姿映すもの




 その目に映るものが真実とは限らない。それは晴明がずっと成明に説いてきた言葉でもある。だからこそ、成明は今、こうして不思議な生命体と対峙していても違和感を感じていない。ただ強く起きる瘴気に耐えるために、ぐ、と手のひらを握っていた。
 そして、それに対峙している女は、ただ、薄く笑みを浮かべているだけだった。その笑みは晴明の見せる意地の悪い笑みとはまた違う。どちらかといえば、とりつかれた者が見せる笑いに似ている。 それを見て、成明はぞわりとした。

「……晴明、あれ、なんだ?」
『おれは知らぬ』
「知らんじゃすまないだろ!お前の奥さんなんだろ?!」
『姿は梨花のものだ。だが……』

 あんな梨花を、晴明は知らない。晴明の知る妻は、鬼の姿が見える見鬼の才を持っている。けれどその才は妻を苦しめるだけであり、かつて晴明が使役していた十二神将の姿をも恐れていた。かつて晴明が陰陽師の才を発揮していたとき、晴明としては十二神将の一人を梨花の護衛につけておこうとしたこともある。だが、神将の姿が見えてしまっては、護衛どころではない。その姿だけで彼女は卒倒してしまうのだから。晴明の知る妻はそういう女性だった。だから、このように薄気味悪く笑う梨花を、晴明は知らない。

「晴明さま、私とともに…参りましょう」

 にこりと笑っている…つもりなのだろう、その唇が、にぃ、と大きく裂けた。大きく裂けた唇は赤い。 そのさまは人のものとは当然思いようがない。成明はなんとか精神を保っている。結界をはって瘴気の影響を抑えているからだ。だが、それもあとどれくらいもつか判らない。通常、成明ほどの力があれば、それを維持することは難しくない。
  だが今対峙している女──梨花は、常の怨霊とは、何かが違う。人の姿が、怨霊のようにおぼろげなものではないのだ。

「晴明…まずい、俺、もたないかも…」
『……』

 わずかにつぶやくように言った成明の言葉は、かなり搾り出したような声になっていた。
力が強ければ強いほど、それに相対する力を強く感じる。そしてその力は相対しているだけに、影響も強く及ぼす。晴明がいるからといっても、成明は一人の人間。この瘴気は対晴明とは言えど…感度の高い成明には、そうとうきついものだろう。

『梨花』
「はい」
『そなたは、おれの命が欲しいのか?』
「そのようなもの、いりませぬ。私は晴明さまが欲しいだけ」

 梨花は本当に晴明が欲しいだけだというのはわかる。ただひたすらに晴明だけを求めている。一途なまでに。けれど、そのために瘴気を起こすなど、梨花のすることではない。

「…晴明」
『おれがお前を調伏せねばならぬのか?』
「……晴明っ!そうじゃねえだろっ!」
『…成明?』
「お前、あれが誰かわかってんのか!あんたの奥さんなんだろ!?」
『姿は、な』
「じゃぁ、中身は!」
『………成明よ、中身が誰であろうと、梨花の姿をして瘴気を撒き散らすようなもの……おれが許せぬ』
「だからって!あんたの奥さんのカタチを消したって意味ないだろうが!!」

 必死で成明は叫んでいた。晴明の痛々しい姿を、見ていたくなかった。梨花の姿をしたものが、梨花とは限らない。それは晴明がずっと言っていたことだ。

『目に見えるものが真実とは限らない』

  成明は梨花を知らない。けれど、晴明の妻であった梨花が、今ここで対峙している女性ではないこと、それだけは判る。そして当然、晴明にも、それはわかる。だが、その中身が誰であろうと ……いたずらに梨花の姿を使われるのは、晴明の逆鱗に触れたとも言える。

『せ…めい、さま…』

 にたりと笑った梨花から、澄んだ声が、聞こえた。それは今にも消えてしまいそうなほど、細い、やわらかい声。そしてその大きく開いた赤い唇が、常人のそれと同じようになってくる。晴明が、目を見開いた。成明はその声の主を知らない。けれど、感じ取った。

『晴明、さま…』
『……梨花。いるのか』
『お許し、ください……私が、弱いばかりに…』
「梨花、さん?」
『成明殿…ですね。私が成明殿にお会いできる日がくるなんて…。できれば、このような私を、見られたくはなかったけれど……』

 けれど、その口調にはわずかに喜びのようなものが入り混じっていた。これが本当の梨花なのだろうことは、梨花が晴明の妻であることを知らなかった成明でも、感じ取れた。

『晴明さま…私のせいで…申し訳ありませぬ…』
『そなたが気にすることではない。泣くなよ、梨花』
『…はい。晴明さまとのお約束、違えることは、いたしません…』

 ふわりと、そのあたりが暖かくなったような気がした。それまでの『梨花』
の持っていた強い瘴気が、わずかだが弱くなった。晴明の妻が、術者だというのは、成明は聞いたことがない。もちろん、妻がいたことすらよく知らなかったのだから知るわけもないのだが。晴明は何も言わず、ただ、今現れた『梨花』に優しく微笑んだ。

『成明』
「あ、え?」
『結界を緩めろ。もう大丈夫だ』
「え?なんで?」
『"あれ"は今、私の意識下にござります。そう長くは…もたないかもしれませんが…』
「え?!梨花さんは大丈夫なのか?」
『私は、もともと姿を持たぬ者。すでにこの世のものではござりませぬ。ですから、お気遣いなどなさらなくても大丈夫ですよ、成明殿』

 ふわりと微笑んだその笑顔は、とても優しい笑顔だった。…思わず成明が赤面してしまうほどに。

『…秋陽に言うぞ?』
「ば……っ!なに言ってんだよっ!!」

 本物の梨花が現れたことにより、晴明の緊張が、少しばかり緩んだ。そしていつもと同じ成明と晴明のやりとりが始まった。それを見て、梨花はくすくすと笑っている。まさかこんな風にご先祖さまに会うことになるとは成明だって思ってはいない。けれど、成明は梨花の顕現に恐れることはなかった。最初に現れたのが、あの異形だったせいもあるのだろうが。

『晴明様、私がわかる範囲ではありますが…お話を』
『ああ、頼む』

 どうやら、晴明神社への投書は梨花がしたものらしい。本来、梨花は『使い』
として出されたそうだ。晴明神社への投書のための『使い』
として。あの文書自体は本来警告の意味を持つものだったのだが、その後梨花に入り込んだ『もの』により呪詛がなされ、"梨花"の手により晴明神社は穢されつつあったらしい。それが、今日、先ほどのことである。

『あれは、成明殿、あなたを狙うものです。あなたはかつての帝の生まれ代わり、あなたの前生が前生ゆえに、今生のあなたを狙う。あの投書にある"雪"が降り注ぐときには、お気をつけくださいませ』
『梨花、その"雪"とは何ぞ』
『申し訳ござりませぬ、私もよくは存じませぬ。そのように遣わされただけなので…。ただ、成明殿はいまだ冥府へいらっしゃるときではござりませぬ。晴明様とともに、生きてください』
「…なぁ」

 ぽつりと成明が口を開いた。晴明はきょとん、として成明を見やる。

「…梨花さんは、どうなるんだ?っていうか、梨花さんは…生まれ変わらないのか?」
『…成明』
『………お優しいのですね、成明殿。私はまだ、生まれ変わりはいたしませぬ。晴明様がお勤めを終えるまで…私はずっと、お待ちしているのです』
『………』

 きっと、ずっとずっと昔、成明が存在しないころの約束なのだろう。遠くを眺めるような目を、2人がした。そして瞳をあわせて、優しく微笑みあった。
 成明は、どこか悲しいけれど、嬉しいような気持ちになった。晴明には、待っていてくれる人がいる、ということが嬉しかった。けれど、それを待ちつづける梨花が、可愛そうにも思えた。本当ならば、もう一緒に新しい生を迎えているはずなのに。
 ……そうできないのは、自分のせいなのではないだろうか、と。成明がかつての帝の生まれ変わりでなければ、晴明はここに現れることはなかっただろう。

『成明』
「え?」
『別にお前のせいで生まれ変わらぬのではないぞ。お前のために遅れたなら、もっと文句をつけてやるさ』
「なんだよ、文句って」
『まったく、この子孫は誰に似たのか上達が遅くて遅くて…』

 そんなことを言いながら泣きまねをする。人型を持たない晴明に涙が流れるわけもないのだが。
晴明がそんなことをしているのを見て成明は怒り出し、梨花はまた微笑んでいた。

『……成明殿、私や晴明様のゆくさきのことなどご案じ召されなくても良いのです。この世は生きているあなた方の世界。私たちは時がくれば、なるようになりますから。それよりも……今、これからをお考えになってください。私も私の子孫を早く失うというのはいやですから…晴明様─主さま、成明殿を、守ってくださいませね』
『まぁ、仕方ないだろうよ』
「お前ってそういうヤツだよな、晴明…」

 恨めしそうに成明が晴明を睨めつける。ふふん、と晴明は憎たらしく笑う。そしてそのひと時を、梨花は楽しんでいた。本来ならば、関わることのない自分の生のずっと先の出来事。そして、このひと時もほんのわずかなものであることは、3人のうち誰もがわかっていた。





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