その身に宿すもの 穏やかなときは、それほど長いものではない。それは3人ともがわかっている。けれど、それは離れ難いものであり、幸福なひと時であった。他愛ない会話、緩やかな時の流れ。それは本来ならば晴明にも梨花にも、すでに訪れないもの。それを出来るのは生者の特権である。だからすでに生を終えているはずの晴明と梨花にはないはずのものだった。 神のいたずらか、それとも運命のいたずらか。いずれにしても正当に起こり得ることではないもの。それでもこのひと時は、彼らにとって有意義なものである。 『梨花、それで…お前を使いに出したのは何ものぞ』 『それは……申し訳ございませぬ、晴明さまといえども、口にはできませぬ』 梨花は申し訳なさそうに晴明に首を垂れた。"使い"というからにはそれをやれと命じたものがいるはず。なぜこのような危険なことを梨花にやらせたのか。おそらくは…安倍家に関わるものであるからだと、晴明は踏んでいる。晴明自身もまた成明の祖だからこそ泰山父君の命があったのだから。 『安倍家一族でなんとしても片をつけよと、そういうことか』 「は?!なんでだよ、これ、安倍家のせいなのか?」 『まぁ、まったく原因が無いとは言えぬだろうな』 「…何したんだよ、晴明」 『ふん、宮廷陰陽師のやることなぞ決まったことばかりさ』 平安時代。 陰陽寮というものがあり、そこで勤める陰陽師を宮廷陰陽師と言う。そしてその宮廷陰陽師といって有名なのが、このふよふよ浮いている安倍晴明の一族、そして秋陽についている賀茂一族。かつてはその家同士も争ったことがある。権力の、ために。 『まぁ、おれはそういうものとは無縁だったがな』 「無縁?ちゃんと働かなかったってことか?」 『……お前な』 「違うのか?どういう意味?」 『決められた勤めもそれなりにはしたがな。それだけでは食っていけぬよ』 晩年でこそ晴明の官位は上がっていたものの、相当な年まで陰陽師としての役職は下っ端の方だった。晴明が主に得ていた俸給は陰陽寮のそれではない。別口のものが大体のものだった。 別口。つまりは貴族の人にはあまり言えない汚い部分の仕事や、それから守る仕事を請け負っていた。陰陽師とは普通には無い力を駆使する。人を呪うこと、その呪いから遠ざけること、それにあわせて鬼と戦うことも含まれる。それはその人物が狙われたり、誰かを呪おうとしたり。晴明の陰陽師の力はそういった面でも稀代のものだった。そしてその力を、貴族たちは欲し、利用してきたのだ。 『まぁ、お前にはわからぬだろうがな』 「よくわかんねぇ。でも別にどーでもいいっちゃどうでもいい」 『お前が聞いたのだろうが』 「んー、聞くだけ無駄だった」 まったくこの子孫は、と晴明は軽くため息をつく。そして梨花はそれを見て微笑んでいた。本来ありえないはずの邂逅。それが晴明と梨花にとって、幸福なものであったことは成明からも見て取れた。 『…晴明様、成明殿』 『……ああ』 「え?」 きょとん、成明が目を丸くしたが、晴明は何も言わず頷き、梨花にわずかに微笑んでいた。梨花は梨花でかすかに微笑を浮かべ、晴明と目を合わせている。ほんのりと微笑んだその笑顔は穏やかなものであり、成明はわずかに頬を染めた。 『成明どの、これから現れるもの…それはあなた様に害を成すものです。姿が私だとしても、それは私ではござりませぬ。どうか、晴明さまとともにそれを祓ってください。私はそれを持ったまま、晴明様を待つことは出来ませぬ。晴明様をずっと待つためにも…どうか、この一度朽ちている私の身を清めてくださいまし…』 そう告げて、梨花は瞳を閉じた。 あたりに静寂が訪れる。成明は目を見開いて晴明を見上げた。晴明は何も言わず、何も答えず…ただ、瞳を閉じた梨花を見ていた。 そしてそこに─白いものが、落ちてくる。 ふわり、ふわり。 その白いものは舞うように、地に下りてくる。 そしてそれは、そこに横たわる梨花の体に優しく落ちていった。 『成明、下がれ』 「え?」 『……梨花が、目覚める』 「……どういう意味だ?」 『梨花の中にいたものが、目覚める』 晴明の目は、キリ、とつっていた。先ほどまでも穏やかな瞳とはうって変わった、強い瞳。梨花の体をじっと見つめているその瞳は、梨花を見つめる瞳ではなく、怨霊と対峙するときの、冷たく、強い瞳だった。そして、成明は息を呑む。そこに現れる、梨花が現れる前のその"者"を少しだけ思い出す。晴明が欲しいと言った、その言葉を思い出す。 一度戻った梨花の様相が、また変わっていく。 目をぎょろりと開き、口が大きく裂けていく。その変化していく様を成明は見ていた。そして、怖気だった。強い瘴気が、梨花の体がらおきているのがわかる。目に見えるほどに。 『成明、結界は…持つか』 「…わかんねぇ。でも、これ崩れたら俺がイカレそう…」 強い瘴気、感度の高い成明。常人でも何かを感じそうなほど強い瘴気が感度の高い成明に降りかかったなら、狂ってしまう可能性もある。それはごめんだ、と成明は必死で結界を保つようにしていた。 晴明が梨花を睨みつける。いや、梨花の形をした、その"もの"を。 「…私の邪魔をするなどと…小賢しい」 忌々しげにつぶやいたその梨花の形をしたものは、眉をしかめて立ち上がった。その様相は梨花とはまったく違うものに変わっていたし、声もまた別人のようになっていた。梨花の中にいたその"もの"が何かはまだわかっていない。けれどそれがよくないものであることは明白だった。 「晴明さま」 にぃ、とそれは笑って、唇の端を上げる。裂かれたような唇は真っ赤に染まり、鳥肌が立つのは致し方ないものだろう。あれほど穏やかに、たおやかに微笑んでいた人物とおよそ同じ体を持っているものとは思えなかった。 かえって、それが晴明や成明にとってはありがたい。 「さあ、晴明さま、わたくしと一緒に行きましょう」 本人はにこりと笑っているつもりなのかもしれない。けれどそれは成明たちにとってはおぞましいだけの光景だった。特に、晴明にとっては。 『そなたは何者ぞ』 「晴明さま、わたくしをお忘れになられたのですか?」 『異形の知り合いはそれほど多くは無いな』 「まあ、お戯れを」 くすくすと笑っている。けれどその身の回りに立ち上がる瘴気は半端なものではない。成明はぐ、と手に力をこめる。浮遊している晴明はその結界の内側からじろりと異形を見つめた。ひどく気分を害している、そんな様子に気づいた成明は真剣な目でその異形を見つめる。 稀代の陰陽師、安倍晴明が愛した唯一の人。 その人の姿を奪った怨霊。 晴明が怒らないわけもない。 「わたくしは晴明さまと一緒にいたいだけ…そう申しませんでしたか?」 『お前はそう言ったようだが、梨花にはそう言われておらぬのでな』 「まあ、何をおっしゃいますのやら…」 晴明の冷たい視線に身じろぎもせず、"それ"は続ける。自分が梨花だと。梨花の本当の心だと。晴明の知る梨花は心を隠しているのだと、そう言い放った。 そしてそれと同時に、晴明の目つきはさらに険しくなる。 『成明』 「え?」 『結界を解け』 「え?何言ってんだよ、そんなの無理に…」 『いつまでもこのままでいても仕方あるまい。一刻も早くこの異形を追い出さねばならぬ。お前もそうだが、和成の方も持たぬ』 「でも…!」 『借りるぞ』 ぽつりとそうつぶやいた晴明が視界から消えた。 これまで、晴明が成明の視界から消えたことはない。かつては成明の視界に映らないことはあったが、それは成明の力が弱かったからだ。それと、晴明による隠行ゆえに見えなかった。それでも気配は感じ取れたし、晴明がこの辺りにいる、というおぼろげだが実感があった。 けれど今回はわけが違う。成明の視界に晴明はいない。成明の結界内に晴明がいる実感もない。成明が瞬きをしたのと同時に、成明は結界を解いた。 「わたくしを信じてくださったのですか、晴明様?さあ、ともに参りましょう、お姿をお見せくださいませ…」 「おれがわからぬのではやはりお前が梨花を名乗るのは無理だな」 成明がじろりと異形を睨みつける。成明の姿から発せられる声は成明のもの。だがその口からこぼれる言葉は、成明のものとは違った。 「確かお前は先ほど邪魔をするなど小賢しいと言ったな」 「な……成明殿?」 「その薄ら寒い言葉はどうにかすることだ。お前のその異形の姿でたおやかな振りをしても無駄なことよ」 「何を……」 「もうひとつ教えてやろう。この晴明の邪魔をするなど小賢しい。おとなしく消えるなら良し、向かってくるなら相手になってやるぞ?」 にやりと笑ったその容貌は成明のもの。けれど成明は言わなかったか。『この晴明』 と。 その言葉に異形は顔をゆがめ、一歩足を引く。成明から発せられる霊力が格段に上がった。それには気づいたのか、異形は小さな叫びを上げる。 「さすがは我が血を色濃く継いだものだな、成明よ」 晴明自身も驚くほどの霊力。秘められた力はまだ十分に発揮されていない。それが晴明にはわかる。もともと成明の持つ力はこんなものではないとわかっていたが、いま身をもって感じられた。 「異形のものよ、おれは身内でも容赦しないたちでな。それでいて小賢しい輩は大の苦手だ。手加減は出来ぬから覚悟しておけよ」 成明の顔で、晴明特有の笑み。冷ややかなその目つきと微笑みは以前人型に入った晴明のもつものと相似していた。それもまた、成明が晴明の血縁だからだろうか。それとも、成明に移り住んだ晴明の力がそれほどすさまじいということか。それは誰にもわからなかった。 「参るぞ」 ひとこと、小さくそう言ってから晴明は右手の人差し指と中指を唇に添えた。 |