9:あなたは誰?






 電話から二日、というのはあっという間だ。特に、忙しい時期にさしかかったから仕方ないのだけれども。この日、ちやは忙しく社内で動き回っていた。この仕事をある程度終わらせなければ、明日出勤しなくてはいけなくなるからだ。
 ちやの勤める会社は、土曜日ももちろん休みである。だが、年に数回、土曜日出勤があるのだ。ちょうど明日は、その土曜出勤日。だが、その日はゆきと遊ぶ予定も入れたから、有休で休みを取っている。それなのに、忙しいからやっぱり出てくる、というのは絶対に避けたい。

「一條さん、これの請求書出てる?」
「え、どこの顧客?」
「えーっとね……」

 そんなやりとりを、今日何度もしている。ちやの仕事は、計数管理が多いため、外部の顧客と関わることはほぼない。同じ社内の営業とのやりとりがほとんどである。

「あー……肩凝った……」
「ひといきいれてくればー? 少し落ち着いたんでしょ?」
「あ、はいー。じゃ、ちょっとお茶でも買ってきます」
「いってらっしゃーい」

 同じ部署内はこの日壮絶な一日になっている。ひたすら請求処理をしているのだ。日々パソコンと向き合って、数字ばかりを見ているような部署である。
 とてとてとオフィスを出て、ちやは非常階段を降りる。会社の下にコンビニがあるのだ。コンビニに入って、お茶を買い、裏口の方へ回ってほんの一分ほどの散歩。これがわずかながらも気分転換になるので、こういう殺伐とした忙しさの時は、キリの良いところでそういった息抜きをしている。

「疲れた……」

 裏口には駐車場がある。顧客の出入りがあるところだが、顧客の出入りはそれほど激しくはない。なんといっても、一度ちやの勤める社内に入れば、時間のかかる仕事が多いからだ。

「あの、すみません」
「はい?」
「ここの会社の方ですか?」
「あ、はい。そうですけど……」

 突然、ちやに声を掛けてくる男がいた。細身の男で、少し釣りあがった目をしている。だが、その視線は穏やかだ。かけてきた声はやわらかめ、黒い髪がキラキラ輝いている。
 そんな、彼の人物像を見るよりも先に、ちやはまずい、と思った。
 ここで声をかけられると、大抵は駐車場を開けてくれというのだ。このビルの駐車場は、立体駐車場で、鍵が必要になるのだ。車で来る顧客も多いため、営業では当然立体駐車場の使い方は心得ている。だが、ちやのような顧客との縁がほぼ無い仕事をしている人は、その駐車場の使い方などわからないのだ。

「ああ、良かった。営業部の高橋さんに連絡を取りたいんですけど、先ほど受付の電話から内線がかからなくて……」
「あ、す、すみません。高橋ですね。ではどうぞ、中でお待ち下さい。すぐ呼びますので」
「すみません、お願いします」

 ぺこりと彼が小さくお辞儀をするのを見て、いいえ、と言ってからちやはビルに入ろうとする。瞬間、手を止めて振り返る。

「申し訳ございません、お名前いただいても?」
「あ、ブラウンルームの瀬田といいます」
「ブラウンルームの瀬田さまですね。少々お待ちくださいませ」

 慌ててちやはビルの中に入り、こちらにおかけください、と瀬田を促して、受付の電話を手にした。営業の高橋の内線PHSに電話をかけるものの、一向に繋がらない。

(ちょっと高橋さん〜〜〜っ!)

 営業といえども、お客様対応をしている場合もあるから、電話に出られないこともある。それは仕方ないのは仕方ないのだが、やはりこういう場合、呪いたくもなる。電話を一度切り、別の番号を呼び出す。高橋のデスクの内線電話だ。そこにかければ、少なくとも他の営業が出てくれるから、対応してくれるだろう。

『はい、営業部です』
「あ、管理の一條です、お疲れ様です。高橋さんいらっしゃいますか?」
『高橋? 今多分スタジオ入ってるんだけど……電話?』
「お客様です。今受付に……えと、ブラウンルームの瀬田様が」
『ブラウンルームの瀬田さん? なんでだろ、わかった、すぐ行く』
「お願いします」

 とりあえず電話に出てくれた営業が来てくれるということなので、ちやはほっとした。スタジオに入ってるとしたら、どこかの顧客と一緒にいるのであって、内線のPHSに出られないのは納得できる。納得は出来るが、これ以上どういう対応をしたら良いのかなどわからないのだ。

「瀬田様、ただいま高橋が外しているようで、今、営業の佐川が来ますので、少々そのままお待ちいただけますでしょうか」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」

 ぺこりとまた瀬田が頭を下げる。その時に、やっとちやは瀬田の顔をまともに見た。そして彼の、さらさらの髪も。

「では、失礼します」
「ありがとうございました」

 ちやもまたぺこりと頭を下げて、ビルの非常階段のドアに向かっていった。
 おそらく、それほど経たずに佐川が来るだろう。佐川は高橋の先輩だし、部内のことは結構熟知しているし、困ることはないだろう。
 ちやは階段を上がって、自分のデスクに戻った。

「あ、一條さん、このお客さんの請求書、もう出しちゃった? ちょっと変更したいんだけど……」
「ちょっと待ってください」

 ちやは仕事に戻りつつ、ふと思い返している。先ほどの営業取次ぎの客だ。ブラウンルーム、と言ってはいたが、あまり聞いたことがない。ちやは仕事上、取引先の顧客名はよく聞くのだが、その顧客の中に『ブラウンルーム』は記憶になかった。

「一條さん、さっきありがとね」
「あ、いえいえ。高橋さんのPHSに繋がらなかったから。すみませんでした」
「いや、助かった。来るかもって聞いてはいたけど、まさか瀬田さんが来ると思わなかったし。そのまま部屋案内してきたよ。高橋が行ってる部屋に観に来たらしいから」
「そうなんですかー。っていうか、ブラウンルームって聞いたことないから、ちょっと戸惑っちゃいました」
「ああ、そうだよねえ。あ、もしかしたら、スタイラス・プロモーションのマサキってひともくるかもしれないんだ。そしたらオレか高橋につないでくれる? その人もおんなじだから」
「了解しましたー」

 マサキ、という名を聞いて、ちやは首を傾げる。どこかで聞いたことあるような……? けれどスタイラス・プロモーションというのがまた、ちやの聞いたことのない会社だ。

「まさかね」

 もしかしたらマサキって真幸龍二──親友のゆきの知り合いかもしれない。ちやの勤める会社の業種上、俳優とか、声優とかが来てもおかしくはないが……まさかそんなことはないだろう、そんなことをふと思っていた。





 土曜日、ゆきは家でのんびりしていた。夕方までは出かける予定はないし、ちやとは、その前に会う約束はしているものの、ゆきの家に来ることになっている。午前中のうちに洗濯を終わらせ、パソコンの前に座って適当にサイトを見に行ったりしながら、ぼんやりとしている。
 おそらく、ちやが来るのは昼過ぎ。昼食も食べずに来ることだろう。ちやは基本的に寝起きが悪い。不機嫌になるとかそういうことではなく、起きられないのだ。だから昼近くまで寝ているだろうことは想像に難くない。
 ──の、はずだったのだが。

「おじゃましまーすっ」
「ずいぶん早かったねぇ」

 この日、ちやは昼に現れた。おそらく、通常の休日なら、ちやの起きる時間だろうに、そんな時間にゆきの家に現れたのだ。ゆきは驚いた顔をしている。

「たまには早起きするってぇ。ほんとにたまにだけどね」
「はいはい。ご飯は食べたの?」
「まだ」
「それはいつもどおりか。んじゃ、何か食べる?」
「ゆきは食べたの?」

 まだだよ、とゆきが答えると、同じのー、とちやが笑った。暗に「ゆきが作れ」ということである。まあ、それもまたいつものことなので、はいはいと頷いてゆきが料理を始めるのだが。

「そういえばさー、今日ってどんな人が来るの?」
「聞いてるのは真幸さんと楠原さんだけだけど……」
「そうなんだ。マサキさんとクスハラさんって、どんな人?」
「どうといわれても……私も数回しか会ってないし。まあ、良い声してるのは確かだよ」

 声優だからといって、声がいいとは限らない。声がいいか悪いかなどは、本人の主観が入り混じるから。ただ、紛れもなくゆきにとって、龍二の声は『良い声』であった。つまり、好みなのである。
 当然、そんなことは口にはしなかったが。
 夕方になって、ゆきとちやは家を出た。合流するのは新宿。ちょうど、龍二と楠原のこの日最後に入るスタジオが新宿らしく、そこで待ち合わせることになった。とは言っても、駅では人が多すぎて合流が難しいだろうということで、適当な店に入って、連絡を入れるという手段である。
 龍二と楠原が終る時間というのは、また明確ではないので、ゆきとちやが先行して行動するということだ。七時ぐらいにはいけるという話なので、新宿三丁目付近という話はしてあった。
 適当な飲み屋に入ってしまうか、それとも喫茶店あたりで合流するか、迷いながら新宿東口から辺りを見回しながら歩いているときに、ゆきの携帯電話が鳴った。

「はい」
『もしもし、真幸です』
「あ、お疲れ様です」
『お疲れ様ー。今どこ? オレ終わったから向かってるんだけど』
「あ、まだお店決めてなくて……今、東口から三丁目方面に歩いてるんですけど」
『そうなんだ。三越通り過ぎちゃった? オレその近くなんだけど』
「私たちもその辺ですけど…………あ」
『あ』

 電話をしながら歩いていると、向こう側から見覚えのある人物が歩いている。それを見つけたゆきと、きょろりと辺りを見回していた龍二の目があって、同時に「あ」と呟いたのだ。
 龍二はにこりと笑って手を振っている。

「……目立ってるよ、真幸さん……」
「え、どの人? もしかしてあの手、振ってる人?」
「そう」
「あの人が真幸さんかー」

 ゆきとちやがぺこりと頭を下げると、龍二もぺこりと頭をさげ、お互いに近づいていく。

「こんばんは」
「こんばんは。お疲れ様です」
「あはは、ありがとう。ごめんね、休みの日にわざわざ出てこさせちゃって」
「いえ、別にそれは。あ、こっちが友人の、一條ちやです。ちや、こちらが真幸龍二さん」
「はじめまして、一條です」
「はじめまして、真幸です」

 ご挨拶の時にぺこぺこと頭を下げあってしまうのは、日本人の習性だろう。道のど真ん中で、邪魔だというのはあるだろうけども。
「クッシーは連絡とれなくて、多分まだやってるんだと思うんだよね。そのうち連絡入るだろうから、どっかお店入っておこう」

 そう龍二に促され、ゆきとちやが頷いて、龍二のあとに続いた。何を食べようか、何にしようか、などと話をしながら決めたのは、結局ビルの五階にあるちょっと綺麗な居酒屋。たまに来ることもあって、楠原も確実に知っているからちょうどいい、と龍二が言った場所である。

「とりあえず、かんぱーい」

 龍二の合図で、三人はビールのグラスを軽く掲げ、かちんとグラスを合わせた。楠原からはまだ連絡が来ていないが、それはそれでまたあとで、ということである。

「一條さんとゆきちゃんは付き合い長いの?」
「えーっと、そうですね……いつからだっけ?」
「忘れてんのかい! 中学からだから! 中学のクラスメイト!」
「そうだっけ」

 忘れんなーっ! とちやが言うと、ゆきがくすくすと笑っている。意地悪な笑顔である。龍二はそんな二人のやりとりを楽しそうに笑って見ていた。彼女たちの思い出話などを織り交ぜて、龍二も同じように思い出話などをしながら。

「そういえば、真幸さん、ヘンなこと聞いてもいいですか?」
「へ? なに?」

 突然、改めて、という顔でちやが訊ねてきた。

「昨日、ミリオールって会社に行きませんでした?」
「ミリオール? ああ、行ったかな。ナレーションの確認で……って、一條さん、なんで知ってるの?」

 わずかに龍二の顔に警戒が走る。ゆきは違うと言っていたが、もしかしたら声優好きな人なのだろうか、と。

「あ、やっぱり。『スタイラス・プロモーションのマサキ』さんって真幸さんだったんだ。私、ミリオールで働いてるんですよ。といっても、営業じゃないから、スタジオのことは全くわからないけど」
「え、そうなの!?」

 驚いた顔をした真幸が、ゆきを振り返る。ゆきはにこにこと笑って頷いた。電話を貰ったときに、マスコミ関連の会社で働いているということは、伝えてはいたが、まさかそこまで関係あるとは、龍二も思ってはいなかったのだ。マスコミといっても幅は広い。

「へー、知らなかったー」
「昨日、もしかしたら真幸さんから連絡くるからって会社の人に言われて、アレ? って思ったんですよ。結局取り次ぎはしなかったですけどね」

 意外だね、とゆきとちやが笑いあっている。
 ちやの仕事上、芸能人だとかそういう人が会社に来ることはあっても、ちやがその名を聞くことはほぼ無いに等しい。それにも関わらず、珍しく話題に上った芸能人の名が龍二だというのは、驚くには十分だった。
 まあ、それでも、ゆきと龍二の出会いの偶然には及ばないだろうけれども。

「あ、ごめん、クッシーからメールだ。えーっと……え?」

 携帯画面を見ている龍二が、楠原からのメールを見て、目を丸くしている。そんなに驚くようなことでも書いてあったのだろうか? とゆきとちやが目を合わせた。

「なんか、サプライズゲストが来るらしい」
「サプライズ?」
「サプライズ?」

 龍二の言葉に、ゆきとちやが同時に声を合わせて答えた。それを聞いた龍二はきょとんと目を丸くしている。
 あ、とゆきとちやが顔をあわせると、二人同時に「またか!」と笑い出した。

「今日も見事なシンクロ率で」
「ホントにね」

 そう言って笑っている二人を見て、龍二が首を傾げる。

「結構多いんだ?」
「多いんですよ」
「多いんですよ」
「…………そうみたいだね」

 ぷっと龍二が笑い出す。
 やっぱり友人と一緒に、というのは良策だったらしい。先ほどから、ゆきが今まで見せなかったような表情が、くるくると出てくる。龍二はそれを楽しんでいた。
 それからしばらく、軽くお酒を呑みつつ、仕事の話などで盛り上がっていると、楠原が姿を現した。開始から三十分ほどの遅刻である。

「お待たせしましたー」
「おー、お疲れ、クッシー……って、ええっ、サプライズゲストって、玲くんだったの!?」
「そーだよ! オレ偉いでしょ!」
「何が偉いの。お疲れさま、真幸くん。なんかいきなり連れて来られちゃいました」

 にこりと笑って、楠原の後ろから現れたのは、黒いさらさらの髪をしていて、少し釣り目の、そう昨日、ちやが見た、あの人である。

「あ、ごめん、紹介するね。えーっと、こちらはお仲間で、瀬田玲くん。玲くん、こちらが暁ゆきちゃん。とお友達の一條ちやさん。一條さんとはオレたちも初対面なんだけど。あ、一條さん、こいつがクッシー、楠原ね」

 龍二が彼らを紹介すると、ゆきとちやがはじめまして、とまた全く同じタイミングで声を揃えていった。

「ぷっ」
「あ、真幸さん、笑わないでくださいよ」
「ごめんごめん。なんか本当に仲がいいんだなーって思って。クッシー、ほら、自己紹介はしないの?」
「あ、はじめまして、楠原 友一、事務所はサテライト・フィッツです!」
「やっぱり事務所言うんですね、楠原さん」
「そりゃもう」

 ゆきに自己紹介したときと同じように、事務所まで言う楠原に、珍しくゆきがツッコミを入れた。それを聞いて、一瞬楠原は驚いたようだが、にかっと笑って答えた。

「え、もしかしてぼくも自己紹介しないといけないのかな? えーっと、瀬田玲です」
「それだけ!?」
「うん、それだけ。だって事務所言う意味わかんないよ、そんなの知ってもしょーがないじゃない。それに、一條さん? は事務所知ってるし、ね」

 にこりと笑って瀬田がちやに振ると、ちやはぽかんと口をあけている。どうやらかなり驚いているようだ。

「あれ、玲くん、一條さんと知り合いだったの?」
「ううん、昨日初めて会ったんだよ。暁さん、はじめまして」
「あ、はじめまして。暁ゆきです」

 ぺこぺことお互いが頭を下げあい、それから楠原と瀬田も座って、宴会の仕切りなおしになった。
 楠原のサプライズゲストの効果は、予想外にもちやに一番効力があったらしい。





   BACK * MENU * NEXT