22:その瞬間。






 龍二はうなっていた。一本目の収録も終わり、次の現場に移動している最中である。
 話し相手がいるわけでもないその状況で、眉間に皺を寄せた龍二がひたすら考え込んでいた。

(……そうなのかな)

 収録中はさすがに考えないようにしたけれど、終わってしまえば、思考はそこにたどり着く。自分自身に向き合う、と言えば聞こえも良いだろうが、はっきり言って自分の心境に自信がないという状態である。
 ちなみに、自分の心境などを考え始めた理由は、楠原の言葉からだ。

『いつになったら告白するわけ?』

 さらりと言われたその言葉に、その瞬間奇声をあげた龍二だったが、楠原には呆れた顔をされた。本気で呆れた顔だったから、余計に龍二は沈んでいる。

「もしかして、まだ『そんなんじゃないよ』とか言うわけ?」

 ため息のオプションつきで楠原が言うけれど、龍二はただ素直に驚いていた。奇声を出した顔のまま、固まっている。

「だ、だってそんなんじゃ……」
「今現在進行形でそんな関係じゃないってことはじゅーぶんわかった。で、そんな関係になりたいとは思ってないっての? 正直に言ってみ?」

 そんな関係ってどんな関係だよ!? と心の中で叫ぶに留めたのは、言葉にすると楠原にさらにツッこまれそうだと思ったからだ。そしてそれは決して間違ってはいないだろう。
 言葉をなくした龍二に、さらに楠原はため息をつく。ちらと壁にかかった時計を見て、楠原は立ち上がった。

「あ、俺そろそろ行かなきゃ。マサ、これから1スタだっけ。俺3スタだから。じゃあな」
「え、あ、うん」
「よーく自分のこと考えてみろよ。マサのその悩みごとなんて、吹き飛ぶから。つーかそれどこじゃないって気づくと思うし」
「それどこじゃないって……」
「あったりまえだろ、そもそもそんな思考、なんでもない子に浮かぶかっての。あ、そうそう、この間そーちゃんがゆきちゃんのことかわいいって言ってたよ。そーちゃん、動き出すと早いからな」

 んじゃ、とひらひらと手を振って楠原が去っていく。龍二は唖然としたまま楠原を見送った。

(そーちゃんって……甲野くん? なんで)

 なぜそこに甲野が出てくるのか一瞬わからなかった。いや、ゆきのことを気に入ったみたいだ、と楠原が言い置いていった。確かに甲野はゆきを知っているし、ゆきを気に入ったとしても別におかしいとは思わない。ただ、楠原が言っていったその意味がわからなかった。その時は。
 ──そして、現在。
 収録が始まってすぐでこそ消沈した気分が残っていたけれども、さすがに仕事にそれを出すわけにはいかない。もともと台詞もそれほど多くなく、クールなキャラクターであったことが幸いして、それほど違和感を与えずに済んだようだった。
 そして収録が終わってすぐ次の現場に移動しなければいけないので早々にスタジオを出て、移動しているわけだが、今の今まで、ずっと同じことばかりを考えていた。

(そういう関係……か)

 楠原の言う『そういう関係』という意味がわからないほど、龍二も馬鹿ではない。が、楠原の言う甲野のことも気になっていた。
 そーちゃんが気に入ったみたいだよ、と言うのは、『そういう意味』でしかないだろう、あの会話の流れから考えれば。そしてそれは、おかしくないとは思う。けれど、何か不快だった。

(そりゃゆきちゃんかわいいと思うしさ……甲野くんが気にいるのもわからなくはないけどさ……)

 収録も終えて、それを考え始めた最初が、それだった。ゆきはかわいいと思う。甲野が気に入るのも道理だ、かわいいんだから。そこまでは肯定できた。けれど、何か気に入らない。何が? と自分に問いかけると、楠原の言う『そういう関係』というところに思考が及ぶ。

(つまりそれって……そーいうことか?)

 と自分の気持ちを考えてはいるものの、本当に? と何度も自分に問い返している始末なのだ。

(自分のことなのに、自分でわかんねー……)

 はあ、と軽くため息をついて、龍二は空を見上げた。空は真っ青、キレイに晴れている。さすが梅雨明け、相当暑い。額に汗を滲ませながら、龍二は次の現場に向かっていた。
 その時、龍二はすっかり忘れていたのだ。



「おはようございまーす」
「お、…………………………はよ」

 少し前にスタジオに到着した龍二は、他の仲間たちとそれなりに談笑していた。レギュラーのアニメの収録なので、現場にいる面々は毎週のように会っている。……といっても、他の番組でも一緒になっている人もいるので、週に一回とは限らないが。
 そんな状態の龍二が、一瞬にして複雑な表情になった。それはなぜか?

「真幸さん、今なんかいやな顔しませんでしたっ!? いきなりひどくないっ?」
「いやそんなことないよ。って来ていきなりオレに絡むなよっ」
「絡んでませんよっ。でもいきなりいやな顔するから〜」
「あー、そーちゃん、すぐ絡むからねえ……」
「絡みませんよっ。増田さんまで酷い!」

 今日の現場では、甲野がゲスト出演があるのだ。

(よりによってなんで今日!)

 思わず龍二がそう思ってしまうのも無理はないだろう。甲野は何もしていないけれど、楠原のおかげで甲野がどうこうと考えてしまっているところなのだから仕方ない。顔を見た瞬間、うっとうめきたくなるのも、仕方ない……はずだ。

「甲野くん、なんでいるの?」
「なんでってなんですか!? 僕今日ゲストですよね?」
「あー……そうなんだー……」
「ええええ!」

 とにかく、テンションが高い。どうやら甲野は今日一本目の仕事がここだったらしい。テンションが高いのは、まだ消費していないからだろう。今日のような日に甲野のテンションについていくのは、少しばかりつらいなあ、と龍二は考えていた。
 なんといっても、甲野だ。ゆきを気に入っているという、甲野宗。

(なんとなくイラつくのはテンション高いからか?)

 そんなことを思っていた龍二なのだが、けれど甲野は最初の仕事とか、イベントとかでは相当テンションが高い。ある意味いつもどおりだ。だからテンションのせいにすることはできない。

「……甲野くん」
「はい?」
「…………はあ」
「えええ、ため息!?」

 思わず言葉も発さずにため息をついた龍二に、甲野が反応する。基本的に周囲にイジられることが多い甲野だから、さすがにこういう扱いには慣れているのだろう。慣れるほどイジられているというのも、なんとも言えないところだが。

「そういえば真幸さん」
「え?」
「前に打ち入りで呑んだときに、途中で参加してくれた子いたじゃないですか」
「え……?」
「暁さんってOLさん」
「あ、ああ、うん」

 龍二がどきりとしたことには気づかず、甲野は龍二の顔を覗き込む。その表情はにこやかだ。毒気のない笑顔ではあるけれど、龍二の心中はあまり穏やかではない。
 なぜいきなり甲野がゆきの話を振ってくる? あの飲み会からもう何ヶ月経ったと思ってるんだろう。もう一度しか面識のない甲野が忘れてもおかしくないくらいの月日は十分に経っているはずだ。それなのに。

「ずっと真幸さんに聞きたかったんですよー。どうしようか迷ってなかなか聞けなかったんですけど」
「う、うん」
「真幸さん、暁さんと連絡取ってるんですよね。連絡先、教えてもらうことって出来ますか?」

 こくりと息を呑む。その瞬間、楠原の台詞が脳裏に浮かんだ。

『そーちゃん、動き出すと早いからな』

 ぎくりとしてしまったのは顔に出さずに、龍二は甲野に微妙な笑みを浮かべて答えた。

「連絡先は知ってるけど、勝手に教えられないよ」
「じゃあ、僕の携帯教えていいですから、良かったら連絡くださいって伝えてください」
「…………オレが?」

 お願いします、と甲野が頭を下げる。その意図は、考える必要もないだろう。どこから見ても、仲介役を頼んでいるだけだ。先輩の知り合いを紹介してください、と。甲野の慕う先輩に。
 何もおかしなことはないだろうその構図ではあるけれど、それに違和感があるのは龍二自身だ。多分何もおかしくはない、普通だったら。それは冷静に考えればわかるのだろうけれど、今の龍二にそれを求めるのは無理だった。

「……無理。どうしてもっていうなら、楠原に頼んで」

 口をついて出たその返事は、あまりにも硬質だった。強くはない。けれど、やさしくもない。感情を全て無くしたかのようにさらりと冷たい声が響いたことに、言った龍二の方が驚いていた。

「ほ、ほら、クッシーのがそーいうの、うまくやってくれると思うし。オレそういうの苦手だからさあ」

 龍二が笑って誤魔化すと、そんなあ、と甲野が残念そうな顔をする。けれど、彼もごり押ししようとは思っていないらしい。それ以上求めることもなく、おとなしく引き下がった。
 が、龍二はいまだ心臓がどきどき言っている。自分の言葉があまりに冷たく聞こえた。なんでそんな言い方をしてしまったのだろう、普通に言えばいいだけなのに。それほど怪しまれることもなく、その場はそれで済んだのでとりあえずほっとしてはいるものの、緊張はなかなか消えてはくれなかった。

(ク、クッシーが連絡とっちゃったらどうしよう……!)

 苛立ちつつもそんなことを言ってしまったのだが、もし楠原が甲野のためにゆきと連絡をとってしまったら。そんなことを思いついたら、龍二は冷や汗をかきはじめていた。
 きっと大丈夫、けしかけてたくらいなんだから、クッシーはわかってる、そんなことはしない、そう何度も自分に言い聞かせていた。

「マサさん」
「え?」
「どうしたんですか? なんか、さっき一瞬怖い顔してましたよ。そーちゃんに紹介頼まれてむっとしました?」

 甲野が離れて話題が変わってから、こそりと龍二に話し掛けてきたのは増田だ。そういえば、彼女もゆきが参加したあの飲み会にいたっけ、と思い出していた。

「別に、そんなことないよ」
「そうですか? でも、そーちゃんも無謀ですねえ。マサさんと張り合おうなんて」
「……へ?」

 しれっとした顔で言う増田に、龍二が目を丸くするとえ? と聞き返された。張り合うって、何? と聞くと、さらにえ? と聞き返される。

「だって彼女、マサさんの好きな人ですよね」
「………………」

 どれだけそういう形で知れ渡っているのだろう。ちょっと頭が痛くなった。本人の知らないところで、完全にそういうことになっている。まだ完全に『彼女』という認識をされていないだけでも違うのだろうか。
 ──彼女と認識はされてないから、甲野くんが出てくるんだろうなあ。
 それは良いか悪いか?

「そーちゃんに負けないでくださいね」
「うーん、そうだね」

 龍二は笑って、それなりに答えるだけにとどめた。



 げんなりとした顔で帰宅したゆきは、ぐったりと部屋で寝転がっていた。

「う、うざかった……!」

 やはりというかなんというか、朝、会社に着いてそれほど経たずに、坂上のひそひそ話は開始された。ひそひそ話しながらちら見するのは本当にやめて欲しい。あなたのうわさをしています、って言ってるようなものである。
 その話題は何か、など考えるまでもなくわかりきっているだけに、よけいに複雑な心境だ。別に待ち合わせをしたわけでもなく、会社の人と通勤途中に会うのと同じようなものなのに。
 もちろん、何かを言われるわけでも聞かれるわけでもないから、ゆきから何かコメントを言ったりすることはない。ただちらちら見られて、何かこそこそと話しているのを見るだけだ。それが何よりもうざい。

「あー……疲れた」

 やたらと疲れた気がする。どうしてこんなことで疲れなきゃならないんだ、とぶつぶつ言いながらゆきがお風呂に入る支度をしていると、鈍い音が部屋の中に響き渡った。携帯電話のバイブレーションの音である。バッグの中で地味に光りつつ震えているその音だ。

「真幸さん?」

 こんな時間にメールなんて珍しい、と思いつつ、ゆきは携帯電話のメールをチェックする。

『件名:お疲れさま
 本文:お疲れさま。今日は大丈夫だった? もう家に帰ったのかな』

「……それだけ?」

 何か用事があるのかと思ったというほどではないけれど、いつもその日の出来事などを少しばかりメールでやり取りしていただけに、あっさりとしたメール内容にゆきが目を丸くした。
 別になにごとかを入れなければいけないわけではないが、そのあっさりとした文面は、いつもの龍二のメールとは少し違って感じられたのだ。
 首を傾げつつもゆきはそのメールに返事を返した。大丈夫だということと、もう帰りましたよ、と。
 ちやと連絡を取るときならば、そんなあっさりしたメールでもなんと思うこともない。そのあと、電話が来たりメールを繰り返したりするからだ。けれど、龍二からのそのメールは、何か違和感があった。

「何かあったのかな……?」

 そんなことを思いつつ、ゆきは携帯をテーブルの上に置いて風呂支度を再開すると、それほど経たずにまたぶーんと携帯が震えだした。龍二からの返信だろうか、と携帯を開くと、表示されたのは『真幸龍二』の文字。メールではなく、電話だ。

「も、もしもし?」
『こんばんはー、ゆきちゃん』
「こ、こんばんは。どうしたんですか、珍しいですねお電話なんて」
『うん、そうだね』
「今日はお仕事、終わったんですか?」
『…………』
「真幸さん?」

 突然無言になった龍二を呼ぶが、龍二から返事はない。何か様子がおかしいのは、気のせいではないだろう。

「……どうかしましたか?」
『え? あ、ううん、なんでもないよ。そうそう、今日大丈夫だったかなって。坂上さんだっけ、ゆきちゃんの苦手な人』
「私は別に大丈夫ですよ」
『そっか、よかった。さっき仕事終わって、今帰ってるところなんだよね。あんなに忙しかったのに、いきなりぱたっと空いちゃった』

 あはは、と笑う声に力がない。どこか愛想笑いめいているというか、乾いているというか。そんなことを思ったゆきではあったが、それを聞くといってもうまく言葉にならない。どう聞いたらいいのかわからないし、仕事のことなら、ゆきにはわからないだろうから。

『あのさ、ゆきちゃん』
「はい?」
『……その、変なこと聞いていい?』
「えーっと……変じゃないならいいですけど」
『うわ、そうきたか。変……変だよなあ、やっぱり。やめとく』
「え、うそ冗談ですよ、何ですか」

 そこでやめとく、というならよほど言いづらいことなのだろうか。いつもの龍二ならもっと乗ってくるのに。どこか様子がおかしいというのは、気のせいではないという確信にもなっていた。
 龍二になんですか、と何度か聞いたが、龍二の口は重い。どうしようか、と迷っているようにも感じ取れる。龍二が戸惑っている間、ゆきはどうすることも出来ず、電話のこちら側で戸惑っていた。

『あのさ』
「はい」
『その……ゆきちゃん、甲野くんって覚えてる?』
「甲野さん? えーっと……名前はなんとなく……?」
『覚えてないならいいんだけど』
「ごめんなさい、よく……前に飲み会で一緒になった人……ですよね?」

 その程度の認識でしか、ゆきは覚えていない。はっきり言って、龍二の知り合い関係でまともに覚えているのは楠原と瀬田、あと舞台を見に行った吉川くらいだ。吉川だって舞台のあと挨拶などに行かなければ覚えていたか怪しい。
 瀬田はあの突発飲み会以外で会った人だし、ちやと時々話題に出たことがあるから記憶にあるけれど、顔をしっかり思い出せるかと言われたら少し微妙かもしれない。そのぐらいだ。

「ごめんなさい、私、顔と名前覚えるの苦手で……」
『ううん、ぜんぜんOK。そか、うん、よし』
「よし?」
『ああううん、ごめんこっちのこと。そっか、苦手なんだ。じゃあ、最初に会ったときオレが思い出してもらえたのはラッキーかも?』
「あ、そういえばそうかもですね」

 くすくすとゆきが笑う。よく考えてみれば、最初は居酒屋、トイレの前だ。何度かすれ違ったとはいえど、街中で会ったときによく顔を思い出せたものだ、とゆきも確かにそう思う。

『あのさ、ゆきちゃん、お願いがあるんだけど』
「お願い……? 私に出来ることですか」
『うん。これから、少し会えないかな』

 ふと気づけば、龍二の違和感はあまり感じられなくなっていた。けれど、そう言った龍二の声は、いつもより少し真剣みを帯びていたし、今まで言われたことのないその言葉に、何があったのだろうとゆきは少しばかり不安を感じていた。







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