑ってはいられまい。
 それにしても、とゆきは思った。後ろ姿で自分がわかるというのは、そんなにクセのある歩き方をしているのだろうか、と。それとも、そんなに特徴のある背中だろうか、と。そう聞いてみると、龍二はそんなことないよ、と笑った。

「なんとなく、だけどね。歩き方とか、背中に特徴があったら迷うことはないでしょ。うーん、でも今度は迷うことなく『ゆきちゃんだ!』って確信して声をかけられるといいなあ」
「いやべつに確信しなくても……というか、背後はやめてください、驚くから」
「でも後ろから気付いたら背後から声かけるしかないじゃない。追い抜いてから声かけるの?」

 わざわざ一歩ゆきより前に出てから振り返って声をかける。それはどう見てもおかしな構図な気がするのは、龍二だけではなく、ゆきも同様だったようで、それも変かもしれませんね、とゆきが笑った。

「でも、せめて声をかけるのを先にしてください。いきなり肩叩かれたらびっくりしますから」
「うーん、驚いた顔もかわいくてよかったんだけどな」
「なっ、何を言ってるんですかっ」

 龍二がさらっと言った言葉に、ゆきは驚いた顔をする。いきなり「かわいい」発言など、驚くなといわれても無理だった。

「おはようございます」
「あ……おはようございます」

 そんなことを言いながら歩いていると、後ろから一人の女性に追い抜かれ、挨拶をされた。それにも驚いたゆきが眼を丸くしてから挨拶を返す。その女性が通り過ぎた瞬間、龍二があっと小さな声をあげ、彼女が完全に通り過ぎてから、ゆきは小さくうめき声を上げた。
 通り過ぎた女性は、坂上だった。

「ありゃ……ゆきちゃん通勤時間だもんね……ごめん、またネタあげちゃった?」
「いえ、別に、大丈夫です。というか、真幸さん覚えてるんですか?」

 坂上の顔を見たのは一回、いやすれ違いがあったから二回だろう。いずれにしても、ちょっとすれ違って顔を見た程度だというのに、龍二は坂上の顔を覚えていたのだろうかとゆきは驚いていた。

「よくは覚えてないけど……ゆきちゃんが苦手そうだった人っていうのは覚えてる」
「そんなの忘れてくださいよ……」

 なにもそんなことを覚えていなくても。そう思ってしまうのも無理はない。
 それにしても、よりによって坂上に遭遇してしまうとは。通勤の時間帯なのだから、誰がいてもおかしくはない。少し早めに来てはいても、ゆきよりも早くに来ている人がいないわけではないのだ。
 だからそれもありえないことではないけれども、通常、坂上は定刻ギリギリ、もしくは少し遅く出社してくるのだ。なぜこの日に限って早い出勤なのか、間が悪いとしか言いようがない。
 もちろん、ゆきも悪いことをしているわけではない。龍二に会ったのはあくまで偶然なのだし。それでも、複雑な心境になってしまうのは、仕方ないことだろう。

「……オレと一緒に歩いてるの、見られるのいや?」
「そんなんじゃ……まあ、誰かと一緒にいるからって噂されるのはちょっと苦手……かも。別に真幸さんがどうこうというわけじゃないですよ」
「そう?」
「ええ。むしろ真幸さんのがまずいんじゃないですか、私と歩いてるのを見られるのって」
「え、そんなのぜんぜんないよ。でも、オレが一緒だといやかなってちょっと気になっちゃったから」

 なんですかそれ、とゆきが笑う。龍二も笑って誤魔化してはいるものの、ちょっとばかり気になってしまったのは事実だ。
 ゆきが龍二と一緒にいること、それ自体を嫌がっていたらどうしよう、と。確かに、会社の人に見られたりするのは恥ずかしいし、ゆきがうっと思ってしまうのも無理はないだろう。そうは思う。思うのだけれど。
 ──オレが近くにいることって、いやなのかな?
 悪く考えようと思えば、いくらでも考えられる。悪い意味で恥ずかしいと思われることだって、あるだろう。勝手な想像で悪い方向に考えても意味はないことはよくわかっている。わかっているけれど、悪い方向で、嫌だと思われるのは、悲しい。

◆◇◆◇

「あーらら、素敵なため息だねえ、マサ」
「はあ? なんだよ、素敵なため息って」

 打ち合わせが終わり、一本目の収録のために待合室で台本を読んでいると、朝いちの仕事が一緒になっている楠原に言われ、龍二が少しむっと眉をしかめた。

「ま、素敵かどうかは置いといて、どしたんだよ? ため息つきっぱなしじゃん」
「そんなことないけど」

 どこが、という顔をする楠原だったが、龍二はそれに答えようとはしなかった。というよりも、あまり楠原を見ていない。台本を見ているようだが、それがどれぐらい頭に入っていることやら、と楠原は呆れた顔をする。
 先ほどから一分に一度といっていいぐらい、とってもこまめなため息を吐いている。それを楠原がずっと見ていることにも気づかずに、だ。何をそんな落ち込んだ顔してんだか、と声をかけてみたのだが、このありさまだ。

「で」
「なんだよ」
「顔暗い。ため息多い。機嫌悪い。その原因は」
「別にそんなことないって」
「あのなあ、マサってあんまりそーいうの持ち込まないだろ? 見るからにわかるって、結構重大だと俺は思うわけ。何か深刻なことがあるんじゃないかって自称親友としては気になるわけだ。で、自称とはいえども親友だから? 悩みごとなら聞いてやりたいと思うわけさ」

 軽く言ってはいるものの、楠原の目は真剣だった。龍二はあまり職場にプライベートのいざこざなどは持ち込まない。テンションを保って仕事に来ることが多いのだ。落ち込むことだって、変にハイテンションになることだってあるだろうに、そういうことを現場には持ってこない。そういう龍二の姿をよく見てきた楠原なだけに、ため息だらけの龍二の様子は心配にならないはずがなかった。
 けれど、龍二は本当にそんなつもりはなかった。暗い顔をしているつもりもなければ、そんなにため息をついているつもりもない。機嫌だって、別に悪くはないつもりだ。

「本当になんにもないよ。そんな顔してる?」
「してるしてる。ほら、なんつーかとりあえずアンニュイーな顔してる」
「どんなだよ」

 思わず笑った龍二だったが、その表情はまだ晴れてはいない。よっぽど気になることがあるんだな、と思った楠原が、じっと龍二を見ていた。

「まあ、何もないっていうなら無理には聞かないけどさ。何か気になってること、あるんじゃないの? それが機嫌悪くなることなのかどうかわかんないけど」
「んー……機嫌悪くはないよ、本当に。気になることって言ったら、あることはある……かなあ」
「何?」

 やはり少し考え込んでいることがあったというのは、龍二も否定はしなかった。それを言うかどうかは別だが、気になることがあるかないかと聞かれれば、確かに、あった。

「くっしーの彼女って、二人でいるところ誰かに見られるの嫌がる?」
「は?」

 いきなり何を言い出すんだ、という顔をして楠原が龍二を見る。が、龍二はいたってまじめな顔をしている。龍二の今現在の悩みというか、考え事はそこにあるらしい。……つまりどういうことだ? と楠原は考えた。
(ちょっと待て、マサ彼女いねーじゃん)
 なのにそれはどういう質問だ? ──そんなの決まってる。

「……ゆきちゃんが嫌がってんの?」
「は!?」

 さくっと言い放たれたそれに、龍二は目を丸くする。まさか直結してゆきのことだと思われるとは思わなかったのだ。おそらく、そう思うのは龍二だけで、楠原やここにいない玲なども同じように思うのだろうが。
 目を丸くした龍二を見て、楠原もまた目を丸くした。何をそんなに驚いたのだろうか、と。楠原にとっては、当然の思考回路だったようだ。

「ゆきちゃんに嫌がられたのかー。そりゃ凹むよなあ」
「いやちょっと待って、なんだよそれ」
「なにが」
「なんでゆきちゃんが出てくるの」
「なんでって……他にいるとでも言うの? ないない」

 そんなのありえないと言わんばかりに手をひらひらと振る楠原に、龍二は複雑な心境だ。確かに、ゆきのことは楠原も知っているし、けしかけられてもいる気がするからわからなくもないけれど、それでもあんまりすんなりと言い当てられるとなんとも言えない気分になるのは仕方ないだろう。

「それで? ゆきちゃんはマサと一緒にいるとこ見られるの、嫌がってんの?」
「…………別に、嫌がってるわけじゃないとは思うんだけど」

 でも、と龍二は今朝のことを楠原に話した。確かに知り合いに会うというのは気まずい気持ちにもなるだろう。それに、ゆきだって嫌だと言ったわけではない。それはきちんと楠原に伝えたけれど、やはり煮え切らないような気分にもなっている、それが現実だ。

「マサの気にしすぎだとも思うけど……多分、ゆきちゃんが言ってるのはホントだと思うし。ゆきちゃん、そういうの苦手そうだとは思うしさ。それはマサだってわかってるんだろ?」

 わかってる、と龍二が頷いた。ゆきの性格上、誰かに見られることが苦手だというのは容易に想像できるし、まして今朝会った相手はゆきの苦手な人だ。よりによって、という相手なのだから、通常以上に気まずい気分になっているだろう。ゆきが言ったことを信用していないわけではない。
 でも、と思ってしまう。
 もしも、自分と一緒にいるのが嫌なのだとしたら? それは、相手が誰であっても、あまり見られたくないと思うのではないか、と。邪推だとわかっていても、一度浮かんでしまったその思考が、頭から離れなかった。

「まあ、マサとしてはちょっと寂しい気もしちゃうわけだ?」
「寂しいってことはないけどな」
「っていうかさあ、マサ、ひとつ聞いてもいい?」
「何だよ」

 ひとつもなにもないだろ、という気持ちで龍二は言った。
 すでに今朝のことを白状させられてしまったのだから、龍二としては今更だ。そんなことを思いながら答えると、楠原が真顔で龍二に詰め寄る。

「お前、いつになったら告白するわけ? まだちゃんと付き合ってないんだろ?」
「…………はぁぁぁ!?」

 さすがに、こんなバクダンが落ちてくるとは思わなかったけれど。






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