26:季節もの。




 夏といえば、ビール。
 誰もがそうとは言わないけれども、そういう雰囲気はよくあるものだ。そして当然というわけではないけれど、今日もビールを楽しんでいる人がここにいる。
 
「あー、やっぱり夏はビールだねー」
「だねー。久々だからすっごいおいしい」
「私は毎日飲んでるけどねー」
「缶ビール?」
「当然」

 久々にちやと飲みに出たゆきが、ご機嫌にビールを飲んでいる。ちやと会うのは久々でもないのだが、外に飲みに来たのは久しぶりなのだ。
 そんなゆきの家には、夏は必ずビールがある。仕事から帰って、シャワーを浴びて、食事の用意をしてビールを飲む。暑くなるとなぜかビールが飲みたくなるものだ。
 
「そういえば、あのゲーム進んでる?」
「ゲーム? なんの?」
「真幸さんとか瀬田さんが出てたやつ」
「ああ……そういえば、触ってないなぁ」
「そうなの? なんだ、なんか面白いとこなかったかなーって思ってたのに」

 ゆきは軽く笑って流したが、実はあれから一度も触っていない。気にはなったのだが、龍二に恥ずかしいと言われてしまってから手を出せずにいる。なんだか、見てはいけないような気がしてしまって。
 それに、冗談かもしれないが、封印してね、と言われてしまったものだから、ゆきには手を出すことができない。まあ、どうしてもやりたいわけでもないし、ということでそのままなのだ。
 
「じゃあ、私がやろっかなー。瀬田さんのお仕事声聞けるし」
「は? 瀬田さんなの?」
「うん。前にも言ったじゃん。私、真幸さんの声も好きだけど、瀬田さんの声のが好みだって」
「ああうん、そういえば……そう言ってた気もするけど」

 そんなこと言ってたっけ、と思いつつ、とりあえず頷いてみた。そんなゆきの状態に気がついたのか、ちやは笑っている。

「記憶にないでしょ」
「いやそんなことはない……こともない……ような?」
「適当だな!」

 別に重要なことでもなんでもないので、ちやは笑っている。こんな会話もいつものことだ。

「でも、瀬田さんは覚えてるよ。さらっと嫌がらせされたし」
「嫌がらせって、なんかされたっけ」
「早口言葉」

 ああ、とちやが頷いた。言われてみれば、という感じで覚えてはいるけれど、別に嫌がらせってほどのことでもないだろう。ちょっとしたお遊びだ。
 もちろん、ゆきもそれはわかっているが、さわやかに笑って難しげな早口言葉をお題にされたのは忘れていない。ただでさえ滑舌が少し鈍いのを気にしているのに。

「そんなにいやだったの?」
「いや別に」
「どっちだ」

 ゆきにとっては、嫌味だったとか、悪意でそう思っているのではなく、そういう雰囲気で記憶に残している、というだけのことだ。その人それぞれの雰囲気で印象に残るのは普通のことだろう。おそらく。

 ただ、ゆきの印象に、瀬田は少し意地悪そうに見えた、ということだ。意地悪とまで言うと感じが悪いが、いたずら好き、という程度の。

「まあ、確かにいたずら好きな感じだねえ。って言っても、結構真幸さんもそんな感じがするけどな」
「そう? ああ、でも確かにそうかも。真幸さんのは、かなり無邪気にいたずら好きって感じ」
「無邪気って……それ、真幸さん聞いたらショック受けない?」
「なんで?」

 ちやが思うに、それなりに年齢がいっている男性が、無邪気と言われて喜ぶとはあまり思わなかった。いやもちろん、すべての男性が、とは言わないけれども。
 そんなことを話つつ、ゆきのビールジョッキが空になる。ちやはまだジョッキの半分といったところだが、これは決してゆきが早いのではなく、ちやが遅いのである。ちやはビールが嫌い、というほどではないのだが、飲むペースが驚くほど遅い。それはビールに限られたことではないが。
 ゆきがビールの代わりに生搾りグレープフルーツサワーを注文して待っていると、少し遠くからかすかな振動音が聞こえてきた。
 
「あ、私か」
 
 ゆきのバッグの中から、携帯電話の振動が伝わって音になっていた。あわてて取り出すと、サブディスプレイには『楠原さん』と書かれている。
 
「…………」
「どした?」
「んー……ちょっと、ごめん」
「どーぞどーぞ」
 
 一瞬ためらったあと、ゆきは携帯電話に出た。どうしようか、と迷ったのは、この間のことがあったからだ。それと、今朝メールが来ていたから。もちろん、返事はしたし、返事は返ってきている。だからメールのこととは違う用件だろう。
 それが、この間のことにつながる内容でないことを祈って。
 
「もしもし」
『あ、良かった出てくれたー! こんばんは、楠原ですー』
「こんばんは」
『今ちょっと大丈夫かな? 時間はかからないから』
 
 もちろん、一度出たのだからダメとは言わない。というか言えない。そういう断りをするのも苦手なゆきなので、時間がないから、と断るようなら最初から電話に出ることはない。

『あのさ、今度の金曜日あいてる?』
「金曜日ですか? 会社ですけど……」
『あ、ごめんごめん、夜。仕事あと。よかったら、飲みにいかないかなって。もちろんマサも一緒だし、この間の変な話はナシだから。この間のお詫びも兼ねておごるし。なんだったらちやちゃんも一緒にどうかな』
「そうですね……ちょっと待ってください」
 
 そう言って、ゆきが携帯電話の口を押さえてちやに金曜日の予定を聞いてみた。

「マジで? 喜んで行かせてもらうよー。っていうか、瀬田さんいる?」
「さあ」
「ま、あんまり飲み会とか参加しないって言ってたもんね。いいよ、ゆきが行くなら一緒に行っても」
「そう? じゃ、そう言っとく」

 ちやからのOKをもらったゆきは、楠原にその旨伝え、金曜日の待ち合わせ時間と場所を聞いてから電話を切った。
 ゆきが電話をしている間、ちやは黙々と酒を飲んでいる……ということもなく、ゆきの電話している状態を少し楽しそうに見ていた。

「なに?」
「いや、別に?」
「なんか見てたじゃん」
「いや、だってやることないし。ところでさ、ゆき、最近真幸さんとは会ってるの?」
「んー、たまに? この間、また会社に行く途中で会ったよ。あと、一緒にご飯したかな」
 
 ほんの数日前のことだと言うと、ちやは少し驚いた顔をしていた。何を驚いているのかわからなかったゆきは、それがどうかしたかと聞く。

「意外と会ってる、というか、連絡取ってたりしてるんだなって」
「そうかな。まあ、メールとかはそれなりにしてるけど」

  ふうん、と意味深に言うちやに、ゆきは少し嫌な顔をしてみせた。いや、表情に出たのはわざとではないのだが。

「あ、ごめんごめん。なんでもないから。何にも言いません」
「なんでもないって顔じゃない」
 
 いかにも何かあるだろうという顔をしていたし、面白がっているようにも見えた。ゆきにとって、不快な類の顔をしていた。
 ゆきがそういうのを嫌うのはよくわかっているので、ちやもあまり言わないようにはしているのだが、ゆきと同様に、どうにも顔に出てしまうということはある。

「っていうか、ちやこそずいぶん瀬田さんお気に入りじゃん」
「んーまあ、それなりに?」
「それなりにぃ?」
 
 本当に? と言いたそうな顔でゆきがちやに言うと、ちやはまあまあ、と笑ってごまかした。
 ゆきの記憶のなかには、瀬田を連れてきた楠原に、龍二が「グッジョブ!」などと言っていた覚えがある。といっても、ゆきもあれ以来瀬田に会ったわけではないので、その顔はすでに曖昧なものになっている。
 何といっても、龍二と知り合ってから、声優という職業の人に結構会っているからだ。たった一度だけのが多いけれども。だんだん記憶が薄れるとともに、どれが誰か区別がつかなくなってもいたしかたないものだ。
 
「何がそんなにお気に入りになっちゃったの?」
「んー、声がいいとか」
「それは真幸さんだってそうじゃん」
「それはゆき目線。いい声とは思うけど、好みの声とはまた違うものでしょ。顔の好みが違うのと一緒」
「まあ……それは否定しないけど。なんだかんだ言って、私とちやで同じ人好きになったことないしねぇ」
「そうそう」
 
 どれだけ仲が良くても、それは全く別問題、ということだ。

「っていうか、瀬田さんと連絡とかとってるの?」
「まあ、ときどき、メールくらいは」
 
 さらりと答えたちやに、ゆきは驚いた顔をした。まさか連絡をとっているとは全然思わなかったのだ。少なくとも、あの飲み会以来ゆきには一度もメールはきていない。もちろん、ゆきもしていないが。
 飲み会のあと、一度お礼のメールをしたと言ってはいたけれど、それから続いているとはこれっぽっちも思わなかった。ゆきだって龍二と何度も会ったりしなければ、今のように連絡をとっていることもなかっただろう。楠原だって、ほぼ連絡などしていない。
 
「……ちやってすごいね」
「何が?」
「いや、うん。気にしないで」

 自分には到底無理だ、と思いながら、ゆきは苦く笑っていた。
 
 
 ◇◇◇◇
 
  
 あっという間に訪れた金曜日、ゆきは急いでいた。
 今日は楠原たちと約束した日だ。ちやはとうに向かっているという連絡が来ている。こんな日に限って、ゆきは仕事が忙しく、残業になってしまった。もちろん、楠原と龍二、ちやにメールは送っている。
 かといって、連絡してあるから遅くなっていい、というわけではない。なにしろ、彼らは先に向かわずに、近くでお茶でもしてゆきを待っている、というのだ。
 少しだけ遅れる、と言ったせいもあるのだが、先に行っていいと言っても待っているというのだ。そう言われたら、急がないわけにはいかない。
 残っていた仕事のうち、急ぎでない仕事は翌週に回して大急ぎで片づけた。あわただしく会社を出て、駅に向かっていた。待ち合わせ場所は二駅隣り、そこから徒歩で5分程度。少しでも早く行かなければ、と焦っていた。

「あ、きたきた。ゆきちゃーん」
「……真幸さん! なんでこんなところにいるんですか」
 
 あわてて行った駅の前で、龍二が手を振っていた。
 待ち合わせしたはずなのに、なぜこんなところにいるのか、と驚くのも仕方ないことだろう。けれど、そう言われた龍二の方もまた、驚いた顔をしていた。
 
「え、いや、俺も少し遅れるってメールしたでしょ」
「……え」
「気付かなかった? 帰り準備してた頃だったのかな」
「あ、ホントだ」
 
 携帯を確認してみると、確認していないメールが一件。龍二からのメールだった。

「ゆきちゃんがもう出るって連絡がクッシーのところに来たって連絡あったから、ちょっと待って会えたら一緒に行くって言っといたんだー。よかった、先にゆきちゃん行っちゃってなくて」

 ひとりで遅刻するところだったよー、と龍二が笑う。

「あ、で、でも楠原さんが待ってるって」
「うん。どうせなら一緒に行きたいからって。ちやちゃんは待ち合わせ間に合ったのかな」
「特に連絡来てないから大丈夫だと思いますけど……でも、楠原さんの顔覚えてるか心配で」
「あー……確かに」

 龍二もまた、ちやと待ち合わせができるかはちょっと自信がない。まあ、メールアドレスは貰ってるので、連絡しまくってなんとか合流できるだろうけれども。
 そしていざ合流してみたら、どうしたらいいかわからなそうだな、と思っていた。
 だがそこは相手は楠原だ。龍二にはそこは大丈夫だろうと確信していた。楠原ならば、ひるむことはない。
 電車に乗ること二駅。あっという間につくだろう、ということで、ドアの近くで二人で並んで立っている。一緒に電車に乗ったことなんて……あったっけ? などと考えていた二人だが、当然のように二人とも口には出さない。
 電車の中なので静かに、というのはあるのだが、そうすると思わず沈黙が走ってしまって、えーっと、と言葉を考えてなんとか話だしたのは龍二だ。
 
「あ、そうそう、今日はクッシープレゼンツなんだよ。サプライズゲストを用意するとか言ってた」
「サプライズゲストですか? うーん、誰が来ても大抵知らない人なんで、あんまりサプライズにならない気がしますけど」
「確かに……でもホラ、クッシーだから。そういうのは気付かない……」
「…………」
「あれ、俺クッシーをフォローした方がよかったのかな? あれ」

 思わず否定も肯定もできなかったゆきであった。




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