わがままな雨







 雨雲が重く垂れ込めている。そんな雨の降りそうな曇り空の日、香歌(こうか)は大抵機嫌が悪い。顔は無表情に近づき、いつも少ない言葉数はさらに少なくなり、他から見たらかなり『感じ悪い人』になる。
 別に香歌に他意があるわけではない。ただ単に、嫌いなだけなのだ。

「香歌……さん?」
「あら、創葉(そうは)じゃない。どうしたの?」
「何か怖い顔をしていらっしゃるようでしたので……どうかなさいました?」
「別に何も無いわ。ただ、雨を降らせたくないだけよ」
「……は?」

 創葉が驚くのも無理は無い。今、香歌は雨を降らせたくない、と言っていたのだ。
 それは簡単に言えば職務怠慢。今日、この日に雨を降らせることはもう何ヶ月も前から決まっていたのだから。それを突然、今日になって降らせたくないとはどういうことか。思いもよらない香歌の言葉に、創葉は目を丸くした。

「だから、雨を降らせたくないのよ。だから気分が悪いの」

 香歌はいわゆる『神』というものである。創葉もまたその一人。淡い水色の豊かな髪がふわりと香歌の背中に揺れている。ああいやだ、と香歌は頭を抱えた。
 雨を降らせたくないという降雨の神、香歌。水神とも呼ばれる神は幾人もいて、その中でも誰がどんな仕事をするのかは割り振られている。その割り振られた仕事が、降雨である。定められた日、定められた時間に雨を降らせる。それが香歌の仕事。もちろん、人間にはわからないものではあるけれども、それは神の領域なのだから仕方ない。
 そしてその香歌の座っている前にある大きな滝に映っているのは、人間の姿。この世界の神々は、それぞれ色々な形の『鏡』を持っている。その『鏡』を使えば、人間の世界のことが垣間見れるという。神鏡、というものだ。香歌の場合は水の神であったがために、滝が神鏡となっている。

「でも、香歌さま……」
「やるわよ、仕事だもの。でもね、やっぱり嫌なのよ。だって、人間たちは雨が降ると、嫌だなぁって言うんだもの。降らなければ困ると言うから降らせるでしょう? そういうときはさすがに喜ぶ人もいるけれど、そうじゃないときは嫌がるのよ。だから私は雨を降らせたくないの。人間が嫌がるから、私は降らせたくないの」

 天気が悪いから機嫌が悪い、とか言われているのは知っている。けれど、誰になんと言われても、香歌は雨を降らせることを嫌がっていた。人間に水の恵みを授けるという立派な仕事だというのに、だ。

「……私が雨を降らせたせいで、人間が悲しむこともあるのよ」





 街はざわめいている。人も多く、にぎやかな街だった。あるとき、香歌はそっと人界に降りて、そんな街の中を彷徨っていた。楽しげに笑う人、悲しげに笑う人つまらなそうに頷いている人、ぼんやりとしている人。
 人間というのは、なんて色々な人がいるのだろう。なんて色々な表情が出来るのだろう。
 そう思った香歌は嬉しくなって、楽しくなって、街の中をうろうろと歩いていた。まだ、彼女が雨を降らすことを嫌がっていなかった頃のことだ。香歌は水神だけあって雨は嫌いではなかった。いや、どちらかと言えば好きだった。この日も、そうだ。
 香歌が人界に下りたその日は、夕方から雨を降らせなければいけない日。昼間はとてもよく晴れていて、まさか雨が降るとは思えない、という日だった。夕暮れ時に降り出す雨は、夜遅くまで続く。それだけ雨が降れば、渇いた地面は潤い、人々は喜ぶのだろう、と香歌は信じて疑わなかった。だからその雨の時と、晴れている時、両方を見比べて街を歩きたい、そう思って香歌はこっそりと人界に下りてきていたのだ。
 見た目は普通の人と変わらないように変化して香歌は街を歩く。普通の、人間の女性のように。

 街の人々は振り返る。楽しげに歩いている香歌を見て、その容貌に、軽やかさに。女神の持つ美貌というのは、人間の『美人』とはまた異質の美貌を持っている。容貌に『神秘性』が加わるからだろう。それを知っている女神は人を見下ろすし、それを知らない女神は人と同じだと信じている。
 なんといっても、人を創造した神が、自分たちを模したと言うのだから。
 香歌はその後者、自分は人と同じような生き物、という想いが強かった為、それにはまったく気付いていなかった。道行く人々が、香歌を振り返るのがなぜかなど考えることも無かった。純粋無垢な女神は、楽しそうに街の中を歩いていた。

「楽しそうですね」

 にこにこと微笑んで、男性が声をかけてきた。香歌は振り返り、自分のことかと首を傾げた。人に自分の姿が見えるように変化してはいるのだが、知り合いがいるわけでもない香歌にとって、声をかけてくる人などいるはずがないと思っていたから驚いていた。

「わたしのことですか?」

 その声はおっとりとしていて、優しげなものだった。神の声は透明に響く。男はにこりと微笑んでそうですよ、と頷いた。

「何か良いことでもあったんですか?」
「良いこと……? それって、何ですか?」

 香歌には『良いこと』と『悪いこと』の区別がつかない。『悪い』と思えるほどに悪いことなど、そうはないからだろう。平穏な時代の天に生まれたせいかもしれない。どこまでも純粋な香歌にそって、『悪い』と思えるものは無縁だったのだ。

「何、って……そういわれると難しいですね。僕にとって良いこと、っていうと、お仕事が休みだとか、給料日だとか……そんなかんじですかね」
「お休みだと嬉しいんですか?」
「ええ、やっとのんびり出来る、ってね」

 うーん、と男は背伸びをする。
 休日の公園のベンチでぼんやりと座っていた男性はそれが『良いこと』だと言う。そうやってのんびりと過ごす時間があるというのが良いらしい。
 けれど、やっぱり香歌にはわからなかった。
 香歌の仕事は、決められた日、決められた時間に雨を降らせるだけ。それ以外はのんびりと昼寝をしたり遊んだりして過ごしている。もちろん、降らせる地域と降らせない地域があるから一日に何箇所も降らせなければいけないこともある。
 けれど、毎日のようにお仕事があるのは稀だし、一日中働き詰め、ということはあまり無い。だからそれほど休日のありがたみというものは無かった。

「わたしは……お休みが多いから、わからない」

 正しく言えば違うのだけれど、そう言うのが正しいだろう、と香歌は考えた。
 神の仕事を人に言おうとしても説明など出来なくなる。だからそれは出来るだけ触れないように、と気をつけて香歌は話をしていた。

「じゃあきっと、良いお天気だからご機嫌だったんでしょうね」

 男はふわりと微笑んだ。香歌が楽しげに歩いている姿はよほど好感が持てたのだろう。神の持つ『神秘』の雰囲気に呑まれる事もなく、おっとりと彼は話す。一見したら、彼の方が神秘的な印象さえあった。白い肌は男の人のそれよりだいぶ色白で、優しげな笑顔は儚くも見える。
 香歌は首を傾げた。降りてきて出逢った誰よりも、色が白くて、綺麗な男の人。
 改めてそう気付くと、その人はとても素敵な人に見えた。優しい瞳と優しい笑顔。穏やかな声。綺麗で、優しい、人間の男の人。

「僕は住吉って言います。きみは?」
「わたし……なに?」
「名前、教えてくれますか?」
「名前……香歌」
「香歌? 変わった名前だけど、綺麗な名前ですね」

 まるでそれは、自分自身を誉められたようで、香歌は嬉しくなった。ほんのりと頬を赤くして少女のように喜んでいた。
 住吉、と名乗った彼は、おっとりとベンチに座っていて、公園の中で遊びまわっている子供たちを暖かい目で見ていた。香歌はどうすることもなく、隣に座って住吉を見ていた。かすかに笑みを浮かべて、公園の子供たちを眺めている住吉の横顔を見ていた。
 穏やかな人の空気が、香歌には心地良い。彼女はそういった穏やかな、優しい空気や風が大好きだった。けれど香歌自身、何がそこまで心地よいのか気付いていない。ただ、居心地が良かったからそうして住吉を見つめていた。

「香歌さんはこの辺りで待ち合わせでもしてるんですか?」
「待ち合わせ? してません」
「そうなんですか? なんだ、てっきり誰かを待ってるのかと思ってた」
「わたし……は待っていないけど、住吉さんは誰かを待っているの?」
「……ええ」

 彼は複雑な顔をして笑った。それが何かなど、香歌にはわからない。ただ、さっきまでの穏やかな優しい空気が、ちょっとだけ冷たくなった。軽やかだった温かい空気が、どこか重くなった。彼女にわかるのは、人の心ではなくて、取り巻く空気の変化だ。

「……住吉、さん?」
「はい?」
「……何か、悲しい?」

 香歌が聞くと、住吉はいいえ、と笑っていた。けれどそれは、先ほどまでの暖かい空気を纏っていない。緊張と、悲しみが含まれていた。

「ちょっと、約束をしているんです。たいしたことじゃないんですけど」
「……約束」
「ええ。小さな賭けなんですけどね」

 それだけで住吉は口をつぐんだ。その約束や賭けのことは、話そうとはしなかった。
 だから、香歌も聞くことは無かった──



 住吉の隣で香歌はのんびりと座っていた。人の世界に来たら何をしよう、と楽しみに降りてきたのだが、今では他のことはどうでも良かった。ただ、ここでのんびりと住吉と時間を過ごすのが、彼女には心地よくて、離れ難かった。
 けれど、時は無常に過ぎていく。
 やがて、夕刻が近づいて、香歌はこの地域に雨を降らせなければいけない。

「……香歌さん、今日、雨降ると思います?」
「雨?」
「ええ。今日のお天気で、ちょっとした賭けをしてるんです、僕。だから意見を聞かせて欲しいな、って思って」
「……降ると思う」
「……そっか。降るかぁ」

 ほんの少しだけ、その声に残念そうな色があった。彼がどういった賭けをしているのか、それを香歌は知らないけれども、彼は雨が降らないほうに賭けていたのだろう。けれど香歌は小さな賭け、と彼が言っていたこともあって、それほど深く考えていなかった。
 この日、雨は降る。雨を降らせるのは、彼の目の前にいるこの香歌だ。他の誰でもなく、香歌が彼の賭けを敗北にする。彼女は神の一員、賭け事には興味もなければ参加もしない。だから、小さな賭けという彼の本当の心は、知る良しもなかった。

「……あ」

 小さく呟いて香歌が空を見上げると空気が変わり始めていた。
 もちろん、それは人間にわかるものではない。降雨の神の香歌だからわかること。もうすぐ雨を降らせなければならない。人間と一緒にいる、ということを想定していなかった。人間の前で『仕事』をするわけにはいかない。

「……ねえ」
「はい?」
「人にとって……雨は、降らないほうがいいの?」
「そんなことはないと思いますよ。雨が降らないと水が足りなくなりますし」
「……水は、必要だものね」
「ええ」

 住吉がにこりと笑った。それを見て、香歌もまたにこりと微笑み返した。立ち上がり、香歌は別れを告げる。住吉に、さようなら、と。

「さようなら、香歌さん」

 彼はまた微笑んだ。優しい笑顔で、やわらかい声で、さようなら、と微笑んだ。
 香歌は住吉の元を離れて、歩いていく。振り返ることもなく、歩いて、人のいないところに向かった。
 ──香歌の姿が見えなくなって少ししてから、あたりに細い雨が落ちてきた。






「それで、どうされたのです?」
「どうもしないわ。私はただ天に帰ってきただけよ」
「それだけ……ですか」
「それだけよ」

 それじゃどうして香歌が雨を降らせるのを嫌がるのか、創葉にはわからなかった。けれど香歌は何も言おうとはしないし、口を閉ざした神というものがどれほど頑固かは創葉もわかっている。自分自身も神なのだから。
 はあ、とあきらめたように創葉はため息をついて、香歌にひとこと言い残して部屋を出て行った。

「香歌さま。人も神も、わがままですわね」

 その言葉の後には苦い笑みが浮かんでいたが、それに香歌は答えなかった。



 あれから、香歌はただ天に戻ってきた。そして数日してから神鏡を覗き込んだのだ。住吉の姿を探して。彼は雨が降らないほうに賭けていた。小さな賭けと言っていたそれが何なのか、香歌は聞かなかったけれども、おそらくもう結果は出ているだろうと思って住吉を探したのだ。
 小さな賭けに負けても、彼は笑っているような気がしていた。
 ──それが、本当に小さな賭けならば。
 香歌が見たのは、住吉の悲しみ。痛みと、苦しみに包まれた、とてつもなく深い悲しみだった。どうして、と彼は嘆いていた。大切な人を失った彼は、ただ、泣いていた。
 彼は、賭けていた。雨が降らなければ、愛しい人を失わない、と。
 それは何の根拠も無い、ただ、きっかけのようなもの。願いのようなもの。だから雨がどうなど関係なかった。関係などなかったけれど、ただ、彼はそれに願いを込めていたのだ。どうか、雨が降りませんように。どうか、彼女が離れていきませんように。
 そしてそれは、叶わなかった。

「雨が降らなければ……!」

 悲痛なまでのその叫びを聞いてしまった香歌は、雨を降らせたことを後悔した。あのとき、聞いておけばよかったと。雨が降ったせいで彼が愛しい人を失ったわけじゃない。それはわかっているが、彼に痛みを与えてしまったのは自分のようで、悲しかった。
 そして、香歌はしばらく雨を降らせることを拒否した。降雨の神が、雨を降らせなかったのだ。けれどそれでは人が乾いてしまう。だから香歌は、雨を降らせた。

「人も、神も、わがまま……か。そうかもしれないわね」

 雨を降らせると決めた神も、降らせないでと願う人も。どちらも一方的であり、そう簡単に願うようにはならない。一方では降らせてくれと願うし、一方では降らないで、と願う。それは人も神も同じようなもの。降らせることを拒否した香歌も、同じだ。

「全てが願うままには出来ないものね。せめて……雨が降っても喜んでくれる人が一人でもいますように……」

 それもまた、神のわがままかもしれないけれど。
 香歌は、細い雨を地上に注いだ。

 ──そして、その雨の下で、喜ぶ人と悲しむ人がいた。