神が囁く愛の詞 だが、天はそれとは違う。 天を統制し、ある意味人界までもを統制する唯一人の神がいる。その神を、神々は『大神』と呼んでいた。 すべての神々の最高位に存在する『大神』。ただ、その存在をその目で確かめることが出来るのは限られた神々のみ。多く存在する神々の中でも『大神』とは手の届かない神なのだ。存在さえも、わからないほどに。 「創葉ではないか」 「籐梓さま……」 「ここ最近、創葉が落ち込んでいると聞いたがね。何かあったのかい」 「……いえ、何もございませんけれど」 にこりと笑っては見せるものの、それはどうやらうまくいかなかったらしい。 籐梓がぴくりと眉根を寄せた。 創葉はおっとりとしていて、気質の激しい者が多い女神たちの中では珍しい存在とも言われている。母性が強く、穏やかな気質をしてはいるけれども、こうと決めたことに関してはどの女神よりも頑固。その創葉がこうして話そうとはしないのだから、きっと籐梓が聞こうとしても答えてはくれないだろうことは籐梓にもわかっていた。 「ならば良いが。どこか具合が悪いわけでもないのだろう?」 「……ええ、私はいつもどおりですわ」 「そう。それなら良かった。そういえば、創葉は人界に降りたことがあったか。人界はどう、楽しいところかな」 「人界……? 籐梓さま、降りられるのですか?」 「ああ、脩琉さまに言われたのでね」 苦く籐梓は笑った。脩琉には人界へ降りると言ったものの、やはり売り言葉に買い言葉で言うのではなかった、と思っていた。だからといって、脩琉に行くと言ってしまったのだから、それから逃げるわけにもいかない。 女神を統べる脩琉の言葉に逆らうなど、いくら籐梓でもそれはできなかった。 「脩琉さまに、ですか?」 「ちょっと変わった任務だろう?」 くつりと笑って籐梓は扇で口元を押さえると、閉じられた檜扇に飾られた玉がしゃらりと音を立てた。創葉が困ったように首を傾げるのを見て、籐梓はまた笑った。 籐梓の背後からするすると衣擦れの音が聞こえるのに気付いて、籐梓が振り返ると、脩琉のところにいた侍女が軽く会釈をした。籐梓の前に立ち、ぺこりと礼をすると彼女はにこりと笑って白い紙を差し出した。 「脩琉さまからでございます。籐梓さまにお渡しせよと」 「そうか。ありがとう」 ひらりとそれを受け取ると、侍女はしずしずと下がっていった。すぐに脩琉の元に戻るのだろう。侍女が下がったのを見送ってから、籐梓は白い紙を開く。そして一瞬眉根を寄せたあと、良くわからない、といった顔をして創葉にそれを渡した。 「こういうことだそうだよ」 「……はい?」 「読んでみてくれないか」 「良いのでしょうか? 脩琉さまからの御文ですのに」 「良いのだよ。創葉にも関係のあることだから」 籐梓の言葉に今度は創葉が首を傾げる。けれど籐梓はそれ以上なにも言わずににこりと微笑むだけだ。創葉は失礼します、と言って脩琉からの手紙を開いた。そして、創葉もまた、目を見開く。 「これは……どういうことでございましょう」 「私にもわからない。だが、脩琉さまがそう仰るのだから、そうするより他あるまい。なに、きっと室に戻れば、創葉にも脩琉さまから文が届いているだろう」 「そう……ですわね」 「では、後ほど」 にこりと微笑んだ籐梓は、すっと創葉の横をすり抜けて去っていった。しゃらん、と鳴らした髪飾りが、遠く響いていく。 創葉は瞳を伏せて、白い手を握り締めていた。 天の国が夕刻になり、創葉と籐梓は天の回廊にいた。その回廊は、常は神々もあまり立ち寄らない場所である。特に女神にいたっては、よほどでない限りそこに来ることはない。同じような回廊がこの天の宮城にはいくつもあるけれども、この回廊はそのどれよりも特殊なのだ。 「では、行こうか」 「……はい」 「創葉、頼みがあるのだが」 「はい?」 「降りたら、話を聞かせてくれるだろうか」 わずかに瞳を細めて、籐梓は創葉を見つめた。創葉はその言葉の意味がわからない、と言いたげに目をきょとんと丸くしていた。が、籐梓はそれを見てくすりと笑う。 「創葉が、気にかけていることだよ。何が聞こえるのかも──ね」 「籐梓さま……」 「さ、行こう。私もあまり気が進まないんだ。早く役目を済ませて戻りたいのだから創葉も協力しておくれ」 「……参りましょう」 是とも否とも応えず、創葉は顔を上げた。 回廊の向こう側には白亜の扉がある。その扉は、下界への扉。創葉は幾度か使ったことがある。籐梓は一度たりとも使ったことがなく、この場所に来たことも過去に数度しかない。 籐梓は沈鬱な表情をしていた。 人の世界に行くことが恐ろしかった。例え人と関わったとしても、自分がいかづちを操っていることなど人に知れるはずもないことはわかっている。けれども、人がいかづちを呪う言葉を聞きたくないのだ。 ──それはまるで、己の存在そのものを否定されているような気がして。ただの人殺しだと感じてしまいそうな自分がいて。『務め』をすべて否定したい自分がいるからこそ。 そして創葉はといえば、彼女もまた怯えのようなものが表情にあった。 神の世界と人の世界は時の流れが違うのだから、大丈夫。そう言い聞かせてはいるものの、まだあれからそれほど時は経っていない。 いまだに時折聞こえるかの声の人にもう一度出会ったとき、自分はどんな顔をして会えば良いのだろうか。あの人は、自分に気づくだろうか。もう一度、自分のことを呼ぶのだろうか。呼ばれたら──どうなるのだろうか。 扉の向こう側もまた、夜だった。夜闇に落ちた光がほろりほろりと照らしていく。その中を、籐梓と創葉が降りていく。 「これが、人の世」 「籐梓さま」 す、と創葉が指差したのは、人の家が集まっている一角。その方向に、するすると光が下りていく。この光を目に出来た人はいるのだろうか。もしこの光を目にしたなら、人はどう思うのだろう。そんなことを籐梓は考えながら降りて行った。 「すこしここで落ち着かせてもらおうか」 「はい、時期に夜も明けますので」 「それにしても静かだね……人界がこんなに静かな場所だとは思わなかった」 「脩琉さまがご指定された場所は、たいてい人がおりませんもの」 「そう……けれど、必ず、ということではないようだね」 人気の少ない公園に座った籐梓が、その向かいに立っている創葉にかすかに微笑んで見せた。 その笑顔を見た創葉にはわかったのだ。 籐梓は、知っているのだと。 「……どこまで、ご存知でいらっしゃるのでしょうか」 「そうだね、創葉が人界から戻って少ししたらどこか様子が違う、というところぐらいかな」 「嘘つきですね、籐梓さま」 「おや、創葉こそ、どこまで知っていると思っているんだい」 くつりと笑った籐梓の様子を見て、創葉はあきらめのため息をついた。もう、ほとんどのことを知っているのではないだろうか。けれどそれは籐梓は言わない。美しいけれど不機嫌な女神と呼ばれている籐梓と香歌、二人とも創葉は知っているけれども、籐梓の方が何倍も意地悪だ。 「人界へ降りて、ある人間と会いました」 「そう」 「その人が、私を呼ぶのです。ずっとあれから、天に向けて名を呼び続けているのが聞こえるのです」 浅海、と名乗った彼のことを、創葉は思い出した。初対面で、公園でベンチに座っていた創葉に、具合が悪いのかと訊ねてきた人。 人のよさそうな顔をしていた。けれど、どこか疲れたような顔をして。 「私が神だったらどうしますか、と訊ねたら、何も変わらずに具合が悪そうだったら声をかけ、隣のベンチに座ってパンをかじる、と笑っていました」 「うん」 「神だと知ってしまったなら、どうしますかと訊ねたら……空を、眺めると」 「……そう。良い人間だったのだね」 「そうだと……思います」 少なくとも、創葉にとって浅海という人間はどこか新鮮だった。それまでも何度か人界には下りてきているし、人と関わったこともある。けれど、その誰とも違ったのだ。 もしも、私が神だったら──? その問いかけに、彼は一目惚れなんてまずいかなぁ、と笑った。 それからずっと、聞こえてくる。彼の声が。 『僕は、ここにいるよ──』 なぜその声ばかりが聞こえるのか、創葉にはわからなかった。ただ、ずっと聞こえてくるその声が、浅海のものだとすぐに理解できた。そして続けて告げるのだ。その声が、ずっとずっと同じ言葉を呟き続けている。 『創葉さん……もう一度、会いたい──』 ぐっと手を握り締めた創葉を籐梓は見つめている。 創葉が一人の人間と出会い、そしてその人間にどこか執着を見せているというのは知っていた。詳しいことまでは知らないまでも、脩琉はその執着の理由を知っているようだった。そして、創葉と話した後に部屋に届いた書状に書かれていたのは、創葉とその人間をもう一度会わせてやって欲しいということ。創葉が何を選んでも受け入れること。そしてその人間を良く見極めること。 その書状を受け取ったときには、脩琉の言葉の意味がわからなかった。けれども、今、籐梓には理解できた。創葉の言葉を聞いて、やっと理解できたのだ。 「……では、創葉はもう一度その人間に会いに行かなければいけないね」 「…………え?」 「どうだろう、創葉。その人間はいかづちを落とす私のことも、嫌わずにいてくれるだろうか」 「籐梓さま……?」 にこりと創葉が微笑むのを見て、籐梓は脩琉の言葉を理解した。 創葉が何を選んでも──というその言葉は、女神を一人失うということだろう。きっと、それが創葉には良いことなのだ、ということも。 「…………創葉さん?」 突然聞こえた声に驚いた創葉はくるりと振り返る。 公園のベンチの向こう側にいたのは、創葉が知る人間であった。籐梓は知らない人間ではあるけれど、それが誰かと訊ねる必要はなかった。 穏やかな表情で、にっこりと微笑む男が、そこに立っている。いくらか驚いてはいるようだが、ゆっくりとこちらに近づいてくるその男が持つ空気が優しさを孕んでいる。籐梓はひそりと微笑んだ。 ──この男が。 「もう一度会えましたね」 「……浅海、さんでしたわね」 「はい。覚えていてくれたんですね。あの時は大丈夫でしたか?具合悪くなったりしませんでしたか?」 「ええ……あの時は、ありがとうございました」 にこりと微笑んだそれは女神の優美な笑顔。 けれどそれは、籐梓には見たことのない、創葉の「女性」である部分の強い微笑みだった。その笑顔を見た籐梓はくすりと微笑んだ。 「籐梓さま?」 「創葉さんのお友達ですか?浅海といいます、はじめまして」 「籐梓という。ひとつ聞いても良いだろうか」 「はい?」 きょとんと目を丸くした浅海が一度創葉を見る。創葉は何も言わずに籐梓を見ていた。籐梓はうっすらと笑顔を浮かべている。浅海が創葉から籐梓に視線を移すと、籐梓が口を開いた。 「いかづちは、嫌いか?」 「いかづち? 雷のことですか? そうですね、好きとか嫌いとか考えたことはありませんけど……雷が鳴るのにも理由があるでしょうから、必要なことなんでしょうね」 「……そうか」 にこりと籐梓が微笑む。浅海はやはり首を傾げるばかりだった。 創葉はくすりと笑い、籐梓をたしなめる。 「籐梓さま、浅海さんが驚いていますよ」 「ふふっ、それはすまない。ところで、あなたはなぜここに?」 「ここにはいつも来ているんです。……思い出のある場所なので」 浅海が微笑んで創葉を見ると、創葉は驚いた顔をして目を見開いた。 ──ここは、かつて浅海と創葉が出会った場所。 「ここに来れば、もう一度会えるかもしれない、と思って」 天の国はいつもと変わらない時間を送っている。 咲き誇る花々が色とりどりに世界を鮮やかに彩っている。その世界では時の流れとは無縁の神々がゆるりと過ごしていた。 変化の乏しい世界。 けれど、そこにいるのは変化を望まない神々だけではない。 時に変化を喜び、時に変化を嘆く。 「脩琉さま」 「籐梓、戻ったかえ」 「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。──とある女神の、解任をお願いいたします」 「……そうか」 満足そうに微笑んだ女神が二人。 そして遠く離れた、天の国とは違う時間を持った世界で、女神がひとり、“人”になっていた──。 |