影の存在 そっと口元に指を寄せる。唇から零れてくるのは普通の言葉ではない。その言葉がわかるのは今ではほぼいないだろう。成明にもわかるかどうか。けれどその言葉は成明の唇からすらすらと零れ落ちる。 瞳はじっと見下すように梨花を見ている。─否、梨花の姿を借りた"もの"を見ている。身内とて容赦はしない、と彼は言った。その言葉は、今まさに実行に移されようとしている。成明の穏やかな瞳は剣呑さを帯びて冷ややかな空気を纏っている。不機嫌な成明でもこうはならないだろうというほどに冷たい瞳をしていた。 「成明どの…?!」 瞳を見開いた梨花が成明を見上げている。驚愕に満ちたその表情は、梨花の姿を借りていても、梨花の様相とは明らかに異なる。赤く引き裂けた唇、そしてぎょろりと開いた瞳。成明の様子が変わって瞳を見開いているものの、その引き裂かれた唇は笑みさえも浮かべている。 おぞましいと感じるのが普通だろう。その梨花の姿は。 けれど、彼にとっては少し違う。もちろん、おぞましいのはおぞましいだろう。けれどその真実は、その姿でも、その言葉でもない。 「異形のものよ、お前のいる場所はそこではあるまい?」 にっこりと微笑んだ。微笑んだ、はずなのだが。その異形は一歩足を引いた。 「……晴明…!」 「梨花は晴明とは呼ばぬなぁ」 にんまりと笑う晴明の姿は、これでもかというほど冷酷だ。強い力が体からにじみ出ている。それに気圧されるように異形は足を引く。引きずるようにして一歩ずつ足を引く。そしてその遠ざかった分を晴明が近づく。いや、遠ざかった分よりも、より近くへ。 成明の姿が近づくにつれ、異形の釣りあがった唇は下がっていく。そして瞳は大きく見開かれる。それにかまうことなくより近くに近づく。 「…おのれ……!」 うめくように低い声が梨花の姿から零れ落ちた。そしてにぃ、と唇の端を持ち上げる。すぅ、と異形が手のひらを空に向ける。 「下がれ、晴明。この手を下ろせば雷がこの地を駆くるぞ」 「ほう、そんなことが出来るのか。なかなか器用なものだな、どれ、やって見せてくれ」 「なに…?!」 「地に雷が駆ける様などそう見れるものではないだろう?面白そうではないか」 「何を…!」 成明の冷たい視線は変わることはない。いや、もはやそれは成明のものではなくなっている。晴明の使う力が大きいのか、容貌までもが変わって見える。そこにいるのは安倍晴明、その人ではないのか。 「ほれ、やらぬのか?」 「おのれ……!この私を見下すとは…!」 「この私と言われても、俺はお前なぞ知らぬ。見下されたくなかったら雷でも呼んで見せよ」 「出来ぬと思うてか!目にもの見せてやろうぞ!!」 バカにされた、と思っているのだろう。それもまた仕方ない。晴明は薄く唇を上げて微笑んでいる。口から出てくる言葉は明らかに見下しているし、それを良しとしていられる怨霊でもないのだろう。じろりと晴明を睨みつけて、にぃ、と笑う。 「後悔するが良い、安倍晴明!子孫もろとも消し去ってくれる!」 その叫びとともに手が下ろされる。空には重い雲が立ち込め始める…はずだった。 「何をしたのだ?」 にやりと唇の端をあげたまま、晴明は異形を見る。その異形は驚いた顔をして空を見上げる。なぜだ、と声を上げるが、それもまた晴明は笑って見ていた。さも当然とでも言うかのように。それをぎっと異形は睨みつける。 「中身が違うとこうまで風貌が変わるかよ」 「それをお前が言うか、安倍晴明!」 「まあ、今の成明もそうだろうなぁ。まあ、少しは良い男になるだろうよ」 へら、と晴明は笑う。そして一歩、異形に近づいた。 「それで、雷は降りぬのか?」 「……くっ」 「では、おれが先にやってやろう」 何を、と異形が言うのと同時に、晴明はすっとそこにしゃがみこんだ。そして地に指を添える。 「雷、駆けませい!」 その言葉と同時にずず、と何かが地を引きずる音がする。晴明はにやりと笑って、異形を見上げた。異形は目を瞠って晴明をじっと見ていた。そして、次の瞬間。 ずん、と音が鳴るのと同時に、異形が立っていたその場所に亀裂が走る。地がめり、と裂けて異形の足元を襲う。 「こんなものか」 「な……!」 「それにしても、お前は梨花の体があればこの晴明が簡単に騙せるとでも思うたのか?」 晴明の表情から笑顔が消えることはない。消えることはないが、冷ややかな雰囲気は変わらない。それに異形が怯えはじめている。 「すまぬな、いつもなら普通に成明に調伏させるのだが…今回ばかりはこの晴明の手でやらねば気が済まぬ」 「く…!まさか、晴明が子孫に依りつくとは…!」 「依りついたおかげで調伏もし易くなったぞ?」 異形の足元の亀裂はわずかにだが広がり続けている。まだいくらか地の揺れがあるようだ。先ほどの地割れで起きた砂埃であたりはもうもうと曇っている。そのため、異形には晴明の表情があまり見えない。言葉でこそにっこりと微笑んではいるように聞こえるが、実のところは晴明の顔がすぅ、と真剣な瞳に変わっていっていた。 「まぁ、せっかくだ。おぬしの名を聞いてやろう」 「お前なぞに言う名など持ち合わせておらぬわ!」 「そうか。ならばお前をここに連れてきたものの名を教えてもらおうか」 「何を…!」 「お前程度ではこうして晴明に歯向かってこようなどとは思うまいよ」 くすり、と晴明が笑う。それが異形の逆鱗に触れる。ざぁ、と砂埃が高く上がる。妖気、とでも言うのか、禍々しい気があたりに立ち込める。 「ほぅ、なかなかやるではないか。だが、いつまでもその姿でいられるのは気に入らぬな」 「この体を穢されたくなくば、この私について来い、安倍晴明。悪いようにはせぬ」 「まっぴらごめんだ。人に使われるのは我慢ならぬ性質でな」 一寸足りとも悩むまもなく、晴明は応える。そして異形はぎり、と睨みつけてきた。もちろん、晴明はなんともなしにその視線を流している。 「さて、名も言わぬ、後ろ盾も言わぬならいつまでもそうしていても仕方あるまい。消えてもらうぞ」 「………!」 異形は手を振りかぶり、何かをしようとした。唇からは小さな呪言が唱えられているだろうことは晴明も見て取れる。だが。 「遅い」 そう言った時には、異形は姿を変えていた。梨花の体は崩れ落ち、地に伏せる。そしてその体からはどす黒いものが人の形を取ろうとしていた。少しずつ形成していくその"もの"。けれどそれが形になるのを待つこともなく、晴明は呪を唱えた。 「我が妻、我が子孫に手出しは無用。失せよ、異形」 掲げられた晴明の指先から眩い光が発せられる。そしてその光に包まれた異形はうめき声を上げる。夜だというのにあたりは煌々と照らされ、昼間よりも明るい。その光の中で、晴明は瞬きもせず、異形のいた場所を見つめている。 『北……さま……!』 晴明は目を瞠る。その異形の発した言葉に。"北"と言った。北と言うとなんだ、と。北斗、天子、妻…そんなことを思い浮かべる。だがそれが誰なのか、そこまではわからなかった。 異形がいたその場所はすでに地が裂けた跡だけが残っている。異形の放った瘴気は少しずつ消え始めていた。地に横たわった梨花の体。異形によって裂かれた唇は元に戻り、それは晴明のよく知る表情に戻っていた。 「…さて、そろそろお前も戻らねばな」 そっとその手で梨花に触れる。まるでそこに存在するかのように感じられるが、それは実体では在り得ないもの。それは晴明が良くわかっていた。 すでに梨花はここに存在するはずがないもの。それは己であっても同様なのだが、それはそれ。懐かしいその人に触れた晴明の表情は、穏やかなものだった。 かすかに微笑んで梨花の頬に触れる。そしてそこから淡い光が放たれる。さらさらと、その姿は消えていく。実体をなくしていく。 「お前も、共にいられたら良いのだがな…。いや、毎日悲鳴を上げてしまうか」 異形の姿を怖いと怯える梨花。良くぞあの異形を抑えてくれた、と晴明は感嘆していた。あれは子が好きだった。きっと成明のことも気になるのだろう。そしてそのおおらかなぬくもりが、晴明を暖かくしてくれるのだ。 「またそのうち…な」 きらきらと姿が消えていく。そして梨花の姿は昇華し、何もなくなる。そして晴明は瞳を閉じる。少しだけ、その梨花の姿を思い出して。 「さて、成明に返さねばな。さすがに本当の体は違う、式のときより楽に動ける」 そう言って晴明は口元に指を寄せる。瞳を閉じて、呪を唱える。すぅ、と辺りを包んでいた結界を消し、もとあった状態となんら変わらない様子に戻した。 かくん、と体を揺らし、ひざをつく。それと同時に、晴明は空に姿をあらわし、成明は目を開く。 「晴明っ!!何しやがったっっ!!」 『少し体を借りただけだ。傷もつけておらぬのだから文句はないだろう?』 「体を借りたって…俺に取り憑いたのか?!」 『取り憑くとは聞こえが悪い。お前を守ったのだろうが』 あの異形は晴明の結界内に捕らえられ、その中に存在していたゆえに雷を呼ぶことが出来なかったのだ。幻の中で神を呼ぶなど出来るわけがない。…と成明に説明をしようとしたが、晴明はやめた。 成明は体をとられたことで喧々と空に向かって叫んでいる。晴明はそれをさらりと流しつつ、成明の相手をしていた。守られた子孫が、ここにいる。 「で、あいつはなんだったのかわかったのか」 『さあな』 「は?」 『まあ、後ろ盾が何かいるとは思われるが…あれは使い走りに過ぎぬ』 「で、その後ろ盾は誰だよ?」 『知らぬ』 聞き出す前に倒してしまった。 まあ、あのまま待っていても言うまいと晴明は踏んだのだが、聞き出さなかったことで成明はまた騒々しく怒り出す。そこまで言うなら成明が考えろというものだが、晴明はそれも言わなかった。成明が騒ぐのには理由がある。自分が狙われたこと、他人を引きずりこまれる可能性もあること、それも頭にはあるのだが、すでにここに梨花の姿がないことに気づいているからだった。晴明が梨花という人をどれほど大切にしてきたのか、それを垣間見た成明は、その姿がないことにより異形を浄化するとともに消えてしまったのだろうと思っていた。 『成明よ』 「なんだよ?」 『意外と殊勝なやつだなぁ』 「はぁ?!」 『さて、そろそろ帰るか』 「あ、ああ?」 『お前はそれを祓ってから来いよ』 す、と晴明が手を伸ばした先には小さな黒い影があった。異形ではない、いつも成明に向かってくる小さな怨霊のひとつである。 「なにも今現れることないだろーがっ!って晴明っっ!逃げんなーーーーっっっ!!」 異形のものが何なのか、それはわからなかった。けれど晴明は大切なものをふたつ守った。それだけで、十分だった。 異形の後ろにつくものが何者なのか、それはいまだ混迷している。消えていくときに言った『北』とは何なのか。答えはまだ闇の中にあり、何一つとしてわかってはいない。それでも、あの異形の後ろに影があること、つまり何か大きな影の力があることだけはわかっていた。 それが何かわかるには、まだしばらく時間がかかりそうだった─── |