彩りの世界 人々のすべての原点が、この世界にはある。 だからこそ人々はこの世界を幻のように語るのだろう。 その原点から変化を重ねたものが、下の世界にはある。 だからこそ人々は、神の世界を見たいと願うのだろう。 だからこそ神々はその世界を見たいと望むのだろう。 ──ここは、神の国。 「おや、籐梓ではないかえ」 「お久しぶりでございます、脩琉(しゅりゅう)さま」 礼をとって籐梓が首をたれると、あげなさい、と脩琉が微笑む。 いつもは憮然とした態度をしていることが多い籐梓も、脩琉相手ではさすがにその態度を貫くことはない。 それは身分がどうとかそういうことではなく、籐梓にとって脩琉は敬うべき相手──憧れの相手なのである。もちろん、そんなことを籐梓が誰かに言うわけもないのだが、彼女がきちんとした礼をとる数少ない人だということはこの世界の籐梓を知る神々ならほとんどの者が知っている。 ここは神の世界、神々の年齢など誰も知らない。とうの本人たちでさえも忘れるほどに、長い長い月日を生きてきている。それでも、脩琉は籐梓よりもずっと年上であった。籐梓が神として命を授けられたとき、脩琉はすでに神々を束ねる立場にあったのだから。 「憂い顔も麗しいが、籐梓がそう曇った顔をされていると悲しむ御仁が多いのではないのかえ」 「そのようなことは。というよりも、私がどのような顔をしていてもそこらの御仁には何のご迷惑もかかりますまい」 「相変わらずよのう。じゃが、わたくしも籐梓の憂い顔はあまり見とうはないぞえ?」 「……では脩琉さまの前では気をつけることにいたします」 くつりと脩琉は笑う。 脩琉の前でだけ、というのは良いことだと思ってはいないけれども、籐梓が自分の言うことだと素直に聞いてくれるということは脩琉もまた理解しているのだ。そして、その理由もまた。 「務めはいかがじゃ?」 「……先日も、奪って参りましたよ。尊いものを」 籐梓は苦く笑って見せた。 『務め』というのは神々の果たすべき役目のことだ。 そして籐梓のもつ『務め』とは神の『いかづち』を地上に落とすこと。その役目を持つものは他にも数人いるのだが、そのうちの一人が籐梓である。そして籐梓は、その務めのことを『奪う』と言うのだ。務めを果たしてきたのではなく『奪って』きたと言うのだ。 「そう言うでない。いかづちもまた、人の世には必要なるものぞえ」 「私にはそのように思えませぬので」 「それも相変わらずよのぅ。して、どうされたのじゃ。何も無くここに来ることはそうあるまい。何か聞きたいことでもあるのでかえ?」 籐梓は人と関わることを嫌う性質を持っているのは脩琉も十二分に知っている。けれども、こうして籐梓は自分の下へと来たのだから、何か訊ねたいことがあるのだろうと脩琉は言った。その考えの、半分以上は理解しているのだが。 「──脩琉さま、私は神には向かない」 「なぜ、そうと?」 「私には、神の役目を果たせない」 「して、その神の役目とは?」 「…………っ」 脩琉はにこりと笑った双眸のまま、表情を変えることなく、籐梓に訊ねた。神の役目とは、何かと。訊ねられた籐梓は、応えることもできず、言葉をつぐんだ。ただ、苦い表情をして押し黙っている。 「籐梓、そう難しい顔をするではないぞ。せっかくの美貌が台無しだ」 「別に難しい顔などしておりませぬ」 ふい、と顔を背けてしまうその姿は、まるで子供がすねているようだった。それを見て脩琉はくつりと笑う。 どれほど神々に好かれていようとも、それをなんとも思わない籐梓の見せる、小さな小さな本音の姿。いつも不機嫌でいると言われている籐梓の、小さな子供のような愛らしいしぐさ。それを知っている神が、どれほどいるのだろうか。籐梓の中にある、小さな小さな子供のような愛らしさが、脩琉は一番愛しかった。 「神の役目とは、務めのことだけではあらぬぞえ」 「脩琉さま」 「神にはもちろん務めがある。その務めはほんの些細な役目じゃ。じゃが、神の役目というのはその務めを果たすということではない」 「では、何が神の役目と」 首を傾げて籐梓が訊ねると、脩琉はふたたびくつりと笑った。 「それを知るのも、神の役目」 答えは自分で見つけるものよ── 脩琉はそれだけを言って、微笑んだ。籐梓はわずかに眉間に皺を寄せて俯く。 籐梓は己の務めを嫌っている。それを脩琉は知っている。籐梓が嫌う理由も、だ。それは籐梓の人柄というもののためであることを知ってはいても、すべてを統べる神が定めたそれは、そう覆すこともままならない。だから今もいやだと言いながら籐梓は務めを果たしているのだが、出来るものならば今すぐにでもその役目は返上したいのだ。 「籐梓、そなたに一つ務めを頼みたいのじゃが、聞いてくれるかえ」 「私などでできることでございましたら」 「籐梓でなくば出来ぬ。籐梓でなければ意味がないのじゃ」 「では、喜んでお受けいたしましょう」 にこりと籐梓は微笑んだ。これから脩琉が言う言葉を知らずに微笑み、そして『喜んで』と言ってしまった自分に対して恨み言を言いたくなるのはそれからすぐのことである。 籐梓が引き受けると言った言葉を聞いて、脩琉は微笑んだ。いささか悲しげな瞳をして。 「人界に行ってくれぬかえ」 「…………今、何と」 「人界じゃ。籐梓、そなたまだ人界には降りたことがなかったであろ」 「それは確かにありませんが……私は人界に降りたいと思わなかったので」 「務めのせいでな」 さらりと言った脩琉の言葉に、籐梓は言葉を詰まらせた。 それは事実であり、まだ誰にも言ったことのないことである。籐梓は、自分の務めで人の命を奪うことがあるために、人に触れることが怖いのだ、と。 脩琉は籐梓のその心を知っていたが、あえてそれを『務め』として頼んだ。特に人界で何をして来いというわけではない。ただ、籐梓に人界に降りてくるように、ということだけ。 だから何をしようと籐梓の自由。ただ、人と触れ合えば良い。それが脩琉のいう『務め』である。 けれどやはりそれは籐梓にとっては苦行でしかない。 「脩琉さま、それは……」 「そなたがどうして人界に降りぬのか、わたくしが知らぬと思うてか。知らぬから頼むのではない、知っているからそなたに頼むのじゃ」 「…………」 「籐梓、そなたの目で見てくるのじゃ。机上に映る人界だけで何もかもを知っていると思うでないぞ。人の心に触れてくる。それもまた神の務め。神の役目じゃ」 それまでとは違う、いくらか厳しい瞳をして脩琉は籐梓を見据えた。 じっと見据えられては、籐梓といえども断ることは出来ない。そもそも、一度『喜んで』と行ってしまったのは籐梓だ。それを覆すことが出来ないことはわかっていた。 「……承知いたしました。人界に降りましょう。土産は何がよろしいでしょうか」 「そうさな、人界での話で良い。それから、そなたの感想が聞ければそれで良い。籐梓、忘れるでないぞ、わたくしはそなたを愛しておるからな」 「……ありがたきお言葉でございます。では、私はこれで失礼して、早々に人界に降りることにいたしましょう。脩琉さま、何事もないよう、お気をつけ下され」 「何事も起きるはずはなかろ。籐梓も気をつけてお行き」 ぺこりと礼をして、籐梓はその場を下がった。その表情は暗いままで、やはり気が進まないと物語っている。けれど脩琉はにこりと微笑んで、籐梓を見送った。 凛とした籐梓が下がったあと、脩琉はわずかにため息をついた。 「……酷なことかもしれぬが、籐梓がその身で感じることも必要なのじゃ」 さらさらと筆で務めをしたためて、それを侍女に渡した。籐梓に渡すように、と。 その紙の中には、籐梓が人界の行くべき場所、すべきことを記してある。大抵の女神たちはおのおのの心の向くままに人界に降りて人と触れ合うため、そのようなことはしないのだが、籐梓は人界に降りるのは初めてであったし、人と関わらぬようにするのが目に見えている。人の世界に降りてなお人と関わらぬようにするのでは人界に降ろさせた意味がない。 そしてもう一筆、別の紙に何かを記述して別の侍女にそれを渡す。これは大神へ奏上しておいてくれ、と。 それは、すでに決められている『務め』の期日をすこしだけいじることを了承してもらうための書状である。脩琉が言えども、大神が赦しを出さなければ変えることは出来ない。けれど、これを変えて籐梓に感じてもらわねばならない。 「大神からのお呼びがあるまで、茶でもいただこうかの。千華茶はあるかえ」 侍女がすぐに千華茶の支度をするために下がっていった。 その場には脩琉だけが残されている。部屋にある大きな窓から、明るい日差しが差し込んでいた。それを遠い目をして脩琉は見つめていた。 「籐梓、そなたは知らぬかもしれないが、天界でいかづちが落ちるとすべてが終わるのだぞ。人界へのいかづちの役目を持ったそなたは──いずれ、天のいかづちを統べる者となる可能性があるのじゃ。天を……そなたが揺らす日が来ないよう、祈っておる……」 呟いて、脩琉は瞳を閉じた。 天を揺るがす、天のいかづち。天にそのいかづちが下れば──すべての終焉が訪れるだろう。 |