10:再会






 海のそばの小屋は、磯の香りで充満していた。漁師たちの使う小屋だから仕方ない。小屋の中に何とか場所を確保して、水杜と美月が横たえられた。意識を失った二人をそこで眠らせている。
 戒が結んだ結界のおかげでこの小屋は人が寄り付かない。静かな時間が流れていた。

「……ねえ、火杜」
「ん?」
「月姫、ホントに目覚めてないの?」
「……そのはず、だったんだけどな」

 苦く火杜が笑って答える。風杜が来たときには美月は月姫にしか見えなかった。けれど、火杜たちは彼女が月姫に着任していないことを知っている。あれは月姫ではなく美月という人だということを知っている。だから、火杜は知らない。あんな冷たい瞳をして海の神と対峙するような彼女を、彼は知らない。

「月姫といえば、あれが普通なのかもしれないけど」

 それでも、火杜の知る月姫は美月だけ。その美月は月姫というよりもただの人だったのだから、違和感は拭えない。もしもあの美月を水杜が見たら、なんて言うだろう。月姫だから何もおかしくないと言うだろうか、それとも表情の少ないあの顔が驚きの色を見せてくれるだろうか……そんなことを思って、火杜はかすかに笑った。

「それにしても、美月は水杜が海里という人だとわかっていたんでしょうかねぇ」
「……どうだろう。オレ達が四蓬になるっていう意味を、美月はわかってなかったから……多分、知らないと思う」
「キレちゃった、ってところでしょうかねぇ。美月はこちらに来て最初から水杜と一緒だったようですし。うらやましい」
「は?」

 月姫の親も同然なのは律師のはずなのになぁ、と戒は呟いた。
 いたって本気のように見える表情で、そんなことを言う戒を見て、火杜は噴出す。風杜もつられて噴出すと、納得いかないような顔で戒が二人を睨んだ。

「何がおかしいんですか」
「やあね、律師ってこんな面白い人なの? あたし、もっと堅苦しいヤツかと思ってたのに」
「おや、堅苦しいほうがよろしければそのようにしますけど?」
「それは遠慮しておくわ。わざわざ面倒にする必要なんてないもの。で、律師の戒は何を想定しているのかしら」

 にやりと風杜が笑うと、戒は目を丸くした。
 それを見た風杜はふんぞり返って戒を見返す。

「律師ともあろう人物が、月姫がどうしてああなったかを考えていないはずないわよね」

 姫王には四蓬という守護者と律師という教育者が任命される。それ以外に役割として必要な者がいる場合は姫王自ら任命することが出来るが、姫王、四蓬、律師の任命は先代のその人以外に関わる者がいない。姫王自身以外の知能・知識部分を埋めるのは律師の勤めである。言ってみれば頭脳労働派が律師、四蓬である風杜や火杜たちは肉体労働派だ。

「考えてはいますけど、私も何でも知ってるわけじゃありませんから推測しかできませんよ」
「推測上等。とりあえず語ってごらん」

 どうしたものかと考えはしたが、戒は少しずつ語り始めた。

「まず、月姫降臨についてですが……本来月城に降臨するはずの月姫が、なぜ峯鳴近くの洞窟に現れたのか、ということですけれども、呼んだ者が危険を避けた、と考えるのが妥当ではないかと思われます」

 それはすべての始まりだ。守か先代月姫にしか呼べないと言われているの次代の月姫。けれど彼女は誰かに呼ばれた覚えはないという。それもまた真実だ。
 先代月姫は美月が現れるよりも前に隠れている。月は、とうに姿を消していた。そして守がこの場にもいないことから、彼女を呼ぶことが出来たとは考え難い。すると誰が彼女を呼んだのか。誰が彼女を月姫と定めたのか。

「これは先ほど彼女が言っていた通り、神≠ニいうことになるのではないかと思います。神の代行者を神が選ぶのはまっとうなことであり、なんら不思議なことはありません。そして今ここに起きている危険性を知っていて、月姫を月城から少しでも遠ざけて呼ぶ……それも不可能ではないのではないでしょうか。なんと言っても、相手は神≠ナすから」

 戒は眼鏡を上げて語り続けた。
 そもそも月姫は月の加護を受ける者と言われている。だから月の神の代行者と言われても違和感は受けない。あるとすれば、その神という存在を目の当たりにしているわけではないので、あまりに非現実的だと思うぐらいだ。
 美月にとっては、この世界そのものが非現実的であるということを彼らは忘れているかもしれないけれども。

「そして四蓬と律師もまた、神が選んだと言えるのでしょう。私たちも元はただの人ですから、少なからず何らかの罪は犯してきたかと思います。けれど、四蓬や律師になったことそのものが何らかの罪や咎を赦され、選ばれたということではないかと」 
「オレも神に選ばれた、ってこと?」
「ええ。火杜も風杜も守も私も同様です。そして姫王が神の代行者であり、その代行者を守る四蓬、そして姫王を支える律師もまた神の持ち物のひとつ。四蓬が奪われるということは、神の持ち物を奪うということですから、相手が水杜の過去を知る者だとしても神の持ち物を奪って赦される道理はありません。美月が月姫として目覚めたのは、神の怒りを代行するため……そうは思えませんか」

 人が神のものを奪う、確かにそれは赦されることではない。だから月姫が神の怒りを地上に降すために覚醒したというのはありえるかもしれない。たとえそれが戒の推測だったとしても、火杜や風杜には信憑性のある言葉に思えた。
 いずれにしても、と戒は言う。

「今は美月が目を覚ますのを待つより出来ることはありません。遠江に行くという話しをしましたが、彼女が月姫として確実に覚醒しているのならば、それは必要ないかもしれません。それよりも月城へ行ったほうが……」
「月城へは、行かない」

 戒の言葉を遮ったのは美月だ。戒たちがはっと振り返ると、むくりと起き上がった美月が居た。月姫として覚醒し、水杜を取り戻して意識を失っていた美月が目を覚ましていた。

「目を覚ましましたね。ご気分はいかがですか?」
「……戒? わたし……どうして……」

 先ほどはっきりとした口調で美月は声をあげたはずなのに、今、彼らの前にいる美月はどこかぼんやりとして寝起きのような顔をしている。

「少し疲れたのでしょうね。突然意識を失ってびっくりしました。どこか痛いところとかありませんか?」

 こくりと頷いてから、美月ははっと目を開いてきょろきょろと辺りを見回す。
 そしてその先に水杜の姿を確認してほっと息をついてから戒に訊ねた。

「水杜、見つかったんだ……良かった。どこに居たの?」

 美月は、自分が彼を取り戻したことを覚えていなかった。
 その美月の様子に驚いた戒たちは、言葉を呑み込んだ。海の彼方に、などと答えられるわけもない。どうやってそれを知ったか、どうやってそれを救い出したのか、月姫のことを省いて説明するなど、誰にも出来そうにはなかった。

「う……」

 うめくような低い声が小さく響く。横たえられていた水杜が身じろぎをしわずかにうめいた。そうっと瞳が開かれていくのを美月は見つめる。

「水杜!」
「……美月? なんだ、何があった……?」
「何がって……覚えてないの?」
「ああ……そういえば、海が荒れて……怪我は無いか」

 美月が頷くのを見て、良かったと小さく水杜は呟いた。そしてまたゆっくりと瞼が下りる。そのまま水杜は再び眠りについてしまったが、一度目を覚ましたのだから大丈夫だろう、と戒に言われて美月は安心した顔をした。
 だが火杜たちは複雑な顔で彼女を見ている。
 今ここに居る美月は、それまでの火杜の知っている美月の姿だったからだ。風杜にとっては全く知らない人物のように見える。
 瞳の色は黒に戻っているし、先ほど海の神と渡り合ったときの銀色の光も見えない。風杜は困惑する。どれが、月姫。誰が、月姫かと。

「……あの、火杜、この人は?」
「あ、ああ、こいつが風杜だ。言ったろ、一人だけ女の四蓬がいるって」
「そうなんですか。いつの間に……」
「さっき! その、美月が寝てる間に」
「そう、さっき着いたのよ。はじめまして、月姫。よろしくね」

 困惑してはいるが、明らかに自分よりも幼い少女。自分がしっかりしなくてどうする、と自分を叱って風杜は美月に微笑む。首を傾げると、りん、と音がした。

「はじめまして、風杜さん。逢坂美月です」
「美月? 可愛いわね、その名前。本名?」

 はい、とにっこりと笑う。屈託の無いその笑顔は、本当に先ほど自分が月姫として采配したことを覚えていないようだった。
 それを見ると海の神と対峙したのは誰なのか、本当にわからなくなる。海の神と対峙していたのは目の前にいる彼女のはずなのに。月姫なのに、月姫じゃない。それを目の当たりにした風杜には、美月をどう見たら良いのか難しいところだ。
 その風杜たちの様子に気付いたのか、美月が首を傾げる。
 どうかしたのか、と戒に訊ねると、戒は笑っていいえ、と首を横に振った。
 それから数時間立って、水杜が再び目覚めた。その顔色はだいぶ青ざめていて、海の泡の中で相当消耗していたのだと見てとれる。

「とりあえず、近くの町に宿を探しましょう。ここでいつまでもくすぶっていても仕方ありません」
「って、水杜動けるのか?」
「……ああ」
「嘘つきなさい。無理よ、そんな青い顔してるんだから。ほら火杜、とっとと水杜背負って。美月、先に行って宿を探してきましょ」
「え?」

 驚いて目を丸くした美月の腕を引っ張って有無を言わせず風杜は美月を連れて行く。慌てて美月が振り返ったが、水杜は立とうとしていて美月の方を見る余裕は無かった。



 残された水杜と火杜、戒が風杜と美月を見送って少し離れたところで、水杜が火杜に声をかけた。火杜のどうしようか、と戸惑ったような表情が見えたのか、水杜は訝しげに首を傾げていた。

「どうかしたのか」
「……海でのこと、覚えてるか」
「……ああ、残念ながらな」
「どこまで?」

 火杜の言う言葉の意味が理解できず、水杜は何がだと問いかける。けれど答えられずに火杜が俯くと、にこやかに笑った戒が口を挟んだ。

「とりあえず、歩きながらにしませんか? あまり遅れると、風杜に何を言われるかわかりませんからね」

 穏やかな笑顔を見せる戒の眼鏡の奥の瞳は決して穏やかではない。険しいともいえる瞳をしていて決してただの微笑みには見えなかった。
 けれど、いつまでもここで寝ている場合ではないことはわかっていたので、水杜はゆっくりと歩き出そうとする。だが消耗した体力はまだ相当衰えたままだ。よろける水杜を火杜がつかまえて無理やり背負った。決してその状況を良しとは出来ない水杜ではあったが、自力で歩こうとすれば自分のために何の行動も出来なくなることを知っているのか、眉間に皺を寄せたままおとなしく背負われていることにした。
 行きましょう、と戒に促されてゆっくりと火杜が歩き始める。最後の海の小屋を出た戒が、そっと指を鳴らして小屋のまわりに張っていた結界を解いた。

「……火杜、さっきのはどういう意味だ」
「いや……その」
「水杜が覚えているのは、海に飲み込まれたことですか? それとも、戻ってきたときのことですか?」

 口ごもる火杜を制して、戒が言う。すると、眉間の皺をよりいっそう深くした水杜と複雑な表情をした火杜が戒を見る。

「……海に飲み込まれたのは覚えている。俺はその辺に漂っていたんじゃないのか」
「漂って……戻ってきたのはある意味そうですけれども。あなたが海に飲み込まれて、一晩経っています」
「……何?」





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