1:夜の月に誘われて ぼんやりと浮かび上がる月の光。それは誰の目にも映る空の下にある。月とはそういうものだと誰でも知っているし、誰もがそう思う。 けれど、世の中に一人や二人はいるだろう。月には、人が住んでいると信じている人が。それが幼い頃に聞いたような夢物語や童話、小説の世界のものだけではなく、本当にいるだろうと信じている人が。 だが多数の人は、否定する。物語の世界だけのものだと。 そして否定した誰もが肯定する。夢物語のような話だと。 けれどそれは夢物語の世界ではない。どれほど非現実的だとしても、それは真実だった。月に、人が存在していること。いや、人ではなく、神が存在していること。何千、何万の人が否定をしてもそれを真実だと知っているものはいる。 ──その月の住人だけは、知っている。 ◇ ◇ ◇ ◇ 少女はぼんやりと窓の外を眺めていた。家の中で本を読み続け、いくらか目の疲れを感じて外を眺めていた。 外はすでに夜。辺りは暗くなり、人影も少ない。 もともと人通りの多い場所ではないが、それでも住宅街である。夕刻を過ぎれば家路につく学生やサラリーマンの影がいくつかは見えるものだ。 だが今はその影もなく、ただ静かな夜が訪れていた。時計を見るとまだ九時を回った程度。窓から空を見上げれば月が青白く輝いている。冷たさを感じさせるほどの輝きは静かに地上を見下ろしていた。 「うわ、今日の月、きれー……」 月齢など数えたこともない。ただ空に浮かぶ月が冴え冴えとしていて美しい。そう感じていただけだ。そう感じて、月を眺めていた。ぼんやりと眺めていると、疲れた目も癒されるし、何より心が落ち着く。 少女は幼い頃からずっと空を眺めることが好きで、月夜はその中でも特にお気に入りだった。夜を怖いと感じたことはほとんどない。月のない暗い夜でさえも、それほど怖いと感じたことはなかった。月が見えないというだけで、月は確実に雲の向こう側にあるものだと知っていたのかもしれない。夜の闇は、暗闇の恐怖より、少女の心を落ち着かせる効果を持っていた。 少女は窓辺に腕を乗せて、その上に頭をもたげた。そして静かに瞳を閉じる。眠気を感じたわけでもなく、何気なくそうしただけ。 その瞳を閉じたとき、わずかにゆらりと揺れた感覚を少女に与えた。地震の揺れの感覚とは違った、眩暈を起こしたような暗闇が襲う揺れ。目を閉じているのに、視界が揺らぐ感覚。熱を出して目を閉じたときに、世界が回っているように感じるのと似ている。どこか調子でも悪いんだろうか、そんなことを考えて瞳を開くと、目前には暗闇が広がっていた。 少女がいたのは自分の部屋であり、決して外ではない。暗い夜空の下ではなく、自分の机やベッドがある、明かりの灯された普通の部屋の中だった。 けれど、瞳を開いた少女がいたその場所には何の光もなかった。暗闇があるだけの、静かな場所。彼女の知る場所でそんな暗闇はない。夜の暗闇よりも暗い、人工の明かりなどもってのほか、何の光も感じない場所。暗闇というよりも黒で塗りつぶされた世界のよう。夜の闇ではなく、『黒』で充満した世界。明らかに少女がいた場所とは違う。それでも少女は恐怖を感じてはいなかった。明らかに少女がいた場所とは違うはずなのだが、それでも少女は恐怖を感じていない。彼女は夜の暗闇を怖がらなかったからかもしれない。 少女は辺りをぐるりと見回す。いくら見回してもそこはやはり『黒』の中であり、そこには何もない──ように見えていた。 「……光?」 少女は小さく呟いた。少し遠くの方を見ると、そこには小さく光っているように見えるものがある。そろりと足を進ませたが、立っているという感覚もあまり無いためか、歩いているような感覚もほとんどない。だが、少女は歩いているような気持ちで前に進んだ。 一歩進むごとに光に近づく。少女の一歩などそれほど進めるものではない。けれど驚くような速さでその光は近づいていた。 だいぶ近づいたように思えたそのとき──ぐるりと、何かが回ったように感じた。上下の区別もあまりないその場所で、回るように感じるのは自分の中の感覚だけである。それでも少女には天地が逆になったように感じた。ゆらりと揺れて、天地がさかさまになったそのとき。 少し離れたところにあったはずの光が、少女の近くにあった。それは大きな丸い光。その周りには小さな丸い光がいくつも見える。 「……月と、星?」 クレーターのようなものがいくつか見える。そして星空のような光の洪水がすぐ近くにある。満天の星空、青白く光る月。少女はそれらのすぐ近くに立っていた。 夜の闇には怖がらない少女でも、それにはいくらか違和感を覚えて首を傾げた。 月は、星は、空に見えるもののはず。だが今、少女はその月と星の傍らにいる。しかも月は光を発さないはずだがこの少女のすぐ傍にある月はどう見ても月自身が淡い光を放っている。 そんなはずはない。そんな非現実的なことがあるはずがない。そう思いはするのだが、やはりそれは月に見えるし、星に見えた。もしもこの月が光を発していなければ、ただの岩に見えるのかもしれない。けれど、非現実的な月は光を発し、辺りをほんのりと照らしている。月自身も、星も、そのわずかな光でその全容を見せている。 さらに数歩、少女は月に近づいた。 ほんの一歩か二歩だけである。 それでもその月の全容が見えなくなるほどに近くなり、星は大きな岩のように見えた。 「……泣いてるの?」 そっと少女はその月に触れた。月に触れられるなどあるはずがない。そう思う常識とは裏腹に、少女はそうすることが普通のように感じていた。 ひんやりとした月の感触が、少女の指先を伝って手のひらを辿る。そっと撫でるようなしぐさをして、少女は小さく語りかけた。 「大丈夫、寂しくないよ……」 月が泣き声をあげているわけではない。ただ、そこに『ある』だけだ。 けれど少女はその月が泣いているように見えて、言葉を紡いだ。なぜそんなことをしたのかと少女に問いかけても、答えられないだろう。なぜなら、少女自身にもそうする理由を持ち合わせていなかったからだ。 月が、泣いている。だから手を差し伸べ、言葉を紡ぐ。 月が応えるはずもないとわかっているはずなのに、少女はその言葉を述べる。 「……大丈夫」 もう一度少女がそう呟くと、それを合図にしたように星が強い光を放ち始めた。 あまりに強い光を受けて、少女は瞳を固く閉じる。辺りが光に包まれ、強い風があたりに吹き付けた。風が音を立ててうねる。まるで叫んでいる声のようにも聞こえる。何を呼ぶのか、何を叫んでいるのかはわからない。それでも少女にはその星が起こした風は叫び声に聞こえたのだ。 『──姫』 その声の持ち主が誰かは少女にはわからなかった。けれど少女は小さく「姫……?」と呟いた。姫と呼ばれる人物がここにいるのだろうか、と考えはしたものの人らしき姿はどこにもない。きょろりと辺りを見回したが、やはり声の持ち主らしき人も、姫と呼ばれたらしき人の姿も見つけられなかった。 強すぎる風は竜巻のようにうねりを上げる。少女はその強い風の中に身を攫われていた。けれど、少女にはその強い風に攫われたという感覚よりも、漂う、という感覚の方が強い。轟音を上げて風が吹いていたように見えたのに、辺りがぐるぐると回るのではなく、ゆるゆると流れているように感じられた。 攫われた風の中で、これは何、と少女は考えていた。考えながら、静かに意識を失うかのように瞳は閉じられ、少女は眠りについた。 ◆ ◆ ◆ ◆ 藍色の髪が、ふわりと揺れる。男は振り返り、小さく呟く。 「……現れたな」 その男の声を聞いた者はいない。喧騒の中にいる男は小さくそう呟いてから唇をゆがめた。 その男の名を知る者はいない。己ですらも、己の『真の名』を知らない。それでも男には名がある。男の名は「水杜」という。 藍色の瞳と、藍色の髪は「水杜」と成り得る者の色。それを知る者は限られた者だけ。そして男は知っている。自分が「水杜」であることを。 その藍色の瞳を煌かせ、藍色の髪を揺らし、男は足早に歩き始めた。どこへ向かえば良いのか、それは彼にもわかっていない。けれど、彼は知っている。自分が向かうべき場所は、彼の本能が知っている。 ──『月姫』がいる場所を。 ◆ ◆ ◆ ◆ 少女はうっすらと瞳を開く。そこにはやはり『黒』の世界があった。 傍らにはやはり月のようなものがあり、そしてその周りには星のようなものがあった。月に背をもたれるようにして目を覚ました少女は、わずかに上を向いてその月があることを確認した。少女が目を覚ますと同時にその星はわずかに明滅し、その月はぼんやりと光を発した。 光を発さないはずの月。それが少女の瞳が開くと同時に、明かりを灯すかのように光を発した。 「ありがとう」 少女はふわりと月に微笑みかける。月が応えるわけがないとわかっているのにも関わらず、話す相手も誰もいないこの場で少女はその月に語りかける。 「……ここがどこなのか……教えてくれたらいいのに」 「目覚めたか」 応えの無いことをわかりつつも呟いた言葉に、応える声が聞こえた少女はびくんと身体を揺らした。その言葉自体は少女の言葉に答えたと言えるものではなかったけれども、それでも少女はその声に驚いていた。この『黒』の世界に来て、月の傍らに来てから人の声を聞いたのは初めてだったからだろう。 恐る恐る少女は声のした方を振り返ると、そこには一人の男がいた。 暗闇で何も見えないはずだが、その男の姿ははっきりと見える。月がわずかに光を発しているからだろう。 この『黒』の世界の中で、溶け込みそうな深い藍色の髪と瞳を持った男を少女はじっと見た。 「……だれ?」 そう小さく少女が呟くと、男は膝を折り、紳士さながらに少女の足元に跪く。片足を立てて座るその男を、少女はじっと見つめている。後ろに結わえられた肩よりも少し長い髪がさらりと小さな音を立てて頭を下げた男の肩に垂れた。 「お呼びに預かり、まかりこしました。我が名は水杜(みなと)。姫に仕える者」 跪いた男は顔を上げ、少女の顔を仰ぎ見る。その見上げた顔から覗き込む藍色の瞳は、わずかに微笑を浮かべていた。 少女は首を傾げて男を見ている。男が跪いたので視線の高さが同じになっていた。 藍色の瞳が、じっと少女の瞳を見つめている。 「あの……?」 「立っても良いか」 「え? あ、はあ、どうぞ」 少女の言葉を遮り、立ち上がることの了承を得てから男は立ち上がる。視線をめぐらせ、辺りを見回している男を少女はぼんやりと座ったまま見上げていた。 「お前が傍にいたのか」 男が呟くと、月はわずかに光る。少女は何がおきているのかわからない、といった様子で男を見上げたまま呟いた。 「あの……誰……?」 「水の社。水杜だ」 「……水杜、さん」 男は微笑みもせず、少女の言葉に応える。そしてそれ以上何も言わず、その辺りをまた見回してから少女に訊ねた。 「他のやつは来ていないのか」 「……他の?」 「お前をつれてきた者は」 「……わたしをここに連れてきた人がいるんですか?」 いまひとつ会話がかみ合わないことに水杜は眉根を寄せた。辺りを見回して、やはり誰もいないことを認めてから、小さくおかしいと呟いた。何がおかしいのか、すでにここにいる自分がおかしいのではないのか、そんなことを思いながら少女はぼんやりと水杜を見上げていた。水杜は少女に対して何も言わず、難しい顔をしたままだ。 そのとき、ふわりと何かが宙から舞い降りてきた。 「……杜貴(とき)」 水杜が呟いて、舞い降りてきたものに向かって腕を伸ばす。白い羽と白い毛並みを持った鳥。尾がすらりと長く伸びていて、その尾は淡い緑色の毛をしている。何重かに重なって中央に近づくにつれて深い緑色に変わっていた。瞳はその尾よりもいくらか濃いが透明感のある緑色。硝子玉のように透き通った瞳は、きょろりと何かを探すように辺りをめぐらせた。 「杜貴、他の者は」 白い毛並みの鳥は、この『黒』の世界で鮮やかな色彩を持っているように見える。実際のところ、尾以外は真っ白であり、色らしき色はあまりない。 けれどここが『黒』の世界なだけに、その白さは際立ち、目立つ。 その鳥がさらりと音を立てて尾を揺らす。水杜の言葉に返事をするかのようなタイミングで揺らした後、ふわりと白い羽を広げてはばたかせた。その動作は飛び立とうとしたのではなく、何かを伝えようとしているようにも見える。 少女はその白い鳥となんらかのやりとりをしているかのような水杜を見てじっとその場で待っていた。聞きたいことは山ほどある。だから、それが出来るまで。 「……とりあえず了承した」 対話が終了したのか、水杜がそう言うと白い鳥は羽ばたいてどこかへと飛んでいってしまった。白い羽が羽ばたく様は、この『黒』の世界の中で美しく映えていたが、すぅ、とその色は消えてしまった。音もなく、まるでこの『黒』に飲み込まれるかのように。 少女はその鳥が消えたのを見てから水杜に向き直った。うっすらと眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。 「……俺は向こうに戻る。お前もすぐに来ることになるだろうが、気付いたらすぐに俺を呼べ。いいな」 「……向こう……って?」 水杜の言葉の意味が理解できず、少女はきょとんと目を丸くして水杜を見つめた。それを見た水杜は眉根を寄せて軽くため息をついた。 「名は何と言う」 「わたし、ですか?」 「そうだ」 深い藍色の瞳でじっと少女を見る。その瞳は決して優しいものではない。どちらかと言えば何を考えているのかわからないタイプに見えた。少しつりあがった目は強い意思を含んでいるかのように見える。その強い視線に、少女はいくらか萎縮していた。 水杜はそれに気付いたのか、困ったように少女を見た。 「……言い方が悪いのは承知しているがこういう奴だと諦めろ」 「え?」 「向こうで詳しく説明する。お前を見つけるためにも必要になる。名を先に教えてくれ」 あまり時間が無い、と彼は続けた。それは真実なのだろう。先ほどから彼は忙しなく瞳を動かしている。何かを警戒しているのか、あるいは探しているのかのようにも見える。だからといって、美月の警戒心が解けるわけでもない。水杜と名乗ったこの男を信用して良いものか、と。 じっと美月は水杜の瞳を見ていた。 藍色の瞳。藍色の髪。 それは美月にとって決して見慣れた色ではない。彼女が知る限り、日本人ならば瞳は黒、茶色がかっていても基本的には黒い瞳、そして黒い髪。髪の色は染色もできるが、こんな藍色の髪をした人は見たことがない。 外国人、と考えるには、水杜の話す日本語はあまりにも流暢だった。 「……逢坂、美月(おうさかみつき)です」 警戒心は抜けないものの、ここには水杜と美月、そして月と星があるだけである。頼るものは他にはない。そう考えた美月は、名乗ることに決めた。なぜか信用してもいい、そう思えたのだろう。 「月の名を持つ……か」 「え?」 ぼそりと呟いた水杜の声が、美月には聞こえなかった。訊ね返したが、水杜は何も応えない。 片膝を立てて再び水杜は美月の前に座り彼女の顔を覗き込む。あわせられた視線はじっと美月の瞳を見て告げた。 「この姿形を忘れるな。良いか、目が覚めたらまずは俺の名を呼べ。そして俺が現れるまでその場所からは動くな。たとえ相手が何を言っても、誰の名を名乗っても、この姿の俺が行くまでは動かずに俺だけを待っていろ」 真剣なその藍色の瞳を見て、美月は頷く。それがどういうことなのかはあまり理解できなかったが、今は彼の言うことに従った方が良いのだろう、と判断した。 今は、それが正しいのかどうか、という疑いは持てなかった。この『黒』の世界に怖れるところは無いものの、頼れるのは水杜だけ。水杜の言葉を真実と思うほかに、美月が出来ることはなかった。 「よし。では眠れ」 「……え?」 「眠れ。そしてお前の行くべきところへ行け。必ず俺が行く」 その水杜の言葉が終わるか終わらないかのところで、美月の瞼が下りてくる。静かに月に身体を委ね、美月は眠りに落ちた。 水杜はそれを見守ってから立ち上がる。りん、と彼が身に着けている鈴が音を立てたが、美月は目を覚ます気配はない。それよりも、音を発した水杜の方が驚いた顔をしていた。 「……何故」 指で鈴を突付くと再び、りんと小さく音を立てた。それまで、鳴ったことの無い、水杜の腰帯につけた鈴は今はじめてその音を水杜に響かせた。複雑な顔をして唇を歪めてから、水杜は月を見つめる。 「……お前が守れ。俺が行くまでは」 月が水杜の言葉を理解するはずもなければ、返事をするはずもない。けれどその月は水杜の言葉を理解し、承知したかのように光を発した。水杜はかすかに唇の端を持ち上げる。 「頼んだぞ」 その一言とともに、月に背を向けて歩いていく。数歩足を進めたとともに、その姿は音もなく掻き消えた。 |