遠く離れた時間 清汰、と名乗った子供は、見たところ七、八歳くらいだろうか。大きな瞳をきょろきょろとさせてはいるが、涙がぼろぼろと零れている。 成明が木に触れて見たのは、清汰の記憶と、その木が見た記憶だと思われた。 泣き叫ぶ子供、泣きながら子供の腕を引く大人、清汰、と泣きながら叫ぶ女性、それをとどめる男。恐らくその女性は清汰の母だったのだろう。清汰が人柱に選ばれた理由も分からず、いや、わかったとしても母は嘆き悲しむだろうが、自分の愛する子供を奪われ、ただひたすら子供を取り返そうともがいていた。 その記憶をかいま見た成明は苦痛の表情を浮かべている。 無理もない、成明はそんな世界は知らない。そんな現実は知らないのだから。 『成明』 「あ……悪い」 晴明に呼ばれ、はっと我に返った成明は眉間に皺を寄せて空に浮いている晴明を見上げた。 蒼白している成明を見て、晴明は成明の怒りを受け取った。優しさゆえの怒り。晴明の時代には少なくはない『人柱』 の思想。もちろん、すべてのモノに対してそういった処置をしていたわけではない。ただ、その場所やそのモノになんらかのいわくがあれば、そうされていたこともあるということ。 成明にはありえない思想が、その時代にはありうる思想であったのだ。 「……晴明、お前もやったこと、ある?」 『あるわけがないだろう。この晴明がいれば、それに代用するものぐらい用意するさ』 「……だよな」 ほっとしたような顔をして成明が頷く。もしも、晴明がそれをしたことがあると言ったならば、この子はどう思うのだろうか。ふと晴明は考えたけれども、無意味な痛みを成明に与える必要はない。とくに、今は。 成明は子供に向き直り、しゃがみこむ。視線の高さを合わせた成明が子供の顔を覗き込んだ。 「清汰って言ったよね。いくつだ?」 『ろくさいだよ。ねえ、お兄ちゃんが僕を出してくれたの?』 「あ、うん……出したっていうか」 『ありがとう、お兄ちゃん!』 成明が出したのは事実である。が、そうも素直に喜ばれるとどう応えたらいいモノやら。困った顔をして成明は晴明を見上げた。けれど晴明はそ知らぬ顔をしている。成明が子供にどう対応するのかを楽しんでいるのだろう。 『お母さんは? お母さん、ここにいないの?』 「うん……いないんだ。俺が清汰を見つけたのも偶然だから」 『…………』 「清汰、教えてくれないか? どうして君はここにいたんだ?」 どうして。 実際、清汰は良くわからないのではないだろうか、と成明は思っていた。清汰は六歳。その年のことを考えると、良くわからないままつれてこられて、ここに留まらされたと考えるのが当然だろう。こんな子供に『人柱になれ』 などと言う人間がいたらたまらない。 成明はじっと清汰を見つめていた。清汰は透き通った黒い瞳で成明をじっと見る。 『ぼく……ぼくの村は、すごく小さな村なの。お父さんがいなくなって、お母さんがずっと一緒にいてくれたの。でもね、えらい人がおうちに来てね、ぼくを連れて行ったの』 「どうして連れて行かれたんだ?」 『よく……わかんない。でも、お母さんがごめんなさいってえらい人に言ってた』 しくしくと清汰が泣きながら言う。 何の理由があって、子供を人柱などにしたのか。母親が謝っていたというのだから、きっとそれは母親が認めずにそうなってしまったということだろう。成明が理解するのは難しいことを、晴明はずっと考えていた。 『人柱』という思想事態は時代によっては珍しいものではない。 晴明自身も、その当時人柱とされようとしていた人を助けたことがあるし、人柱になっていた者を──遺体ではあったが──助けたこともある。数は多くはない。それでも、なかったわけではない。 他人を犠牲にして、自分が生きる──それは人として当たり前の発想。決して間違っていないが、それを正しいとは誰も言えない。誰もが、自然にそうしているのだから。ある人のためと言いながら、ある人を傷つける、それはなんと自然なことだろうか。人は、そういう生き物なのだ。 そしてそれを責めることは、誰にも出来ない。 「君はここで、何かしたの?」 『何もしてないよ。でも、誰かがいなくちゃ、倒れちゃうんだって。おっきな木が倒れちゃうから、そこにいるんだって言われたよ。でも怖かったから、ぼく、森から出ようとしたんだ』 「……出ようと? どうやって?」 言い聞かせても子供がこんなところに一人でいられるはずがない。清汰の言う『偉い人』 もそれぐらいはわかっているはずだ。だから子供を木縛したのではないのだろうか。そう成明が考えていると、晴明ははっと目を見開いた。 『まさか……』 「何? なんか思い当たることあるのか」 『そうとは言いきれんが……清汰と言ったな。そなた、私の声が聞こえるか』 『聞こえるよ』 『ひとつ聞きたい。そなた、この森へは毎日来ていたか?』 『うん、来てたよ。いつもいっしょにあそんでくれるおねえちゃんがいてね、ぼく毎日来るって約束してたから』 晴明は眉間に皺を寄せる。 いやもちろん透き通っているのでそういうように見えるだけではあるけれども。 成明は首を傾げて晴明を見上げた。何も言わずにいるけれども、何か思い当たることがあるのだろうことはわかった。 「晴明、どうした?」 『……清汰は、ただの子ではないようだな』 「は?」 『ただ人柱にされたのではない。まさしく贄だ。所望されたのだ』 「なんだそれ、どういうこと?」 くぐもった表情で、晴明が言葉を飲み込んだ。それ以上の言葉を、清汰の前で言うのはどうかと思えたのだ。例えすでに命ないとは言えども、もし晴明の言葉が理解できたなら、ひどく残酷なことかもしれなかった。 『清汰、一日だけ我慢できるか。そなたをどうするか、助けるにしてもどうすれば良いか調べねばならぬ』 『……ぼく、どうすればいいの?』 『このままここに居れば良い。式を一人置いてゆこう。そなたの相手をしてくれる』 『……うん』 清汰の沈んだ声が、寂しさを物語っていた。けれど、成明が口を挟まないように気を付け、晴明は清汰に納得させた。ぽかん、とした表情で成明は二人のやりとりを見ていたけれど、はっとして晴明に声をかけた。 「ちょ、晴明、どうするつもりだ?」 『あとで説明してやる。今は待て』 「いや、待てって言われても清汰、置いてくつもりなのか?」 『そうだ。一度戻るぞ』 「ええっ!」 『式を用意してやれ。そうだな、天后が良い』 目を丸くした成明の言葉もろくに聞かず、晴明は早口でそれを言った。 神将の天后を置いていくのは確かに良い選択だろう。かの神将は見た目も優しいし、子供好きだ。まかり間違っても危険にさらすことはないだろう。だが問題はそこではなく。 「置いてってどうするつもりだよ!」 『言っただろう、先ほど置いた石は一時的な代用品だ。もし清汰を解放するにしても、代わりの贄を用意せねばならん。今はここに清汰もいるから何とか保ってはいるが、清汰までいなくなったらあの石だけでは持たぬ』 「でも……っ!」 『おにいちゃん、ぼく、大丈夫だよ。前は毎日ここに来ていたんだもん』 にっこりと清汰が笑った。成明が助けようとしてくれていることが清汰にもわかるのだろう。それをわかっている上で、大丈夫だと清汰が笑う。成明は唇を噛んだ。 晴明は静かな目をしている。 清汰が幼い子供であろうとなんだろうと、これは穏やかに済ませられる問題ではないかもしれない──清汰の透明な姿を見て、晴明は眉根を寄せた。 『では清汰、明日また来る。ここでおとなしくしているのだぞ』 『うん』 『天后、頼んだぞ。誰にも渡すな。例え"姫神"であってもだ』 『承知』 「じゃあ……ごめんな、清汰。明日ちゃんと来るから……」 『うん。やくそくね、おにいちゃん』 「ああ」 にこりと笑って、晴明と成明はその場を後にした。 もうだいぶ時間が経っている。夕暮れだった空は、いつの間にか真っ暗になっていた。 「……晴明」 『まだだめだ。この神社を出るまで聞くな』 「何、それ?」 『…………』 本当にこの場では言うつもりがないのだろう。晴明は硬く口を閉ざして、成明の頭上を飛んでいた。 不穏な風が吹きぬける。 きっとそれは空を流れるだけの、普通の風なのだろう。けれど、清汰を見てしまった今、そして晴明が硬い表情をしているのを見て、成明には優しいいつもの風とは違うものに感じていた。 そして晴明はその間、ずっと考えている。 アレを助けることが良策かどうか──決めかねているのだ。 もちろん、成明は助けるに決まってるというだろうことはわかっている。だが、あの子供を助けることでこの地に何が起きるのか、それもまた見極めなければならないことである。 あの子供がなぜ木縛されたのか、成明はまだわかっていない。 成明に告げる前に、晴明が考えておかなければならない。この先に起こりうることを。 (──放っておけば自分が人柱になるとか言い出しかねん……) たとえ成明が望んでも、それだけは出来ない。可能・不可能で考えるなら、不可能なはずであり、それを除いたとしても、それだけは選択できない。 それは、血族の欲目ではなく、この血はかの地に与えてはならないのだ。 けれどそれを成明は知らない。己の中に流れる血が、どれほど怨霊に好まれていても、決してそれを理解しようとはしないのだから。 「清汰、大丈夫かな……」 ぽつりと成明が呟く。 晴明は背中ごしにその声を聞いたが、それにはあえて触れなかった。 優しさゆえに、人の姿をした怨霊を倒すことが出来るか、不安がっていた。今はその不安は取り除かれたのだろうということは成明を見ればわかる。わかるけれども、晴明はまだその不安を取り除かれていない。 成明は忘れている。 ──清汰は、子供の姿を残したまま、怨霊になっているのだということを。 |