20:そのあとで。






 不機嫌な表情はすっかり形を潜めて、ゆきと龍二は楽しく談笑しつつも食事をしていた。当初の予定では、適当に散歩をしたり買い物をしたりして、食事に行こうという話ではあったけれども、待ち合わせして早々の出来事のために、予定は大幅に変わって食事メインという形になってしまった。
 けれども、それでかえってよかったかもしれない、と龍二は思っていた。
 外は湿度も高く、暑い。それになにより、正面きって、ゆきとゆっくりと話をすることが出来るのだ。店は簡易個室になっているから、他の人の視線が気になることもないし、ここしばらく忙しい日々が続いていた龍二にとって、ゆっくりと過ごせる時間だった。

「そういえば」
「え?」

 何気ない日常の話や、テレビの話、仕事の話などをしてると、突然ゆきが思い出したように切り出した。

「このあいだ、真幸さんの声、聞きましたよ」
「え? 何で?」
「ゲームです。ちやが会社で掃除してたら出てきたらしくて、持ち帰ってきたんですよ。処分するやつだから、って」
「そうなんだ。なんのやつだろ?」
「えと、たしか……なんだっけ、『レインドロップ』……だったかな」
「えーっと……どんなゲーム?」

 ゲーム自体をよく覚えていないのか、龍二は首を傾げてゆきに聞いた。ゲームの音声収録というのは、発売時期から考えると結構前にやっているものである。しかも単発の仕事だったりしたならば、自分で演じたキャラクターを全て覚えているのは無理である。
 しかも、龍二は出演した作品のタイトルはなかなか覚えられないらしい。キャラクターの名前を言われたらなんとなくでも思い出すかもしれないが、それでも『なんとなく』だ。愛着が少ないといわれたらソレまでかもしれないけれど。

「多分恋愛ゲームだと思いますけど」
「うわ……」

 さらりとそう言ったゆきに、龍二は思わず眉を顰めて頭を抱えた。

「えーっと……真幸さん?」
「あー、うん、いや、別になんでもないんだけど」
「はあ」
「……そっかー、そーいうのやっちゃったのかー」
「えと……ダメでした?」
「あ、いや、ダメじゃないよ、全然。うん、本当に」

 おそるおそる聞いてきたゆきに、龍二がいやいや、と首を振るのだが、どうも表情がはっきり見えない。ゆきが首を傾げると、あー……と龍二は唸るのだ。

「あのー……真幸さん?」
「え?」
「どうかしたんですか?」
「ううん、どうもしないけど……その、さ」
「はい?」
「そのゲーム、やってみたんでしょ?」
「やるといっても、ちょっとだけですけど。キャラクター出しただけなんですけどね。びっくりしましたよ、吉川さんとか別人みたいだし、瀬田さんはすっごく優しそうな少年だし……すごいですね、演じる人たちって」

 まるで映画を見た後の感動を語るかのように、ゆきはすごいと感嘆の声をあげる。それを龍二は少しばかり恥ずかしい顔をして聞いていた。
 それも仕方ないことである。なにしろ、ゆきがやったというのは、『恋愛ゲーム』。つまり、龍二がキャラクターの声をあてて告白などしちゃっているものなのだ。もちろん、彼はそれが仕事だし、今更恥ずかしいと思うこともそんなにはなかった。
 けれど、このときばかりは、なにやら恥ずかしくて落ち着きをなくしている。そわそわとアイスコーヒーのグラスにささったストローを弄っている龍二を見て、ゆきは首を傾げる。

「あんまりそういうの見ないほうがいいですか?」
「ううん、そういうんじゃなくてね……。うん、ちょっとびっくりしたなって思ったんだよね。それに」
「それに?」
「や、あのー……なんていうかさ、恋愛ゲームだったわけでしょ?」
「はい」
「ほら……なんていうか、照れくさいというか何と言うか……」
「照れくさい……ですか?」
「う……ほら、人の告白シーンなんて見るものじゃないしねえ……」

 しどろもどろしながら次第に顔が赤くなり、龍二の耳も赤くなっている。
 龍二だって、今更と思うところはあるのだ。恋愛ゲームといったって、ピュアなラブストーリーもあればオトナなものだってある。いまどきボーイズラブというものだってあったりする。……流行っているのが微妙な気分だが。
 で、それを演じているのはここ最近のことではない。なのに、今更何を恥ずかしがるかと思わなくはないのだ。

「まあ……たしかに。でも、あれは真幸さんの声ですけど、真幸さんの言葉じゃないですし」
「……へ?」

 目を丸くした龍二がゆきを見る。ゆきは穏やかな笑顔を浮かべて、なんということもない顔で口を開いた。

「だって、一応脚本? を作る人が書いたせりふであって、真幸さんの言葉ではないじゃないですか。なんていうのかな……言わされてる言葉って言うのかな。リアルではないじゃないですか。まあ、絵で描かれた人に本気で愛をささやかれても困っちゃいますけどね」

 あはは、とゆきは軽く笑った。
 あくまでも、台詞。台本に書かれた、人の言葉を、その人のフリをして言っているだけ。その言葉は龍二の持つ言葉ではないから、龍二の言葉としてのリアルさはない、と。
 愛の言葉を言っているのは、龍二であっても、龍二ではないから、とゆきは言う。もちろん、その台詞がうそに聞こえては意味がない。それはプロの仕事として、間違っているから。
 だがゆきの言うそれは、確かに彼らが『演じている』ということを如実にあらわしているのだろう。キャラクターを『演じて』いる以上、その言葉は龍二のものではない。

「うん、そっか。まあそういう理解をしてもらえるとすごく嬉しい。でもさ」
「?」
「恥ずかしいものは恥ずかしいんだよねえ。そればっかりはどうにも……いまさら、とは思うけどさ」
「まあ、知り合いに聞かれたら恥ずかしいっていうのはあるでしょうし。というか、私には人前で演技ができる真幸さんが十分すごいと思いますよ。人前で話すのも苦手な私には絶対無理」

 龍二にとっては、聞かれたことが恥ずかしいかもしれないけれど、ゆきにとっては『演じる』だけでも恥ずかしくなるだろう、と思っていた。つまり、恥ずかしいと感じる次元が違う。
 ただでさえ、ゆきは人見知りはするし、人付き合いは苦手だし、人前に出ることなんてもってのほかだ。しかもその上、人前で『演じる』。ゆきにはありえないとしか言えない。

「うーん、その辺はほら……慣れ、とか」
「じゃあ、台詞を聞かれることにも慣れてるんじゃないんですか?」
「う……そう言われちゃうとそうなんだけど……なんかこう、恥ずかしかったんだよ、うん。ってことで、そのゲームは封印してね。声が聞きたいなら電話で!」
「え」
「えって何! いいじゃん、生龍二のが絶対いい声してるからっ」
「な、生龍二って……」
「あ」

 なんですかそれ、とゆきが苦く笑うと、龍二が突然小さく声をあげる。なにかと思ったゆきに、龍二がにっこりと笑った。
 その笑顔はとても無邪気で、楽しそうで。

「それがいい。そういえば、オレゆきちゃんって呼んでるのに」
「は?」

 突発的に言われたその言葉に、ゆきが首を傾げる。龍二が言っていることの意味がよくわからないのだ。龍二がゆきを『ゆきちゃん』と呼んでいるのがどうだと?

「ゆきちゃん、ずっとオレのこと真幸さんって呼ぶじゃない。ここで一発、思い切って名前で呼んでみよう」
「…………はぁ?」
「そんないやそうな顔しなくてもいいじゃん……」
「あ、いえ、そういうわけじゃなくて……」
「じゃあ、呼ぼう」
「無理です」
「えー」
「えー、といわれても無理なんですっ。そういうの、すっごく苦手なんですよ」

 名で呼ぶのが親しさの現れ、と言われたとしても、ゆきはとにかく苦手なのだ。ちやでさえ名前で呼ぶようになるまでに何年かかったことか。ふとした瞬間に愛称で呼んでしまって、ちやに「また戻ってる」とツッコミを入れられる始末だというのに。
 さらに言って見れば、これまでゆきが付き合ってきた男性にもよく言われたが、どうあっても彼氏の名でさえ呼ぶのが苦手で、愛称で精一杯だった。
 別れ際にはそれをぶつぶつと言う男もいた。名前で呼ぶこともできないことを、そこまで悪いことのように言われる筋合いはない、そう啖呵を切ったこともある。それぐらいに苦手としているのが、相手の名前を呼ぶことなのだ。

「そっかー。まあ、無理に呼べとは言わないけどさ。でも愛称か。そーいうのがあればそれで呼んでもらえるのか」
「なんですか、真幸さんじゃヤなんですか」
「ヤじゃないけど、ちょっと寂しい? みたいな。でもなー、ゆきちゃんにマサとか呼ばれてもやっぱり苗字だしなー。一回で良いから、名前で呼んでみない?」
「呼びません」
「即答しないでよー」

 さくっとゆきが言うと、龍二が苦く笑った。もちろん苦手だというのを無理にやってもらうことはないけれど、それでも一回ぐらい呼ばれて見たい。その龍二の欲は、ゆきのばっさりお断りに負けることはなかった。

「一回だけ」
「無理です」
「えー、一回だよ? 一瞬だよ?」
「一瞬って……その一瞬がものすごく恥ずかしいんですけど……」
「大丈夫、オレしかいないし」
「大丈夫の意味がわかりませんっ」

 ぷくりとゆきが頬を膨らませる。龍二はにこにこと笑っている。楽しそうな龍二とは正反対に、ゆきは少し唇を尖らせていた。

「ゆきちゃん、一回だけでいいから、ね?」
「……知りませんっ」
「ゆきちゃんが呼んでくれたら、今日の仕事絶好調だと思うんだけどなー」
「そんなことで仕事の調子を左右しないでくださいよ!」
「いやいや、声はテンションが出るからね。これは本当の話。機嫌が悪いとテンションの高い役は苦しくてしょうがないし。ご機嫌なときはいろんな演技が出来て良いんだよね、これが。ということで、オレのこの後の仕事のために、ご機嫌にさせてよ」
「だから呼び方ぐらいで機嫌を左右されないでくださいよ……」

 でも左右されるんだもん、と龍二が開き直ったように言う。開き直られても、無理なものは無理! そう思いながら、ゆきは話題を変えようと何とか脳内をフル回転させていた。何か他に話のネタはな いか……と。

「そ、そういえば今日ってこのあとお仕事なんですよね。今日はどんなお仕事するんですか?」
「今日はねー、ナレーション録りと、アニメが一本。そのあと歌録りがあるんだよね」
「歌! そういえば、まだ真幸さんの歌、聴かせてもらってないですね。レンタル屋さんとかにあるのかなあ」
「え!」
「え?」
「いや、あの、ほら、レンタルとかしなくてもさ」
「でも、前にお話聞いてからまだ一回も聞いてなくて。よく考えたらレンタルって手もあるんだなーと」

 うんうん、とゆきは頷いて、アイスコーヒーをすする。だいぶ氷が溶けて、水っぽくなっている。

「でもほら、ジャケットとか、アニメの絵とかで……借りるの、恥ずかしいんじゃないかなー、と」
「ああ……それは……でもまあ、別に知り合いがレンタル屋さんにいるわけでもないし」

 あっさりと言われて、龍二は撃沈する。そういうところはやけにあっさりしている。まあ、そういうゆきだからこそ、龍二が声優だとか言われてもオタクだとか思わないでいてくれているのかもしれないが。

「歌も恥ずかしいですか?」
「いや、そういうわけじゃ……あるけど……」
「あるんですか」
「あるような、ないような……あ、そうだ、じゃあ交換条件でどう?」
「交換条件?」

 何を交換するのだろう、とゆきが首を傾げる。龍二が思わず唇の端を上げると、ゆきは少しいやな予感がしたのか、ちょっと待って、と言おうとした。けれど、それは間に合わず。

「今日持ってるサンプル盤をゆきちゃんに進呈させていただく代わりに、名前で呼んでみる」
「いえ、レンタルしますから結構です」
「ダメ! レンタルはダメ!!」

 焦ったように静止をかける龍二にゆきが驚いた顔をする。

「いいじゃないですか、レンタル屋さんにあるかわからないですし」
「ダメです、それはずるいっ」
「ずるいってなんですかっ」
「だって、ゆきちゃんは希望通り歌が聴けるかもしれないけどさ、オレの希望は何もかなってないもん」

 すこし拗ねたような言い方に、ゆきは今度は笑ってしまった。かといって、龍二の言う希望とは、ゆきに名前で呼んでもらうことである。それはゆきにとって、とにかく苦手で避けたいところ。
 龍二自身は、歌を聴かれることはちょっと抵抗はあるものの、売っているものなのだから聴いてはいけないと言いきることは出来ない。一応、龍二の歌も商品なのだからそこまで酷いデキではないはずだ。
 ならばせめて。

「ゆきちゃん」
「ヤです」
「お願いしますっ」
「無理ですってば」
「どうしても無理?」
「はい、無理です」
「…………」
「拗ねても無理です」

 頑として受け入れてはくれないゆきに、龍二は苦く笑った。
 無理強いして呼んでもらっても、嬉しくはない。そう思った龍二はまあいっか、と呟いた。そして自分のバッグからCDを取り出す。

「はい」
「え?」
「あげる。うちに何枚もあっても仕方ないし、せっかく興味持ってくれたから」
「でも」
「もともとね、知り合いにあげられるように、何枚か貰ってたんだ。だからよかったら聴いてみて。まあ、歌手じゃないから、巧くはないんだけどさ」

 にこにこと笑って、龍二がそのCDをゆきに渡す。ゆきは少し戸惑いつつも、ありがとうございます、と礼を言ってそのCDを受け取った。受け取りはしたけれども、そうするとやっぱり呼ばないとダメなのか、とゆきは龍二の様子を見ている。

「いいよ、無理しなくて」
「え……」
「そのうち、慣れてきたら呼んでもらえるかもしれないし。オレの野望にしとくから」
「や、野望……ですか」

 ほっとしつつも、野望とまで言われてしまうと、どうしたものかとゆきも考えてしまう。まあ、恥ずかしすぎて無理は無理なのだけれども。

 それから少しして、気付けばもう、龍二が仕事に向かわなければならない時間になっていた。ほんの数時間というのは、あっという間だなあ、と龍二は考えていた。

「ごめんね、せっかくの休みにこの数時間のために出てきてもらっちゃって」
「いえいえ、どうせうちでぼけっとしてるだけですし。楽しかったですから」
「そう言ってもらえるとうれしいけど。これからそのまま帰るの?」
「そうですね、気が向いたらどこか買い物でもして帰ります」
「そっか、一緒に行けなくて残念だなあ。今度どっか遊びに行こうね。呑みも行こうね」

 龍二が言うと、ゆきがにこりと笑ってそうですね、と頷いた。それでも、ゆきからのお誘いが来ることはないんだろうなあ、と龍二も心の片隅では思っている。それを少し寂しくも思うけれど、自分で誘えば良いんだし、と思いなおした。
 店を出ると、湿気のある風が吹いている。陽射しは夏のそれよりもまだ弱いのかもしれないが、十分に外を明るくしていた。

「暑……」
「暑いですね……」

 うんざりという顔をして、二人が歩き始める。店から駅まではかなり近い。龍二が行くスタジオはそこからさらに数分、という近距離の移動だ。

「じゃあ、気をつけてね。今日は本当にありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「いやいや、だいぶ癒してもらったから。これでこの後の仕事も頑張れるよ、多分」
「多分ですか」
「あはは、大丈夫。じゃあ、行ってくるかー。またね、ゆきちゃん」
「はい、頑張ってくださいね、ま……龍二さん」
「え」

 にっこりと笑ってゆきがくるりと踵を返す。龍二は驚いた顔でゆきが階段を降りていくのを見送った。思わず棒立ちになったあと、ひとり、苦く笑う。

「参った、やられた」

 多分もう次はないんだろうなあ、そんなことを思いながら、にこやかに龍二は歩き始めた。



◆◇◆◇



「おはようございまーす」
「おはよう真幸くん」
「あれ、玲くん。どしたの?」
「ナレ録り。さっき終わったところなんだけど……っていうか、どうかしたの?」
「何が?」
「顔がにやけてる。怖い」
「そう? っていうか、怖いってひどい」
「そう言いながら笑ってたら気持ち悪いよ」






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