19:ランチデート






 緊張する。青山という場所にはあまり縁がないし、何より、今日は『ランチデート』という名目までもついている。
 ただ呑みに行く、とか食事に行く、というぐらいなら、そこまで気を使うこともないだろう。けれど、言われたのは『ランチデート』。ゆきに緊張させるには、十分な言葉だった。
 現在、ゆきは一人、駅で龍二を待っている。昨日の電話での待ち合わせ場所はここで間違いないはずだ。そう思いながら、間違ってないだろうかとドキドキしながら周囲を見回す。
 梅雨も終わりに近いからか、今日は天気が良い。暑さも上々、街に出てくる人たちは、一様に薄着で、晴れやかな顔をしている。そんな中で、ゆきは緊張した顔をしていた。

「……早く来すぎた……」

 そんなに心待ちにしていたのか、とか思われるとちょっと恥ずかしいな、と思いつつも、待ち合わせに遅れていくということは絶対にしたくないゆきの性格上、少し早めの到着を予想して家を出てきていた。
 が、予想外に電車の乗り継ぎなどがするするとうまくいき、十分前の到着の予定が十五分前の到着になってしまっていた。ものすごく張り切っているように見える自分が少し嫌だ、と思いつつ、辺りを見回して龍二が来るのを待っていた。
 場所柄か、会社員風の人は今日は少ない。そのかわり、綺麗に着飾った女性や、こぎれいな格好をした男性が闊歩している。そんな人たちを見ながら、ゆきはふう、と軽くため息をついた。
 憂鬱、というわけではない。
 ただ、自分の中に漂う緊張感に、なんとも言えない気持ちがある。
 龍二に会うのが嫌だというわけではない。
 ただ、自分の今の状況に、おかしな緊張感が混じって、複雑な心境になってしまっているのだ。

「あー……緊張するー……」

 ヘンな名目をつけたりするから、余計に緊張してしまう。
 これって、デート? などと中学生のようなことまで考えてしまう。デートってなんだっけ……という、ゆき独特の微妙な思考も含まれるが。
 街中を歩いていくカップルたちを見て、楽しそうだなあ、などと微笑ましい気分になったりしているゆきは、時々時間を確認しては、龍二がまだ来ないか、ときょろきょろしていた。

「……うーん、ちょっと胃が痛くなってきたかも……」

 変な緊張感のせいか、胃がキリキリと傷む。ゆきが考える以上に、身体はアピールしてきているのかもしれない。無理をするな、と。緊張のしすぎだ、と。
 そんなことを考えながら、ゆきはぼんやりと立っていた。十五分前に到着したゆきは、すでにその場所で十分ほど立ち尽くしている。龍二は、いまだ現れていなかった。

 待ち合わせの予定時刻の五分前。けれどまだ龍二は現れていない。彼は時間ぴったりぐらいを目指して来るタイプなのかもしれない。
 そう思いながらゆきはきょろきょろと辺りをまた見回した。と、同時に、ゆきの背中をとんとん、とつつく手があった。
 くるりとゆきが振り返ると、そこにはにっこりと穏やかな笑顔を見せた男がそこにいた。

「久しぶり、ゆきちゃん」

 にっこりと浮かべられた笑顔を見て、ゆきもまたにこりと微笑を返す。待ち人、到着だ。
 待ち合わせの場所が間違っていなかったことにほっとして、ゆきも思わず安心した笑みを浮かべていた。

「お久しぶりです、真幸さん」
「もしかして、結構前から来てた? 待たせちゃったかな」
「そうでもないですよ。まだ時間前だし」
「そう? なら良いんだけど……さて、じゃあ、どこに行こうか」
「え」

 突然振られた言葉に、ゆきがきょとんと目を丸くする。どこに、といわれても、ゆきはこの辺りはほとんど来たことがなかった。それに、ランチデートなどと言われてから、ゆきはそんなことには微塵も思考が回らなかったのである。

「あ、もしかして特に考えてない? じゃあ、適当にぶらぶらしようか。散歩でもしながら、適当にお店入ってお昼、って感じでいい?」
「は、はい、じゃあ、それで」
「どしたの? なんか緊張してる?」
「いえ、そういうわけじゃ……いや、そうかもしれないかな……?」
「そんな緊張しなくても」

 けらけらと龍二は笑うのを見て、ゆきは少しだけむっとした顔をしていた。誰のせいで緊張してると思っているんだ、と。
 もちろん、ゆきが緊張するのはゆきの勝手であり、龍二の預かり知らないところかもしれない。が、ゆきにしてみれば、龍二が突然誘ってきたのであり、緊張させるような『ランチデート』などということを言ったから、という理由がある。
 それなのに、けらけらと笑われて、気分がいいはずもなかった。少しむっとした顔をしたゆきではあったが、龍二はそれに気付くことなく、じゃあ行こう、と歩き始めていた。ゆきは何も言わず、龍二の半歩後ろを歩き始めていた。

「最近はどうしてた?」
「は?」
「や、あんまりメールとか出来てなかったしさ。どうしてるかなーって思ってたんだけど。仕事とか、忙しい?」
「別に、なんの変わりもないですよ」
「そう? 飲み会とかはないの?」
「そんなにないですよ。春はまあ、送別会だとか歓迎会だとか続いたから結構出ましたけど、それ以外って出てませんし」
「そっかー。あ、ちやちゃんは元気?」
「ええ」

 淡々と返事を返すゆきに違和感を覚えたのは、歩き始めてから少し経ってからのことだった。普通に話しているようにも見えるが、どうもゆきの返事がいつもと少し違う気がするのだ。
 聞いたことには普通に返してくれるし、別にそれほどの変化を感じるものではない。けれど、どこかそっけないような、そんな感じがあった。
 龍二が首を傾げてちらりとゆきを見ると、ゆきの表情はあまり無かった。そりゃ、何もないのににやにやして歩いていたら気味が悪いけれども、そういう問題ではなく、無表情に近い。

「……あの、ゆきちゃん?」
「はい?」
「何か、怒ってる?」
「別に怒ってませんよ」
「そう? なんかその……無表情になってない?」
「そんなことないですけど」

 そう言って返してくる返事も、そっけない。淡々と、本当に返事をするだけで、それ以上何かを言おうとはしないのだ。
 龍二の方を見るわけでもなく、ゆきはただ前を向いて龍二の隣を歩く。普通といえば普通だろう。けれど、龍二はその無表情は、『怒り』が含まれているように感じてならなかった。

「ごめん、オレ、何かヘンなこと言ったかな」
「何でですか?」
「だってゆきちゃん、怒ってるじゃん」
「怒ってませんよ」
「怒ってるって。だってほら、こっち向かないし」
「こっち向かないって……ちゃんと前向いて歩かないと転ぶじゃないですか」

 そう言いつつも、ゆきは龍二を見ようとはしていない。それが今度は、龍二の癇に障った。

「ゆきちゃん、ちょっとお茶でもしよう」
「でもお昼食べるんですよね? お茶してたら、お昼入らなくなりますよ」
「じゃあ、お昼食べられるところ」

 そう言って、龍二は無言で歩き始め、ゆきはただ、そのあとについて行った。


 無言が続くまま龍二が入ったのは、駅からしばらく歩いた場所にある、 喫茶店のような場所だった。けれども、ランチタイムにあわせてか、いくつかのお食事メニューが出されている。
 ステンレスのような銀色の扉の向こう側に、木製のテーブルが六つほど並んでいる。その奥はカウンターのようになっていて、ギャルソン風な制服を着た店員が立っていた。外側から見た印象とは少し違い、しっとりとしたバーのような雰囲気をかもし出している。

「いらっしゃいませ。空いているお席にどうぞ」

 店員がそういうのを聞いて、龍二はあっさりと席を決める。店内一番奥の窓際で、明るい席だ。店内は程よく冷房が入っているのか、暑くも寒くも感じさせない。

「失礼いたします」

 そう言って、店員が水を注いだグラスを持ってくる。お決まりの頃にと、言って龍二とゆきのテーブルを囲んだカーテンをするりと閉め、店員も出て行った。

「なんかすごいお店ですね」
「簡易個室って感じだね。オレも入ったのは初めてなんだけど」
「そうなんですか」
「とりあえず、飲み物だけでいい?」
「あ、はい」

 まだ待ち合わせで会ってからそれほど時間は経っていない。このあと龍二が仕事であることを考えれば、あまり早く食べてしまうとあとが持たなくなってしまうのではないか、とゆきは思っていたのだが、龍二が飲み物だけ先に、と言うなら、それに反論するつもりはなかった。
 少しして店員がカーテンを開けて現れると、龍二とゆきがアイスコーヒーをオーダーする。それほど経たずに店員がコーヒーを持ってくるまで、二人はまた、無言だった。
 だが、その無言もそこまでだ。
 店員が出たり入ったりするのが終わり、口火を切ったのは龍二の方である。

「それで、何で怒ったの。オレ、気に障ること言ったんでしょ?」
「は……? 別に怒ってませんけど」
「怒ってた。今は怒ってないのかもしれないけど、怒ってたでしょ」
「そんなことないですって」

 聞こうとする龍二に対して、ゆきはそんなことないと言い張る。が、龍二としても、そうして言い張られるのにむっとさせられていた。
 明らかに怒りを感じられるのに、なんでそれを言わないんだ、と。自分が原因ならば、ちゃんと教えてくれないとわからない。なのになんでもないで終わらせられると、どうにもできないのに。

「じゃあ、怒ってるってほどじゃなくても、ムッとしてたでしょ」
「そんなこと……っていうか、真幸さんこそ、なんで怒ってるんですか」
「そりゃ怒りたくもなるよ。ゆきちゃんは何で怒ったのか教えてくれないし、それじゃオレ、謝れないじゃん」
「…………別に、真幸さんに謝ってほしいわけじゃ」
「でも、オレが悪いのならオレが謝るべきだ。けどゆきちゃんが理由を教えてくれないと、謝ることも出来ない。理由も知らないで口先だけ謝ることに意味はないし」

 ゆきの目をしっかりと見て、龍二がそう告げると、ゆきは少しだけ目元を険しくして、俯いた。
 改めて考えてみれば、何に対して怒ったのか、それはとても些細なことに思えたのだ。けれどあの一瞬は確かにムッとしたし、怒っていた。だからそれが顔に出てしまっていたのだし、龍二はそれに気付いてゆきに何を怒ってるのかと聞いてきたのだが……その『些細なこと』と今思えてしまうそれを、口に出すことが出来ずにいるのだ。

(緊張してるのを笑われてムッとしたなんて……言えるわけないでしょー!)

 思い返してみれば、どれだけ短気なの自分! と自分に言いたくなるほど、些細なことだったと思えるのだ。

「ゆきちゃん、せっかく会えたんだからさ、ちゃんと話そうよ。ゆきちゃんが何を思ったか、それでどんな顔をしたか、なんて、メールじゃ絶対わかんないんだよ。昨日、会おうって言ったときだって、ゆきちゃんがどんな顔してたかなんてわかんないし、こうしてせっかく顔を見て話せるんだから、ちゃんと話ししよう」
「それは……わかりますけど」
「じゃあ、その最初は、なんでムッとしたのか、教えて」
「…………」
「ゆきちゃん」

 呼ばれて、ゆきはまたうっと無言になってしまう。第一、緊張してるのなんて、私の勝手だし……と思いながら、ゆきがちらりと龍二を見る。
 その龍二はといえば、少し怒ったような顔をしつつも、じっとゆきを見ている。怒っている、というよりも真剣な顔、と言えるだろう。その龍二の顔を見て、ゆきは小さくため息をついた。そしてぽつりと、呟く。

「…………その、緊張、してたんですよ、私」
「うん、そう言ってたよね」
「だから、すっごく緊張してたんです」
「うん」
「そりゃ緊張なんて私が勝手にしてただけなんですけど……何も笑わなくても」
「え……?」

 龍二が首を傾げる。そんなこと? という顔に見えたゆきは、頬を紅潮させて、うう、と唸った。龍二はそんなこと? などとは全然思っていないのだが、ゆきにはそう見えてしまって、思わずゆきは必死で説明をはじめていた。

「だからっ、本当にたいしたことじゃないんですってばっ。もう怒ってませんし、真幸さんに謝ってもらうことなんてなんにもないんです!」
「え、あ、そ、ええ?」
「なんですか」
「ああ、いや、うん、でも、オレが笑ったのが悪いんだよね。うん、ごめんね、ゆきちゃん」
「だから謝らないで下さいってばっ」

 ぺこりと頭を下げる龍二を見て、ゆきが慌てて両手を振る。龍二は顔を上げはしたものの、その表情はいたってマジメなものだった。
 ゆきだって別に、謝ってほしいなどとは一ミリも思っていなかった。ちょっとだけムッとしたのはあったけれど、それが回復している今では、本当に些細なことだったと思っているのだ。
 それでも、龍二はゆきに言う。

「だって、オレのせいだもん。でも、緊張なんかしなくても、って言ったのは本当だよ? オレ相手に緊張することなんてないし」
「そうは言っても、緊張するもんなんです!」
「そっか、そうなんだ。うん、ごめんね」
「また笑ってるしっ。あーもう、だからもうなんでもないって言ったのに」

 ぶつぶつとそう言っているゆきを見ながら、龍二はにこにこと微笑んでいた。本当に、些細なこと。些細なことではあるけれど、こうして顔を赤くして本当のことを教えてくれて、そんなゆきを見て、微笑ましい気分になってしまっていた。

「でもそんなに緊張する? オレ、そんなにオトコマエかなあ」
「勝手に言ってて下さいっ。もう、真幸さん相手に緊張なんか二度とするもんかっ」
「えー、デートの前は緊張してよ、少しぐらい」
「そ、そんなこと言うから緊張したんじゃないですかっ」
「え?」
「!」

 あ、という顔をして、ゆきがぷいと顔を背ける。冷たいコーヒーを啜って窓の外に目をやるゆきの横顔は、耳まで赤かった。自分の紅い顔を隠したかったのだろうけれども、どうやら横を向いただけではまったく隠れていないことに、ゆきは気付いていない。そんなゆきを見て、くすりと龍二は笑う。

「ゆきちゃーん?」
「なんですか」
「そんな、顔背けたまま返事しないでよ。冷たいなあ」
「ええ、冷たくておいしいコーヒーですねっ」

 そう言って顔を背けたまま、コーヒーを啜り続けるゆきを見て、龍二は笑っていた。

(なんかもう、かわいいなあ)

 くすくすと笑っている龍二を横目に見たゆきは、むぅ、と少し頬を膨らませている。それがまた龍二に笑みを浮かべさせるのだということに、ゆきが気付くはずもない。
 それよりも、ゆきは別のことに気付く。
 手に持っていたアイスコーヒーのグラスをテーブルに戻すと、今度はゆきが龍二をしっかり見て、頭を下げた。

「ゆきちゃん?」
「その、なんかそれで、真幸さんの気分を悪くさせちゃったみたいで、ごめんなさい」
「え?」
「真幸さんだって、このお店に入る前、機嫌悪かったでしょう?」
「ああ……ううん、それはいいよ。ゆきちゃんがちゃんと教えてくれたから、それでいい。でもゆきちゃん、なんでもないとかって、言いすぎ。なんでもなく怒ったりはしないでしょう? どんなに些細でも原因はあるんだからさ、だから、なんでもないって言わないで、教えてよ。なんでもないって言われたら、何にも出来なくなっちゃうから、ちゃんと教えて。些細なことでもいいからさ」
「……それは……まあ、でも、謝ってもらいたかったわけじゃないし……」
「でもそれで一方的に嫌われちゃったら寂しいよ。謝ってほしいわけじゃないかもしれないけど、それがきっかけで関わりを断たれたりしたらそれで全部終わっちゃうし。だから、謝って、修復できる機会はほしいな。ね」
「……はい」
「よし、じゃあ、この話はこれぐらいにして……ごはんどうしようか?」

 そう言って龍二はにっこりと笑って、テーブルの端にあるランチメニューを取り出した。

「せっかくのランチデートなんだから、気分をなおして楽しくご飯を食べよう」
「だ、だからそういうこと言わないでくださいよ……」
「えー、だって、オレはそのつもりだもん」

 唸り声を上げながらも、少しだけ顔を赤くするゆきを見て、龍二はにこにこと笑っていた。





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