揺らぐもの 晴明の声が聞こえた方へ近づいていく。近づけば近づくほど声は近くなるはずなのに、聞こえてくるのは晴明の声ばかり。何故だか子供の声も聞こえているけれど、それは一向に近くなる気配はない。 成明は早足で森の奥へと向かっていく。晴明が飛び去った跡を辿るのは、そう難しいことでもない。 「晴明……って何だそれ?」 『やっと来たかよ』 「やっとってそんな経ってないだろーが。ちょっと秋陽に電話してただけ」 『ほう、それで何か言っていたか?』 さすがに晴明も、この状況で成明がただラブコールをしただけとは思わないし、余計な事を言っていられるほど余裕がないというのもわかっていた。森の中の暗闇は、より深くなっている。晴明の正面にある、大木がその根源となって。 森の中には無数と思われるほどに木々がひしめき合っている。それぞれの木の枝も絡み合うように空へと伸びていき、どの枝がどの木のものかもあやふやだ。それだけ木が多いこの場所で、その大木は他の追随を許さないかのように幹の太い、がっしりと地に根を張った大きな木だった。 一見すればただの大木。けれどその大木から淀んだ気が流れている。そしてその気の中心は、大木の幹だというのに何か埋め込まれているように見えた。 『これが元だろうな』 「元って……何の元だよ」 『この現象の、だ』 そこに子供の姿はない。あるのはただ、大木とそれに絡まるように生えている木々。他には何もない。誰もいない。 「子供は?」 『おらぬ。おれが来たときには誰もいなかった。成明にはまだ声が聞こえるか?』 「うん……さっきまでは早く、だったけど、今は助けて、って言ってる」 『これが何か、調べねばならんな』 透明の身体の晴明が、すう、と腕を伸ばす。 大木の幹につけられた傷。けれどそれ以外には何も無い。 だが、成明もそこに何かが埋め込まれているような感覚があった。 「……わかるか?」 『いや……何かがあるのはわかるが、それ以上はわからぬ。実体が無いからか……』 「オレが触ってみれば、何かわかるかな」 『声が聞こえたのは成明だけだからな、そのほうがわかるかも知れぬが……警戒しておけよ』 「わかってるって」 そうっと手を伸ばして、成明が大木の幹に触れる。それと同時に、鬱蒼とした森の中に、突然風が吹き抜け、木々の枝ががさがさと動き出した。 「……ここ、に…!」 『成明?』 幹から手を離して、成明はぐっとその手を握りしめた。幹をじっと睨むように見つめている。それを見た晴明は何も言わずじっと成明を見ていた。ちら、と幹を見たけれども、そこに変わった様子は何もない。ただ手を触れて変わったのは成明の様子だけだ。 『成明、どうした』 「子供が、いる」 『…………何?』 「この大木に……子供が、いる。この傷の、向こうに」 どういうことだ、と目を丸くして晴明が大木を振り返る。やはり大木は何も変わらない。ただ太い幹の真ん中に傷があるだけで、何の様相も変わっていない。 「子供が、この木にいるんだ」 『……縛されている、ということか』 こくりと成明は頷いた。 木に埋め込まれるように封じ込まれた子供がいる。この大木の人柱とでも言うのだろうか、それがこの大木には存在すると、成明は言った。今のご時世に考えることも出来ない、『人柱』という思想。それは遙か遠く平安の時代にならばあった思想である。 そして、この森──糺の森は、その当時から存在する森である。 「子供の声が、聞こえた。助けて、って。それは今の子供か、その当時の子供か良くわからないけど……なんか、映像が頭の中に流れてきた。小さな子供が、木に縛り付けられて泣いてた。泣きながら、助けて、って……」 『おに、というのは?』 ふるふる、と成明は首を振った。そこまではわからなかったらしい。 成明も晴明も険しい表情をしている。眉間に皺を寄せて、不快な顔をしていた。 「とにかく、この大木の人柱の子供を出してやらないと」 『待て、人柱になっている子供の霊を取り除くと、この大木が倒れるかもしれぬ』 「そうかもしれないけど……でも」 『代わりの柱を用意せねばならぬだろう。人柱を用意するほどなのだから、何かいわくがあるのやもしれぬ』 晴明は大木を撫でた。晴明が触れても、その大木にいるという子供の思念は伝わっては来ない。晴明がどれほど手を出したとしても、その子供のことはわからないのだ。 「何のいわくがあったんだろう……」 つと成明が大木に触れる。 晴明が撫でるのと同じように、成明もまた大木を撫でた。 『…………たすけて』 突然聞こえた声に、成明と晴明は目を見開いた。 それはそれまで成明の耳にしか入っていなかった声だったが、今度は晴明にも聞こえたのだろう。晴明も目を見開いて成明を顔をあわせた。 驚いた拍子に成明が手を引くと、晴明にはその声は聞こえなかった。 『成明、木に触れろ』 「え?」 『お前が触れたとたん、声が聞こえた。手を出せ』 晴明に言われて、成明はまたそっと大木に触れた。そしてまた、声が聞こえる。助けて、と。 晴明と成明が二人で触れていると、その言葉は音となって聞こえてくるようになった。先ほどまでは成明の脳裏にしか聞こえなかった言葉、頭の中に響いているようにしか聞こえなかったその声が、今は音声として聞こえてくるのだ。 『たすけて……誰か……たすけて…………怖い……鬼が……来るよぉ……』 泣きじゃくるような子供の声は、音となって辺りに響く。暗い森の中で、その声だけが響いているような感覚だった。 成明は手を触れた状態で木に耳を傾ける。晴明はその様子を見ていた。 『成明、お前話しかけてみろ。話せるかもしれぬ』 「あ、ああ……えっと……君は、誰?」 『たすけて……たすけて……』 子供は助けて、という言葉だけを連発する。その言葉の意味がわからず、成明も晴明も首を傾げていた。けれどやはり子供はそれだけを連呼する。まるで、それ以外の言葉を知らないかのようにも見え、それでも辛抱強く成明は声を掛ける。 「君は、誰?どうして泣いてるんだ?」 『たすけて……はずして……鬼が……』 「鬼って、どこにいるんだ? 鬼がなにをするんだ」 『怖いよ……怖いよ……』 子供は泣きながら訴えるばかりで、成明の声には答えない。 どうにも出来ずに成明が晴明を見ると、晴明は険しい表情をしていた。 『……何も視えぬな……』 子供の声の波長に合わせて、その背景を見ようと試みたが、それは映し出されることはなかったようだ。晴明が知る時代なのか、それとも今の時代なのか、それさえもわからない。子供の声以外には何一つとしてわからないのだ。 それでも、子供は泣き続ける。 助けて、助けて、と。 『成明には何か視えるか』 「視えたのは……夜の闇と、ここに子供が縛り付けられてたのだけだ。それ以外はわからない」 『……そうか』 「式を代用はできないか?」 とりあえず式を埋め込み、それで木を支えてその間に子供を助け出す。成明が案をだしたが、晴明は横に首を振った。それではだめだ、と。 『式では力が足りぬ。子供を木縛したというのなら、霊性の高いものでこの木を支えていることになる。式を配して支えるとしたら、お前の霊力が根こそぎ持っていかれるぞ』 今ここで成明が動けなくなったり霊力がなくなったりするのは困る。成明が居なければこの子供の声すらも聞こえなくなってしまうのだ。だからそれは得策とは言えなかった。 思案顔をした晴明は、はっと顔を上げてつぃ、と空に飛び上がった。 「おい、晴明?」 『少し待っておれ』 「え?!」 成明が問うまもなく、晴明はすう、と空を駈けてどこかへと姿を消してしまった。もちろん、成明にはその晴明がどこに向かって飛んでいったのか、気配は辿れるけれども、どこへ行こうとしているのかまではわからなかった。 子供に声を掛け続けるものの、子供からは何も言って来ない。 やはり成明の声が聞こえないのかもしれなかった。相手はすでに霊だし、成明は生身の人間である。だからこそ通じないのかもしれないけれども、成明に聞こえてくる声は変わらず響いていた。 手を大木に触れさせたまま、成明はずっとそうして子供に話しかけている。晴明が戻ってくるのを待ちながら、だ。 『成明!』 つい、と空を駈けて晴明が戻ってくる。すぅ、と降りてきた晴明は何も手にしてはいない。一体どこに何をしに行っていたのか不思議に思った成明は首を傾げた。 『いま来る』 「何がだ?」 『媒体だ』 そう晴明が言ってから待つこと五分。人が両手で石を抱えて持ってきた。 「何だぁ?」 『式だ。あの石を運ばせたのだ』 「石?」 首を傾げて成明が聞くが、晴明はただ頷いただけだった。 その人型が抱えて持ってきた石は、直径三十センチ程度ある、それなりの重みのある石だ。人型はそれを大木の根元に置くと、すぅ、と姿を消した。 『代用品だ。この子供に縁のあるものを埋めねばたいして持たぬとは思うが……下鴨の神社にあった石だ、それなりの霊性を蓄えておる』 意思のない“もの”であったとしても、力のある場所に長く置かれていたものであればそれに霊性は宿る。ましてここは神社で、人の願いや思いが留まるところ。石が持つ力はそこらの小石とはワケが違う。 晴明に言われるままに、成明はその石に呪をかけた。立てた右手の人差し指と中指でそっと石を撫で付ける。すると、石はすぅ、と土中に消えていった。 そして消えると同時に、大木からはがれるように光がこぼれ落ちた。大木からはがれ落ちた光は、ひとの形をとっている。しかも小さな子供のような姿を。次第にそれは形を濃くし、完全に子供の形となり、容貌までも映し出した。 『……あ、れ?』 「大丈夫か?」 『……おにいちゃん、だれ……?』 きょとん、と目を丸くした子供。そしてその子供を見て成明は目を見開いた。 ──この、子供は。 その子供の声は、成明が木から聞いていたあの子供の声と同じものだった。身体が透きとおっているのは、すでに命のないものだからだろう。 「君は、誰?」 『僕は……清汰』 清汰、と名乗った子供は、きょとんと目を丸くしたまま、辺りを見回していた。木縛から放たれた子供は、本当にあどけない子供であったけれども──“人”ではなかった。 |