24::立ち位置 予想外の展開、とはこういうものを言うのだろう。もちろん、龍二には想定できるはずもないことだったし、ゆきにはもっと想像することもできなかったことだろう。 けれど、予定外という言葉があるとおり、それは想像に難くとも、起きてしまった出来事なのである。 『今度、二人で会ってもらえませんかっ』 無邪気そうなその声は、罪悪だ。無邪気で、素直で、そんな印象を残しやすい彼の声は仕事としてはとても良い印象を持たれ、仕事は確実に増えていっている。けれど今この場で、いや、今に限らずとも、ゆきに対して使われる言葉ではなかっただけに、その無邪気な声は、ただの嫌なものにしかならなかった。 楠原からの電話が終わった後、なんとかその場を持ち直し、ゆきの機嫌は少しずつ上昇していたように見えていた。 電話が終わってすぐのような不機嫌な笑顔は減り、表情も変わるようになっていたころに響いたのは龍二の電話の着信音である。またしても楠原からの電話だということで、取る気にならなかった龍二だったのだが、ゆきの方が気にかけてくれたために、龍二は電話を取った。 「もしもし?」 『あ、真幸さんですかっ』 「…………誰?」 『誰ってひどいじゃないですか、甲野ですっ』 「…………なんでクッシーの電話から」 その瞬間、表情が硬くなっただろうことは、龍二にもわかっていた。わかっていたけれども、どうにもならない。なんといっても、その理由は容易に想像できたからだ。 『なんでって決まってるじゃないですか、楠原さんに聞いたんですよぅ。今、暁さんと一緒にいるんですよね?』 「…………」 無邪気な問いかけは、龍二を無言にさせた。確かにその通りなのだが、そうだよ、と答えたくない気持ちがあるからだ。その気持ちの理由は、いまや謎であるはずもない。 「それで、なんでそーちゃんが電話してくるの?」 『なんでもなにも』 「ちょっと楠原と変わって」 無邪気な問いかけに、龍二の機嫌は次第に下がっていく。表情も声音も、いまや不機嫌そのものだ。 それはゆきもすぐに気づき、どうしたのだろうかと心配そうな顔をしていた。 ふと気づいた龍二は、わずかに唇の端を上げてはみたものの、うまく笑えていない。それは龍二自身でも気づいたが、電話中でもあるし、それ以上の反応は返せなかった。 『もしもしー』 「どーいうこと?」 『どーいうことって言われてもなぁ』 「言われてもなあ、じゃないよ。何をどう考えてもおかしいだろ」 『まだマサの電話だったんだからマシだろー? そーちゃん、下手すりゃいきなりゆきちゃんところに電話しそうだったんだから』 「……楠原」 思わず低い声が出てしまった龍二に、焦ったのは楠原のほうである。楠原だって邪魔をしたいなどとは思ってもいない。 『これでも止めたの! だから、マサのところなの! 俺、そーちゃんの『おねだり』苦手なんだって知ってるだろー?』 甲野の『おねだり』というのは無邪気な声で人畜無害そうな顔をしてお願い、と言う甲野のことである。女性ファンには人気があるけれど、龍二も楠原も甲野のソレはとてつもなく苦手だ。苦手どころか時折苛立ちさえ覚えるくらいには嫌いだ。 といっても、甲野も別に計算でそれをしているわけでなく、天然だというのだから余計に性質が悪い。 そして思わず甲野の『おねだり』を想像してしまった龍二はよりいっそう苦い顔になっていた。 「とにかく、変わったりしないから。切るよ」 『ああ、そーしてくれ。今日は俺、電話しないから、もし俺からケータイが鳴っても無視しといて。用事があったらメールする』 「了解」 『あ、あとさ、マサ』 「ん」 『さっきので、ゆきちゃん怒ってた?』 「あー、まあ、ちょっと」 『うわ、ごめん。謝っといて』 本当に申し訳なさそうな声をして楠原が言うと、龍二はわかったと答えたその瞬間に、電話口から聞こえるざわめきに楠原の声がかき消された。 どうしたんだろう? と思う間もなく、電話口からは違う人物の声が聞こえだす。またしても、甲野の声だった。 『真幸さんっ、暁さんと変わってもらえませんかっ』 「…………いきなり変わるなよ」 『だって、楠原さんの様子だとそのまま切っちゃいそうだったからっ』 「そりゃ切るだろう。用事は済んでるし、もともと用事ないし」 『僕が用事あるんですーっ』 「オレはない。ゆきちゃんだってない」 そう言った瞬間に、ゆきがきょとんと目を丸くして首を傾げた。私? と聞いているその目に、龍二は曖昧に笑って答えるだけだ。いっそ強制的に電話を切ろうか、そうも思ったが、また電話してきたら嫌だ。 『僕は暁さんとお話したいんですけど』 「あのね、そーちゃん。知らない人と、そんなに話したいと思う人なんてそういないと思うけど」 『知らない人って! 知ってる人じゃないですか、一回会ってるじゃないですかっ』 「ほーう、そういうこと言う。じゃあ、そーちゃんはイベントに来てくれるファンの子はみんな知ってる人なんだね」 『う……』 一回会ってるというなら、イベントで来るファンだって一回会っているだろう。甲野から見れば会っているとは言い難いが、ファンから見れば、甲野に会いに行っているとも言える。 「それにオレが無理に誘ってきてもらったんだよ、あの時。それ以来会ってもないし連絡もしてない相手が知ってる人とはいえないんじゃないかなあ」 といいつつも、龍二自身、友人と認められているか微妙なポジションにいる気がして強気には言えなかった。よく考えたら、知人までは認められているから、かまわないのかもしれないが。 『そうかもしれませんけど……じゃあ、伝言してくださいよ、今度会ってくださいって』 「なっ……」 なんでオレが! そう叫びそうになったのを必死でこらえた龍二は、ごくんと息を呑む。向かいに座っているゆきは、目を丸くするばかりだ。龍二の目はきつくなってきているが、その理由がひとつもわからないゆきには、無理もないことである。 「いやだよ、そんなの」 『じゃあちょっとだけで良いんで、電話変わってくださいよぅ』 「だから、知らない人間といきなり電話なんてしないだろって」 『なら聞いてくださいよ、僕のこと覚えてるか』 いい加減しつこい。龍二もうんざりしていた。これでも龍二本人としてはだいぶこらえていたのだが、それでももう限界が近づいている。 「ちょっと待って」 そういって龍二は携帯電話のマイクを抑えた。これで今ゆきに確認しているだろうと思わせておく。決して龍二は確認なんてしないけれど。 「ごめんね、長引いて」 「あ、いえ、大丈夫ですけど、私がどうかしましたか?」 先ほどいきなり自分の名前が出ただけに、ゆきとしては気がかりでしょうがない。といっても、ちょっとマイクを抑えているだけで、すぐに電話に戻ることになるだろう。 「うーん、なんていうか……ゆきちゃんがどうこうってわけじゃないから大丈夫だよ」 「そうですか?」 「うん。ちょっと待ってね」 にこりと笑って龍二が電話に戻る。すっと表情が消えてしまうのは、龍二が話すことを拒否したがっているからだろう。それはゆきにもわかったけれど、相手が誰なのかまではわからなかった。 「記憶にないって」 『ほんとですか? うあ、ショックなんですけど!』 「知らないよ、そんなの。ってことでもういいでしょ? もう切るよ」 『あ、ちょっと待ってくださいよっ!』 その瞬間、激しく大きな声になる。携帯が壊れたのではない、多分。 思わず携帯から耳を離した龍二を見ていたのか、甲野はそれと同時に再び叫んだ。電話口の声が、ゆきに届くほどに。 『暁さんっ、今度二人で会ってくださいっ!』 当然、耳から離していても聞こえるその声は、龍二にも届いている。ぴくっとこめかみを動かした龍二は携帯電話を耳にあて、ひとことだけ答えた。 「いい加減にしろ」 その一言が、最後。携帯電話のディスプレイには、通話終了の文字と通話時間が光っていた。 ゆきは唖然としていた。急降下していった龍二の機嫌は、明らかに悪い。原因ははっきりわからないけれど、あの電話でのやり取りが機嫌を悪くしていったことは明らかだ。最大級に機嫌が悪いのかどうかはわからないけれど、電話を切る直前の龍二の低い声。ゆきは思わず呆然とした。 (す、すごい低ッ) 龍二の声は普段はそれほど感じないけれど、以前ちょっと聞いた声では低音が響く声だったことはゆきも覚えている。覚えてはいるけれど、そのとき以上に低い声で、しかも凄みが効いている。 「えと……真幸さん?」 「あ、ご、ごめんね、なんか変な感じになっちゃって……」 「いえ、私は……というか、なんか私の名前出てた気がしたんですけど……」 戸惑いつつもゆきが聞くと、龍二は曖昧に笑った。ゆきの耳にも届いてしまっていたのだ。今度会いたい、と言った男の声が。 当然、それが誰の声なのかまでは、ゆきにわかるはずもない。けれど自分の名前を呼ばれたのも事実だ。それについて、詳しく聞きたいという意思が働いたわけではない。むしろゆきにとっては、なんで知らない人が、というところであるし、何より、龍二の不機嫌の方が気になる。何が理由か、何がそうまで不機嫌にさせたのか、心配になるなという方が無理だ。少し前に、喧嘩のような状態になったことはある。けれどここまで龍二は怒っているような顔はしなかった。声音だって、ここまで低くなることもない。 「えーっと、気にしなくていいからね」 「はあ……いいんですか?」 気にしなくていいというならそうするけれども、自分の名前が出たということは当事者の一人でもあるということだ。それでも気にしない気にしない、と龍二が笑い、それまでの不機嫌な声音は姿を隠したが、それからしばらくは少し表情が硬かった。少し前まではゆきの方が不機嫌だったのに対し、今度は龍二だ。どうにも安泰な時間は過ごせないらしい。 「ごめんね、いきなり名前言われたらびっくりするよね」 「いえ、まあ……たぶん、前に一度ご一緒したことがある人なんですよね、わたしのこと知ってるってことは」 「うん、まあ、そんなとこ。ごめんね、気分悪くなった?」 「別にそんなことはないですけど。でもそんなよく知らない人と二人で会うなんていうのはありえませんけどね」 眉間に皺を寄せて、本気で嫌そうな顔をするゆきを見て、龍二は思わず吹き出した。 もちろん、そのゆきの嫌そうな顔は龍二が想定していたものだ。けれど、寸分違わず本当に嫌そうな顔をしたということが、少しだけおかしかった。意外とゆきのことを知ってきたのかな、ということに少しだけうれしい気がしていた。 「なんで笑うんですか、そこで」 「え、いやだって」 「別にそんな変な顔とかしてないですけど」 むぅ、と唇を尖らせるゆきを見て、龍二はまたわずかに笑みを浮かべた。 最初はそれこそ、不機嫌に笑う顔を見ることが多かったが、今ではむしろそういう顔の方が少ない。普通に笑う顔、困った顔、心配そうな顔、いろいろな表情を見ている気がする。 それが龍二にとっては、うれしいことだった。 「ごめんごめん、ゆきちゃんらしいなって思って。でもそうだよね、ありえないよねえ」 「もしかして、甲野さんってひとですか?」 「え?」 「今日ちょうど甲野さんの話をしていたところだし、よく『知らないひと』だし、もしかしてそうかなあって」 「うん、まあ……もしそうだとしたら、どうする? 一応会ったことある人だけど、会う?」 「まさか! あ、でも……真幸さんの知り合いなんですよね……大丈夫です?」 普通に考えたらゆきが会うということは考えることはない。が、相手は龍二の知り合いだ。そうなると少しだけ話は違ってくる。龍二の立場というものもあるだろうし、それが元で仕事がやりづらいとかそういうことになるのだけは避けなければいけないだろう。 とはいっても、ゆきは改めてそんな風に甲野と会うつもりは到底なく、龍二にとってまずければ、どうしようか、と考えてしまうところである。 ゆきのそんな心配に気づいたのか、龍二はにこりと笑って大丈夫だよ、と笑った。 「まあ、一緒の仕事もあることはあるけど、大丈夫だよ。甲野くんがオレの仕事に影響してくることはないから。甲野くんの仕事に影響することはあるかもしれないけどね」 「そうなんですか?」 「そりゃね、甲野くんの希望が果たせないんだから、甲野くんは打ちひしがれるでしょ」 「打ちひしがれるって……」 ゆきがくすくすと笑うと、龍二もだから大丈夫、と笑った。 甲野の行動は、龍二にとっては迷惑なだけだったし、イラつくことも多かったけれども、ゆきの無意識にされている甲野との違いに喜ぶこともできていた。素直にゆきは甲野を知らない人、龍二を知人(友人?)として扱ってくれていたし、少なからず好意的に見てくれていると思えたからだ。 せめて友人と言われたいと思っていた龍二にとって、今は求めるものがもっと大きなものになっている。甲野のストレートな行動は、龍二には怖いものでもあるけれど、今現在のゆきの中の立ち位置がしっかりと違うことで、安心できていた。 「まあ、油断は禁物かなあ……」 「は?」 「ううん、こっちの話」 無邪気に放たれた甲野の言葉は、龍二とゆき、二人ともがなかったことにしていたことは、誰も知らない。 |