23:思わぬところで






 まだ夜になったばかり。辺りはすでに暗いけれども、人影もまだ多い時間帯。平日の食事時である。そんな時間帯に、ゆきは近所のファミリーレストランに入っていった。
 いらっしゃいませ、と声をかけてくる店員さんをよそに、きょろきょろと辺りを見回す。どうやらまだ到着してはいないらしい。あとから一人来ます、と伝えて、二人席に案 内してもらった。
 少しそわそわしつつ、ゆきはコーヒーだけを頼んで座っていた。

(おなか空いたなあ……)

 仕事から帰って、まだ食事はしていない。龍二からの電話を受け、そのなかで食事を一緒にしよう、という話になったからだ。
 なにやら龍二の様子がおかしかった理由は、いまだ聞けてはいない。ゆきも気にはなるのだが、聞いていいものかどうかもわからないし、言われてもわからないことである可能性も高いので、電話では触れなかった。少なくとも、龍二と顔を合わせれば、龍二の様子を知ることは出来る。それもあって、ゆきは龍二からの誘いにふたつ返事でオーケーしていた。

(それにしても……どうしたんだろ?)

 夜、メールや電話をしてくること自体は珍しくはないけれど、こうして呼び出されたのは初めてだった。何しろ、連絡を取っていた時間はいつももっと遅い。ゆきが家に帰ってそれほど経たずに、というのはそれだけでも珍しかった。
 ゆきがファミリーレストランに入って三十分ほど経つころ、店の扉から笑顔で入ってきた龍二の姿があった。ゆきが小さく手を挙げたのを見てふわりと唇の端が上がったのだ。

「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、大丈夫です。お先にコーヒーだけいただいちゃってました」
「ぜんぜんオッケー。っていうか、こんな時間に呼び出しちゃってごめんね」
「そんな。それより、わざわざこっちまで来てもらっちゃってすみません」
「そんなの呼び出したんだから当然」

 驚いた顔をして龍二が言う。龍二に少し話がしたいといわれて待ち合わせたこのファミリーレストランは、ゆきの家から徒歩で行ける近い距離なのだ。龍二は仕事が終わってからの連絡だったので、電車に乗ってここまできたということになる。
 けれど、話をしたいと言って夜呼び出したのは龍二の方なので、龍二としては当然という気持ちでいた。ゆきにとっては、わざわざ来てもらったという気持ちが強いようではあったけれども。

「ゆきちゃん、ごはんは?」
「まだですけど……真幸さんは?」
「オレもまだ。じゃ、とりあえずご飯にしよっか」

 笑顔の龍二は、ゆきの抱いていた違和感を消していた。いや、違和感がないわけではない。やはり何か変な感じはしているのだが、それは電話で抱いた違和感とはまた違う形のもので。

(……なんか、ご機嫌?)

 電話で不機嫌に聞こえたわけではない。機嫌の良し悪しではなく、悩んでいるような、少し沈んでいるような、そんな感じがあったのだ。どちらかといえば明と暗。電話ではどこか暗い雰囲気があった。
 それで気にかけていたゆきではあったが、こうして実際会ってみると、暗ではない。むしろいつもよりも明に感じられた。ただ、それもまた違和感を与えるほど、不思議な明るさに感じられたけれど。
 それでも、とりあえず追求することもなく、ゆきはメニューに目をやり、食事を選んでいた。
 一方、龍二はというと、いたって上機嫌である。電話の時点でどうしたのかという違和感をゆきに与えていたことは龍二には知らないことだし、今はゆきと会って話が出来ることを普通に喜んでいた。
 いつもならば、一度帰宅したゆきを呼び出したことを気にかけるところなのかもしれないが、今の龍二にはそんなところには一切考えが及んでいない。ただ、ひとり納得しているだけである。

(オレって単純……)

 この日、一日考えていたことがある。それは、龍二自身の感情のことだ。誰に聞いても決して答えは出ないそれは、スタジオで甲野に会ってから変な焦りが出たうえに、ゆきと電話をしてからなぜか顔を見たくなった、という感情があまりにあっさりと答えを出していた。
 そして、実際会ってみてどうか。

(うわー、どーしよ……)

 呼び出してしまったくせに、どうしたらいいのか、そんなことを考えていた。
 もちろん、ゆきと会えたことに喜びはあるけれども、何をどう話そうか、何も決めていない。そもそも、電話をしたのは甲野のことを覚えているか、ゆきにとっての甲野のポジションを確認したかったというのが本音だ。
 けれど、声を聞いて、甲野のことをほとんど覚えていない、と聞いたら安心し、ソレと同時にするりとゆきを誘っていた。あっさりとゆきが了承してくれたことに驚きつつも、浮き足立ったのは事実だ。

「ところで、真幸さん」
「うん?」

 食事のオーダーも終わって、ゆきが首を傾げつつ聞いてくる。龍二は笑顔でゆきを見る。

(……なんかものすごい笑顔だなあ、今日)

 満面の笑顔、というのはこういうことかと思いたくなるような笑顔を見せる龍二に、ゆきはよりいっそうどうしたのかという気持ちになる。そんなことを龍二が気づいているかは、ゆきにはわからないが。

「何かありましたか?」
「え? いや別に……どうして?」
「えーっと……ほら、電話とか、こうして突然会うのとかって、珍しいですし……」
「ああ、確かにそうかもしれない。ごめんね、呼び出ししちゃって」
「いえ、そうじゃなくて、ってそれはそれで別にいいんですけど。なんか、電話でちょっと元気ないみたいだったから」

 龍二が目を丸くしてゆきを見た。

「元気……なかった?」
「ええとその……元気ないっていうか……なんか、落ち込んでるっていうか、考え込んでただけかも知れないんですけど」
「声に出てた?」
「あ、でもなんとなくそう思っただけなんで、声に出てたかはわかんないです」

 声音が変わっていたとか、そういう風には思わなかったんですけど、とゆきが言うと、龍二が苦く笑った。
 仮にも声の仕事をしているというのに、抑えていたはずの複雑な心境が声に出ていたとしたら困ったものである。しかもその前にしていた仕事に出ていたりしたらどうしよう、と一瞬考えてしまったのだ。
 けれど仕事ではNGは出さなかったし、録り直しもとくに無かったのだから、仕事には影響出ていなかった、と願う。

「うーん、まあ、ちょっと考え事をしてたのはある……かも?」
「かも、ですか。もう解決しました?」
「したような、してないようなって感じかな。でもそっか、心配かけた?」
「えーっと……心配というか、どうしたのかなって」

 心配なんておこがましい、瞬間そう考えたのは、ゆきの性格上のことだろう。それとは正反対に、なにやらくすぐったい気持ちが浮かび上がったのは龍二の心境のせいだろうか。
 少なからず、龍二は笑顔が浮かんでいる。

(よくはないけど……気付いてくれたんだ)

 そんなに感情が声に出ていたとか、わかりやすいのかとか、あまり良いことではないような気もしてしまう。けれどそれより、そんな少しの変化のようなものを、ゆきが電話で感じ取ってくれていた、それが龍二には重要であり、嬉しかったのである。
 頼んだ料理が出てくるころには、龍二はすでにご機嫌だった。

「ところで、真幸さん」
「なに?」

 ゆきが首を傾げて龍二に尋ねる。

「甲野さんって……あの、前に一度会った人ですよね?」
「え? あー……うん、そうだよ」
「その甲野さんが、どうかしたんですか?」

 電話で聞いてしまったのは龍二の方である。甲野という人を覚えているか、と。龍二は苦く笑って、言葉を濁していた。
 もう一度紹介をするつもりは一切ない。彼の手引きをするつもりも一切ない。ならば、この場をどうやって誤魔化そうか? 龍二の脳内に浮かんだのは、誤魔化す方法ばかりだ。

「いや、どうってことでもないんだけどね。その、今日甲野くんと一緒のスタジオで、ゆきちゃん元気かって聞かれたからさ」
「そうなんですか? うわ、私あんまり覚えてないんですよね、どの人か……」
「ああそんなの気にしなくていいよ、甲野くんにとっては周りみんな知り合いで、はじめて会ったのはゆきちゃんだけなんだから、甲野くんが覚えてるのはたいしたことじゃないし」

 でも、と言うゆきに対して、龍二はいいのいいの、と宥めていた。別にそれほど思い出してほしくない。というか覚えてなくてもなんの問題もない。
 ゆきに対して言った言葉は嘘ではない。甲野とは違ってゆきにとっては龍二と楠原以外は全員初めて会った人間なのである。かたや甲野はゆき以外は先輩なのだから、初めて覚える人間はゆき一人なのだ。ゆきと甲野の記憶の違いがあってもなんらおかしなことはないだろう。

「でも、もし甲野くんがヘンなこと言ってきたりしたら、すぐオレに連絡してね!」
「なんですか、ヘンなことって?」

 きょとんと目を丸くしているゆきは、本当に何も想像がつかないのだろう。第一、自分は甲野のことをさっぱり覚えていないのだから仕方ない。

「何がヘンかはゆきちゃんに任せる。けど、なんだこいつ? とか思うようなことがあったらちゃんと言ってね」
「うーん、むしろ今の真幸さんがヘン」
「え」
「冗談です」

 くすくすとゆきが笑う。酷い、と言いながら龍二も笑った。
 さすがに冗談に留めたが、ゆきにとっては今の龍二の方がよほどヘンである。電話では何やら沈んだ声をしていたというのに、今はこんなにも上機嫌で、しかも甲野という人物が何かヘンなことを言ってきたら、などというのである。一体何を言ってくるというのだ、連絡を取ったこともない相手が。

「大丈夫ですよ、どこかで会ったとしても私、気付かない可能性高いですし。それに、甲野さんって、そんなすごいヘンな人ってわけじゃないんですよね?」

 そんなヘンな人ならかえって覚えてるかもしれないのに、覚えてないくらいだからとゆきが笑顔で言う。確かにそこまでヘンな人ではないだろう。一応甲野もまた第一線の人気のある声優なのだから。
 いずれにせよ、龍二からしてみたら、甲野がヘンだろうがヘンでなかろうが、あまりゆきに近づけたくない、それだけである。もちろん、そんなことをゆきにストレートには言えないけれども。
 食事を終えて、ゆきと龍二が何気ない話を続けていると、そこでゆきの携帯電話が震えだした。すでに時間は深夜と言える時間だ。こんな時間に誰だろう? とゆきが携帯電話を開くと、ディスプレイには楠原の名前が表示されていた。

「楠原さん?」
「え、クッシー?」

 驚いたゆきが楠原からの連絡であることを思わず口に出してしまうと、今度は龍二がそれに驚いていた。まさかとは思うが、甲野のことで電話してきたんじゃないだろうな、と。
 怪訝な顔をしつつ、ちょっと失礼します、と言ってゆきが携帯電話の通話ボタンを押した。龍二は当然、その向かい側で様子を見ていることしかできない。

「もしもし?」
『夜分すみません、暁さん……ですよね?』
「はい、そうですけど、楠原さんですよね?」
『おぉぉ、そうです、マサのクッシーです! うわあ、覚えててくれた? 嬉しいーーっ』

 マサのクッシーってなんだろう、とゆきが首を傾げたが、龍二は当然何を言っているのかは聞こえない。首を傾げるゆきを見て、どうしたの? と小さく声をかけてきた。ゆきはいいえと首を振って答えるだけだ。

「どうかしたんですか、楠原さんから電話なんて初めてですね」
『そうなんだよー初めてなんだよー。いつもマサから連絡してたからさー。でも電話出てくれてよかったー。覚えててくれてよかったー! ゆきちゃん、すっかり俺のことなんて忘れてるかなーって心配してたし、覚えてても俺からの電話じゃ切られちゃうかなーって』
「そんなことしませんよ、多分」
『多分なの!?』

 電話の向こうの楠原はそれなりにテンションが高そうである。ゆきの受け答えの雰囲気と、電話からすこしだけ漏れ聞こえてくる声が、そう龍二に思わせた。
 それよりもこの電話の意図だ。龍二はそちらの方が気になって仕方ない。

『ところで今、電話平気だった?』
「ええと、まあ……どうかしたんですか?」

 ふと、今日は「どうかしたのか」ばっかり聞いている気がするゆきだった。

『あのさ、ゆきちゃんって、好きな人いる?』
「………………は?」

 突拍子もないその楠原の言葉は、ゆきが素っ頓狂な声を出すには十分なセリフだった。少なくとも、ゆきにとっては。
 そして当然、そんな素っ頓狂な声を出したゆきの前に座っている龍二は首を傾げる。どうかしたのかと思わないはずもない。ただでさえ、相手は楠原だ。今日のことを考えると、何か変なことを言っていないか気にならないはずがなかった。

「あのー……なんですか、その質問って」
『え、いやまあ、ちょっとね』
「ちょっとで答えることじゃないと思いますけど……」

 次第に不機嫌になってきているのか、声音が低くなってきている。何の話をしているのかまではわからないが、その声音の変わり具合で龍二はどんどん心配になっていった。

『まあそうだよね、それはそうだと思うんだけど……ちょっと、頼まれちゃって』
「誰にですか」
『それは……』
「私を知ってる人ってことですよね?」
『えーと、まあ』

 たじたじになっている楠原と、怒りが声に現れているゆき。そして正面にいる龍二はそわそわするばかりだ。小声でどうしたの、と聞いてみたが、ゆきはやはり首を横に振るだけ。
 いっそその電話を奪ってしまったほうがいいだろうか? そう思った龍二ではあったが、そんなことをするのは悪いだろう。ゆきの、ゆきにかかってきた電話だから。そう思った龍二は一応はおとなしくしていた。

「楠原さんが聞いてきたならまだしも、誰かの変わりだっていうなら、答えません。誰だか知らない人にそんなこと答える義理はないんで」
『そうだよね、うん、確かにそうだ。俺自身も聞きたいとは思うけど、それはちゃんと会ったときに聞くことにする』
「聞かなくていいです」
『あはは、あっさりきたなあ。ごめんね、ヘンなこと聞いちゃって』
「いいえ、別に」

 そうは言っても、声はまだ怒っている。いい加減我慢ができなくなったのか、龍二が手を出す。変わってもいい? と。
 ゆきは楠原にちょっと待ってくださいと言ってから無言で電話を差し出した。

「もしもし?」
『え、アレ、マサ? なにもしかしてゆきちゃんと一緒だったの? 悪い、邪魔して』
「いや……っていうか、ゆきちゃんに電話って、何?」
『しょーがないだろ、そーちゃんにせがまれたんだよ。うるさくてしょうがなくて』
「……そこにいるの?」

 その瞬間、すっと声のトーンが下がった。龍二自身も自覚できている。甲野に言われて電話をしてきたという楠原にもむかっ腹が立ったが、何よりその場でこのやりとりを聞いているだろう甲野に苛立ちが募ったのだ。
 どんな話をしたのか知らないが、甲野にせがまれて楠原がゆきに電話をして、ゆきが不機嫌になるような話をした。それは十分に、気になる話である。……が、ゆきが不機嫌なままだ。今はこのまま楠原との電話は終わらせた方がいいだろう。

『なんか今日、お前に断られたからとか言って俺に頼むんだもん。俺だってこんな役回り受けたかねーよ』
「なんだか知らないけど、今度じっくり聞くから。楠原、あんまヘンなことしないで」
『これだけしかするつもりないから大丈夫。お前がいるのに、アドレス教えたりしないから安心しろって』

 どういう意味かと聞き返すほど、龍二の中の戸惑いは残っていない。ゆきにもう一度出るか確認すると、いらないという答えが来たのでそのまま楠原との電話を切った。
 さて、問題はゆきの不機嫌である。

「えっと……ゆきちゃん、なんか楠原にヘンなこと言われた?」
「ええまあ。でも気にしないでください、たいしたことじゃないんで」

 といっても、不機嫌顔である。

「その……ごめんね、オレのせいじゃないけど」
「わかってますよ。すみません、ちょっとむっとしちゃって」
「いいよ、オレは。楠原がむっとすること言ったんだから仕方ないし。……それで、何を言われたの?」
「内緒です」

 にこりと笑ったゆきの笑顔は、はっきりと拒絶の色を見せている。そうとう粘らなければゆきは答えてくれないだろう。それは龍二にもはっきりわかったので、それ以上聞こうとはしなかった。
 それよりも、どうやってゆきの気分を回復させようか。龍二にはそちらの方が大切だった。

「あ」
「え?」
「楠原さんって、『真幸さんの』だったんですね」

 超笑顔のゆきに言われたその瞬間、龍二の頭が真っ白になったのは、言うまでもない。







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