月姫と律師のとある一日。



 戒はぼんやりと外を眺めていた。朝の光が満ち始め、木々がきらきらと輝いている。
 銀色に近い長い髪は風に揺られてさらりと彼の横顔にかかるが、特に手で避けることなく風に踊るままにしている。その戒の姿を見つけた宿の女性がほう、と息をついた。
 わかる者にはその銀色の髪の意味を知っている。けれど銀色の髪を持つ者の威力を知る者などそう多くは無い。珍しい色だからこそ、振り返る女性も多いというもの。戒の場合はそれとは少し違う気もしないでもないが。

「戒? そんなところで何してるの?」
「……」

 外を眺めているように見える戒を見つけた美月が声をかけたが、戒からの回答は無い。
 首を傾げて美月は戒に近づくが、振り返る様子もない。

「……戒?」

 緊張しつつももう一歩、そっと近づいて声をかけるが、やはり返事はない。だが、かすかに聞こえてくるものがあった。

「……なんでこんなところで寝てるのよ」

 何のために自分は緊張したのだろうか、と思わず頬を膨らませる。そんなことを思っている美月をよそに、平和な顔をして戒は眠っている。だいぶ心地よい夢でも見ているのだろうか。その表情は穏やかなものだ。
 とはいえども、戒は常に穏やかな空気をまとっている。怒らせたらかなり怖いような気もするが、まだそれを見たことのない美月には優しいという印象が強い。時折、微妙な恐怖を感じることはあるけれども。
 緊張が解けた美月は近くの椅子に腰掛ける。やわらかい朝の光が部屋に差し込み、暖かい。
 春の日差しは気持ちいいなぁ、などと思いながら、ぼんやりと戒を眺めた。
 窓の外に人影が見える。この宿に泊まっているのだろう、女性客の姿だ。その二人組の女性客がちらちらとこちらを見る。なんだろう? と美月は首を傾げてきょろりと振り返るが、周りには特に変わったものもないし誰もいない。もう一度その女性客の方をみるとまだちらちらとこちらを見ている。

「……なんなの」
「何を怒ってるんですか?」
「あ、起きたの?」
「いつの間にか眠っていたようですね。おかしいですね、今日は早起きだと思っていたのに」
 残念です、と言って戒が笑う。
 いつも戒の朝は遅い。いつの間にか朝寝坊キャラが固定してきている。それを言うと、戒は苦く笑った。本人も自覚はあるのだが、なかなか良い目覚めが来ないらしい。

「ところで、美月は何を怒っているんです?」
「ああ……さっきから何かこっちを見てる人たちがいたから何なんだろう、と思ってただけ。怒ってたわけじゃないよ」
「でも、美月が気分を害されたのは確かですね?」
「うーん、まあ」

 害された、というほどのことではない。が、決してちらちらと見ていられることを良い気分とは思えず、曖昧に頷いてみた。

「じゃあ、そういう場合をどうやって切り抜けるか、お教えしましょうか」
「え? そんなのあるの?」
「ええ、もちろん。どうやって己の心に正直に、けれど揉め事を起こさずに済むか、それは重要なことですから」

 何かに秀でたものがある者は少なからずそういった場面にぶつかりますから、と戒が言う。美月はこれまで何かに秀でた覚えがないのでそういうものか、と聞いていた。月の姫であるという自覚がとにかく薄い、と戒によく言われるのだが、もともと日本においてはそういう風に見られたことがないのだから致し方ない。
 一方、戒は、銀の髪を持つ者、それなりの力を持っている上に、彼の容貌が周囲を騒がしくさせていた。
 それゆえに、表立っては優しい笑みを浮かべて、言うことが毒舌になったのかもしれない……とまでは、さすがに美月も言わなかったが。

「とりあえず、相手の顔をじっと見て」
「……うん」
「鼻で笑ってやれば良いんです」

 にっこりと戒が微笑む。それとは反対に、美月はがっくりと肩を落とす。
 それのどこが揉め事を起こさずに済ます方法なのかと問い質したくもなるのだが、それを訊ねたらさらにがっくりきそうだ、と美月は思えた。

「さ、試してごらんなさい」
「い、いや、遠慮しておく……」

 笑顔を作ってみたものの、少し引き攣っている。それに気付いたのか、戒はかすかに微笑んでから頷いた。

「まあ、どういう形であれ、揉め事を回避するのには相手にしないのが一番です」
「それ、戒に一番言いたいかもしれない……」
「そうですか? 私は結構、おとなしくしているんですけれどね」
「……おとなしくしてる人は相手を見て鼻で笑ったりしないと思うけど」
「美月、それはその人を笑っているわけではないですよ? その人の愚かさを笑っているのであって、決して相手を怒らせるためのものではありませんから」
「鼻で笑われて気分のいい人はいないと思うよ……っていうか愚かって……」
「当然ですね。ですから、相手にせずに、己の心に正直に、です」
「うぅ、言ってる意味がわからないよ、戒……どこまでも矛盾してる気がする……」

 そうですかねえ、と戒は微笑む。その笑顔はどこか優しいだけの笑みには見えないから、彼は彼で楽しんでいるのだろう。他人を見て鼻で笑う、なんて好戦的もいいところだ。

「彼女たちは、私たちをじろじろと見ていた、それが美月の気分を害した。私と美月のどちらかを、自分よりも下とみなしたのでしょう」
「そ、そうとは限らないと思うけど」
「そうですか? ですが、私は彼女たちの視線をそう受け止めましたよ。そういう目つきをしていた。人を羨む目、妬む目、それには結構鋭いですよ、私や、四蓬は。四蓬たちに聞いても、きっと同じように答えます」
「そう……なのかなあ?」

 確かに、四蓬も律師も鋭い観察眼を持っているのは美月も知っている。しかも彼らは、月姫にご執心だ。命よりも大切な月姫、そう言って憚らないような人たち。
 だからこそ、美月は恐縮しつつも、彼らを叱咤し続けている。
 『自分自身を守れないような人は嫌い』と。
 まあ、実際武術でも法術でも、"美月"は四蓬にも律師にも叶わないのだけれども。

「真実は彼女たちしか知りませんけどね。けれど、私は彼女たちにじろじろと見られるのが気分が悪かった。美月をじろじろと見られるのも、気分の良いものではありませんね。ですから、鼻で笑うんですよ。月姫の素晴らしさを知らない人間のクセに、って。愚かなものです、月姫を見下すなど、己を知らなさ過ぎる。だから、笑うんです」
「戒、それは言いすぎ。わたしは何も出来ない小娘なんだから。月姫という立場だけ考えるなら、そういうものかもしれないけれど、わたしはそういうの、嫌い」
「嫌いでも、実際そうだから仕方ありませんね。ちなみに『月姫』という立場だからといって、素晴らしいとは限りません。私は美月に仕えるから美月を素晴らしいと言っているわけじゃありませんよ。律師という存在はそれほど生ぬるいものじゃありませんからね」

 まだ、それほど長い月日を一緒にいるわけではない。けれども、戒は美月の人柄には少しなりとも触れてきた。その戒自身が、美月を認めたのだ。美月という少女が、自分が命をかけても仕えることが出来る相手だと。
 だからこそ、彼は彼女たちを嘲笑う。

「私にとって、四蓬たちにとって、宝ですからね、美月は」
「もーっ、そういう恥ずかしいこと言わないでってば! そもそも、戒がこんなところで寝てるから悪いんでしょっ。部屋に戻ろう、水杜たちも心配してるから」
「心配はしてないと思いますけどねえ。まあ、そろそろ出る時間ですからね、行きましょうか」

 にこりと戒が笑う。決して危険を含まない笑み。
 戒は、その笑顔は美月と四蓬にしか見せない。それは彼の矜持の高さのせいだろう。彼の『律師』という立場は、彼に誇りを与えている。その誇りが、彼に表情を選ばせるのだろう。
 いつでも相手を見下す笑みをしているわけではない。真実、信頼できる人たちには、真実の笑みを見せる。ただ、彼にとってそういう人になるには、ちょっとハードルが高いだけで。
 彼はいつだって笑顔だ。その笑顔の意味が、わからない人にとっては。

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