14:月の目覚め
腰を低く構えた守が、鈴の音を鳴らしながら槍を軽快に振るう。ただ祐理の剣の攻撃をかわしているように見えるが、その実、的確に彼は祐理を傷つけていた。
祐理の肩口や腕、足、確実に傷が増え、血が流れていく。
火杜に指示を出し、風杜を促す。守が来たことにより、動きは精彩を放っていた。
「さすがですねぇ、一気にこちらの優勢になりました」
「律師殿のおかげで動きやすいのですよ。では、そろそろ一気にいきましょうか」
「ええ、ではお願いします」
にこりと戒が微笑んで、呟くようにして言葉を繰り出す。
印を結んでいく戒の指先が器用に動く。その中で守が火杜と風杜に合図を出して攻撃を加えていった。
「戒、逃したらゆるさねえかんなっ!」
「まさか、私に言ってるんですか?」
にこりと微笑んだ戒の周りには、月姫の銀の光に近い、白いものが漂っている。彼の力が高まっている証だろう。
ゆらりと浮かび上がるそれは、戒の周りを取り囲んで彼を包み込んでいる。いつもは白に近いはずの髪が、灰白色に近い銀色に輝いて漂う白いものにあおられ、揺らめいていた。
「風杜、先行くぞ!」
「良いから早く行きなさいっ!」
まるで楽しんでいるかのようににっと笑って火杜が地を蹴る。火杜の太刀が祐理の短剣を捕らえた。
そしてすぐさま風杜が祐理に扇を放ち、その太刀を叩き落とす。火杜の太刀に宿っていた炎が祐理を取り巻き、傷を焼いていく。そして風杜の扇から放たれた風がその炎を煽り、祐理はうめく声だけを残していた。
短剣を叩き落された祐理は影に立ち戻ろうとしたのか、身体をゆらりと動かして色を隠していく。それでも、火杜の炎の熱は感じるらしく、低くうめく声が響く。
「こ、の…………!」
「白光縛!」
影に立ち戻ろうとしている祐理の姿は肌は土気色で次第に暗色に変わっていこうとしていた。それを留めたのが、戒の声だ。
空から白い幕が下りて祐理を覆い、動きを捕らえた。
彼の戒めの言葉が白い幕をおろし、それが祐理を包んで空間を作った。
戒の呪言から逃れた風杜と火杜は、飛び退いて水杜のいる部屋の前に戻る。窓の奥で、水杜が唇を噛んで外の様子を見ていた。
「水杜、動くんじゃないわよ。あんたが出てったら、戒の呪縛がゆるくなるから」
「……わかっている」
つい先ほど同じようなことを守に言われたためにか、苛立ちが顔に現れている。その守は地を蹴り、祐理から離れて美月の近くにしゃがみこむ。
それをちらりと見た美月は、守に向かって微かに微笑んでから祐理に視線を向けなおした。
祐理を縛した戒は険しい表情をして睨みつけている。穏やかな表情をした戒とも、酷薄な笑みを浮かべた戒ともまた違う顔が、そこにあった。
まるでそれまでの怒りをすべてぶつけているかのようにも見える。
真実、戒はそれをぶつけていた。何度あの男に煮え湯を飲まされたことか。水杜ほどではないにしても、自分が美月と遭遇してから二度も襲撃されたのだ。怒りの一部は、己に対してかもしれない。
両手を祐理に向けている。戒の両手からほとばしる光が、祐理を捕らえている。
「美月……!」
戒が苦しげな声で美月を呼ぶ。祐理の抗う力が強いのか、それとも月が雲に隠れ始めているからか、束縛をしている戒の消耗が激しい。
美月はふっと戒を見て頷き、祐理に向き直る。そして空に掲げた片手をすっと下ろす。
「封月!」
戒の白い幕は美月が腕を下ろす一瞬前に掻き消えた。そして美月が下ろした腕の辿った道を、光が走る。銀色の光が縦にまっすぐに降りて、そこから強い光を放った。
「月姫はその声を聞き届けました。静かに眠りなさい、祐理」
美月が祐理の姿のあった場所の光を見つめたまま、静かに言葉を紡ぐ。その言葉が祐理に届くとも思えない。けれど美月はそう呟いてじっと見つめている。祐理の、どんな声を聞いたのか、それは美月にしかわからない。
光が消えると同時に白い煙が幽かに立ち昇っていた。
その場所に、人の姿は影も形もなくなっていた。
影が消え、光が消え、その場には静寂が訪れた。風杜に風の褥を用意させて、水杜はそれに乗って外に出る。
美月はじっと、影の消えた場所を見つめていた。
あとに残ったのは昇華していく輝きだけ。それだけが、空に向けてきらきらと舞い上がっていく。月が、その昇華していくものを受け止めて、やがてそれさえもなくなった。
「……月姫」
美月の傍について跪いた守が小さく呼ぶ。その声に振り返り、美月は微笑んだ。
「あなたが、守ね」
「はい。参上が遅れまして申し訳ございません」
「ううん、わたしがちゃんと来られなかっただけだから。あなたのせいじゃない」
礼を言って守は頭を下げる。跪いた守を見下ろすようにして立っていた美月が、そこに小さくしゃがみこんだ。
それを見た戒や水杜、火杜、風杜たちは目を丸くする。今度は意識不明にはならなかったようだが、また倒れるのだろうかと慌てて駆け寄った。
けれど、美月はそれに頓着することもなく、しゃがみこんで守と視線の高さを合わせて、こういった。
「あなたが、わたしを月姫にしてくれるの?」
「……いいえ、あなたはすでに月姫です。私がするのは、月姫着任のための儀式にすぎません」
「……月姫にならないと言ったら?」
美月のその言葉にはっとする。
確かに、美月は月姫というものを知らずにここに現れた。そして彼女が月姫になると明言したことはただの一度もない。
続いた襲撃と、知らないうちに月姫となっていたりという、普通の月姫降臨とは違ったこともあり、水杜たちはそれを忘れていた。彼女が、この世界に留まるかどうかは彼女の気持ち次第だということを。
「…………あなたが月姫になりたくないと仰るなら、あなたを帰すことは出来ます。この守があなたを異国へお送りさせていただきます。ただし、二度とこちらに来ることは叶いません」
「そっか。もう一つ、聞いてもいいかな」
「なんなりと」
一瞬悩んだあと、美月は口を開いた。
「月姫になったら……わたしは、もう帰れないの?」
「……いいえ。あなたが望むなら、いつなりと扉を開くことが出来ましょう。月姫着任の儀式を行えば、その術はあなたの中に自然と宿ります。ただ……時の流れが違うと聞きますので、月姫がこちらに来てからどれだけ向こうで時間が経っているのかは解かりかねますが」
「……でも、行くことは出来るんだね」
はい、と守は頷いた。
遠い幻の国から訪れることのある姫王にだけ授けられた、異国への扉。それは姫王となった者だけが得られる力。それは守の言う帰す≠ニは異なり、自ら行き来できるものだ。けれど、月姫とならなければ、守の力によって帰ることが出来る。この世界のことは、すべて忘れて。
「……四蓬は、あなたに仕えるために存在します。ですから、あなたの良いようになされば良いのです」
「そして律師も同様に。私もあなたに仕えるために存在しています。この力もすべて、あなたに捧げ、あなたを守るためにあります」
にこりと戒が微笑む。四蓬の四人も、律師の戒も、美月の答えを待って、彼女を見つめる。
すべての選択権は美月にある。美月が拒むなら、無理やり月姫にすることはない。だが、彼らが望むのは己の主が主としていてくれること。それだけを願っている。
律師と四蓬は姫王のために存在する。そしてその存在のためなら命だろうが己の過去を擲つことだろうが躊躇うことはない。ただ、その一人のために存在したい。まるでそれは、恋のように強く想うたった一つの望み。
だからこそ、切に願う。
月姫が、月姫でいてくれることを。
美月が、ここに居てくれることを。
「守」
「はい」
「儀式って、何をするの?」
「たいしたことではありません。あなたに、月の恵みを与えるだけ。月光の中で月姫であることを誓っていただくだけです。そして月の恵みがあなたに宿れば、あなたは月姫に着任します。月の光をその身に宿して、この世界を安寧に導いていただくことになります」
けれど、本当に安寧に導いてほしいのは世界ではない。
世界よりも、自分達が導いてほしいのだ。自分たちを照らしていてほしいのだ。
──それは、言葉には出来ない願いだけれども。
「なら、早く済ませよう」
「…………え?」
「帰りたい、っていうのもあるんだよ。でも、そんなに帰りたいのって自分に聞いたら、ちょっとわかんなくなるの。だから今できることがあるなら、それをしようと思って」
「……美月」
水杜が複雑な表情で声を掛ける。
誰よりも先に美月を見つけた。そして彼女を見てきた。
帰りたいと、何がなんだかわからないと、迷った目をずっとしていた。その美月が今、まっすぐな目をして水杜に向かって笑いかける。
「水杜、怪我は平気?」
「ああ……それは、平気だが」
「良かった。ねえ、水杜言ってたよね。四蓬は姫王を守るんだって」
「そうだ」
「だからね、わたしは四蓬を守るの。四蓬は、姫王のためにいるんでしょう? だから、姫王は四蓬のためにいる。わたしは、水杜を、火杜を、風杜を、守を、見捨てない」
「…………」
「あ、もちろん、戒もね。わたしに何が出来るのかなんてわかんないけど……わたしがいることを、みんなが望んでくれるなら、わたしはいるよ。みんなのために、わたしはいる」
それ以上、水杜は何も言うことは出来なかった。
あんなにも目がさまよっていた。どうしたら良いのかわからずに迷った顔をしていた。けれど今は、もう違う。
二度も月姫として降臨したからではなく、これは彼女の意思だろう。
「本当によろしいのですね?」
「うん。ただ……たまに、向こうに帰ったりしても、良い?」
きっと、寂しさを感じたりはしてしまうこともあるから、それだけは了承していてほしい。あの世界が、自分の故郷に変わりないのだから。
そう言った美月を、彼らはにこりと笑って了承した。幻の世界を故郷に持つ気持ちは彼らにはわからない。幻の世界ではなくても、彼らは己の故郷を知らないのだ。だからその気持ちはきっと真実としてわかることはないだろう。それでも、彼女が願うままに。彼女がそうしたいのならば、それで良い。
「では、月姫。月の光に誓約を。月の神の代行者となることを了承してくださいますね」
守に言われ、美月はこくりと頷く。
「月読の神の代行者、姫王降臨。今、ここにその誓約を──」
守の言葉を合図に、月が煌々と輝き銀色の光が美月に注がれる。
光の中に立った美月は、まっすぐに月を見上げ、その輝きを見つめている。
それ以上、何も起きない。けれど、美月は知っていた。これで、誓約が成されたことを。契約が成されたことを。
「美月、これからもよろしくお願いしますね」
微笑んで戒が右手を出す。その手に美月はそっと触れて、握手を交わし、微笑を交わす。
「月姫、月城に参りますか」
「あ、ううん。月城じゃなくて、行くところは決まってるの。まだ道に迷ってるから」
美月が笑って守に言った。守はきょとんと目を丸くする。
まだ道に迷っている──それが彼女の行く先を決めた。
「遠江。迷子になったらそこに行くのが良いって戒が教えてくれたんだ。今は守も来たから、それほど迷ってないのかもしれないけど。でも行かなくちゃいけない気がするの。月をいらない、と言ったのが誰なのか……わたしは、知らなくちゃいけないし。それに月城に行かなくちゃ月姫じゃないってわけでもないんでしょう?だから、今は遠江に行くよ」
承知しました、と守は呟いた。
戒は微笑み、火杜と風杜、水杜が静かに頷く。
祐理は美月が封じた。けれど根源は何もわかっていない。それでも、美月がいることでその歯車は正常に戻り、自分たちの居場所を作ってくれる。そんな気がしていた。
道が動き始めた。狂っていた歯車が少しずつ正常な動きに戻っていく、そんな感覚がある。それは、彼らに確かな存在感を与えているのだ。
くるりと美月は振り返り、そうだ、と守に言った。
「わたしの名前は月姫じゃなくて、逢坂美月。よろしくね」
その笑顔は、無垢で、無邪気なものだった。
物語のような世界があるという。
それは、月に人が住まうというお伽噺のようなもの。
輝く月を見上げれば、そこには人の影が見えるという。けれどそれは、あくまでもお伽噺で誰も信用などしない。夢のような話で、誰も月に人がいるとは信じない。
けれど、それは、夢物語でもお伽噺でもない真実。
月には、大きな城があり、そこには月姫≠ニいう姫がいる。だが、その姫は一所には留まらない。だから月に見えるのは、人の影ではなく城の影。
それでも、彼女たちは知っている。
月に、人が住んでいることを。
自分たちの居場所があることを──
『月の羽衣』 了
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