2:なにもないまち? 休日開けの月曜日、ゆきはいつものように朝起きて、いつものように会社へと向かっていった。 普通の会社のOLのゆきは、当然ながらラッシュの時間は避けられない。よく駅にある看板で『ゆとり通勤を!』などと書いてあるが、それが出来る会社員はどれぐらいいるのだろう。 朝の出勤時刻は当然ながら決まっているし、できるとしたら早く会社に行くぐらいだ。けれど、それをするなら起床時刻を早めるしかない。そしてそんなことは出来るわけがない。ということで、結局は皆大差ない時間に通勤し、ラッシュアワーというのは変化がないのだ。 そして当然ながら、ゆきもいつもどおりの時間帯に電車に乗り、出勤した。出勤してまず口を開くのは『おはようございます』のひとことである。それは一般常識でもあるのだろうが、彼女はそれで口を開くことが数少ない。 それはなぜか? 挨拶しても、挨拶が返ってくることがめったに無いからだ。挨拶さえもろくに出来ない相手に、わざわざ挨拶するのもばからしい、それも仕方のない思考だろう。それでもするかしないかはその人次第である。そしてゆきは、挨拶をしないことを選んだ。それだけだ。 何の変哲もなく、仕事を進め、空き時間が出来ればぼんやりとし、仕事が入ればまた動きだす。それがゆきの普通の日常である。 「暁さん、ちょっとお願いしてもいい?」 「あ、はい」 めずらしくお呼びがかかった、と思いつつ、ゆきを呼んだ相手のところに行く。向かいのシマに座っている支倉は、この会社の社員である。実際、ゆきが仕事で直接関わるのは坂上なのだが、坂上はどうもゆきを苦手としているのか、仕事の話でさえろくにしたことがない。 まあ、当然ながら、ゆきは相手にもしていないのだが。 「暁さん、エクセル得意だよね?」 「得意ってわけじゃないですけど……なんですか?」 「このリストとこの承認書をね、照合したいんだけど……リストがなんか必要事項が足りなくて結構ぼろぼろなのね。だから、この承認書のリストファイルを作って欲しいんだ」 支倉とは、こういった臨時の仕事の時にしかあまり関わらないのだが、ルーティンワークでいつも気分を悪くしているゆきにとってはありがたいのだ。 ルーティンワークは坂上と同じような仕事をしているのだが、何か行き詰って聞いてもろくに返事を返してくれないし、ゆきの必要としている書類を坂上が抱え込んで出してくれなかったり……とはっきりいって迷惑極まりないことが多々ある。 ただでさえ、勤務時間中はべらべらと同僚と話をしている。彼女が仕事を始めるのは定時過ぎ、つまり残業時間帯にならないと仕事を始めないのだ。上司も注意しないのだから、手に負えない。 だから坂上と関わらずに済む仕事を与えてくれる支倉という存在は、ゆきの仕事にとってはありがたい存在なのだ。まあ、当然ながら、そういった話以外では話をしたこともないのだけれども。 「じゃ、やってみますね。いつまでですか?」 「そんな急がないからいつでもいいよ。結構あるし……何千枚だろ、これ」 「あー……じゃ、適当に」 「うん、適当にお願い」 ゆきは資料を手に、自分の席に戻る。これでしばらく仕事が詰まる。ありがたいことだ。どうせヒマでやることがなかったからちょうど良い。 急ぎの仕事というわけではないので、適当なところで仕事を切り上げ、定時少し過ぎてゆきは会社を出た。のんびりと仕事が出来るというのは環境として良いのかもしれないが、仕事がないというのは存外ストレスがたまるものだ。はあ、とかるくため息をつきながら、ゆきは帰路についた。 会社から駅までは徒歩15分程度。派遣の申し込み時には徒歩10分圏内を希望したのだが、世の中そううまくはいかないものである。それでも、駅に向かう通り沿いにはいろいろな店もあり、気分転換もしやすい。難点は、人が多いことだろう。 何事もない毎日。朝起きて、会社に行って、暇な時間をやり過ごして、会社が終わると家に帰って、家でのんびりと本を読んだりパソコンに向かったりして過ごす。それがゆきの日常であった。 「あ!」 突然背後の方で大きな声が聞こえたゆきは、くるりと振り返った。もちろん、周りでも同じように振り返った人はいた。オフィスが多い場所だから、知り合いがこの辺りにいるという人が多いせいもあるだろう。 振り返ったゆきは、声の発生源まではわからなかった。まあ、自分が呼ばれることもないだろう、と思ってわずかに首を傾げたが、すぐに向き直ってまた駅に向かっていく。 「暁さん、お疲れ!」 肩を叩かれたゆきはかすかに眉間に皺を寄せて振り返る。 「あー……お疲れ様です」 そこにいたのは、先日の飲み会で会った男二人である。送別会という宴席にいた、同じ会社の人間だ。とはいっても、ゆきはそのときが初対面である。同じ会社とは言えど、支店が違えば、会うこともほぼ皆無。 内心、ゆきは焦っていた。顔に見覚えはある。この間の送別会で見た顔なのは覚えているのだ。けれど。 (ナマエ…………わかんねー) ゆきは数字を覚えるのは結構得意なのだが、名前を覚えるのがとにかく苦手だった。今回は顔に見覚えがあるだけマシなくらいだ。たしか自分がいた席の辺りで結構しゃべっていた人な気がする。ゆきは適当に相槌を打って話を聞いてはいたけれど、ほとんど会話の内容など覚えていない。 「もう帰るの? 早いねー」 「ええまあ……」 「あ、もしかしてデートじゃないの?」 「いいなあ、俺も仕事早く終わらせて帰りたいなー」 男二人はにこにことゆきに話しかけてくる。が、ゆきとしては名前も知らないし(おぼえていないことは棚上げだ)、適当な愛想笑いで済ませているのだが、いささか面倒になってきていた。 「あれ…………」 「え?」 同僚らしき人の話を適当に聞きながら、微妙に顔が引きつり始めた頃、突然背後で声が聞こえた。小さな、小さな声である。が、ゆきはその声には覚えがあった。先日、『いい声』と思った男──龍二である。 「あ、ども」 「あ、ナン……っじゃなくて、こんばんは」 さすがにゆきも『ナンパ男!』という発言は抑えた。ゆきは彼の名前も知らないが、一日に三回ほど飲み屋で遭遇しただけである。ナンパのように声をかけてきたわけでもないのに、いきなり「ナンパ男」呼ばわりはさすがに失礼かと思えたのだ。 そして龍二が驚いたのはまたゆきに会ったということに加えて、今日は先日の夜とは少し違った複雑な顔をしていたからである。まあ、あの時も不機嫌だったようで微妙な表情をしてはいたけれども。 何か困っているのだろうか? と思って彼はゆきを見ていた。 「やっぱりデートかー。いーなー」 「俺たちも早く仕事終らせて帰るかー」 「あはは、じゃ、お疲れ様でしたー」 龍二が来たときに、ふっと空気の流れが変わったのか、同僚らしき男二人は、そそくさと離れていった。ほっとしたゆきは彼を見上げた。たしかに、送別会の時になぜか遭遇しまくった相手だ。顔はなんとなく覚えている。 「もしかして邪魔しちゃいましたか?」 「いいえ、きっかけ作ってくれて助かりました」 にこ、とゆきが笑う。彼が初めて見るゆきの笑顔だった。きょとん、と目を丸くしている彼を見て、ゆきもまた目を丸くして首を傾げた。どうかしましたか、と。 「いえいえ、えーっと、先日はどうも。覚えてます?」 「ええ一応」 「よかった、見ず知らずの人に『この間会いませんでした?』なんて一昔前のナンパみたいなことしなくて済んで」 今度は龍二がにこりと笑った。きょろりとした目が涼やかに細められる。微笑むとずいぶんと優しげな顔になる人だな、とゆきは思った。 彼の身長はゆきと頭ひとつ近く違う。おそらく百七十五センチぐらいだろう。対するゆきは身長百五十五、一般的よりいくらか低め。否応なく、大抵ゆきは話をする相手は見上げる形になる。 「あれ、マサ、何してん?」 「お、クッシー。今帰り?」 「ああうん、録り終わったとこ。……あれ、知り合い?」 ゆきはきょとんと目を丸くして、龍二を見上げた。現れたもう一人の男は人懐っこい笑顔を向けて、龍二に話かけていた。実際のところ、龍二に関しては、なんとなく顔を覚えてはいるけれども、ゆきにとってはどちらも知らない人である。 「知り合いっていうか……ほら、クッシーもいたじゃん、この間の打ち上げのとき」 「え?」 「え?」 「アレ?」 彼がいうと、クッシーと呼ばれた男とゆきが同時に首を傾げた。その反応を受けて龍二もまた首を傾げたが、お互いに一瞬顔をあわせただけである。覚えていないのも無理はないことだ。 「覚えてないかな。帰り際に花束渡した人」 「ああ! あのときの勘違いしてた人!!」 「え? 勘違い? 何が?」 ゆきが思い出した、という顔をしたが、楠原は目を丸くするばかりだ。勘違いってなんだっけ、と。複雑な顔をして、龍二が「彼女とかと勘違いした人だよ」と説明をすると、楠原は「え、ちがったの!?」と驚いた顔をした。 「違うよ、あの呑み屋で初めて会ったんだよ。ちょっとオレがドアぶつけちゃって」 「そうなんだ。ま、いーけど、ちゃんと紹介ぐらいしてくれよ」 「え? あ、オレ、名前知らない……」 思い出したように龍二が言うと、楠原が呆れた顔をした。そもそも呑み屋で偶然見知った相手だ、名前を聞いていなくてもおかしくはないだろう。再会があるなどと思いもしなかったのだし。 そんなことを龍二が思っていると、ゆきもまたぽかんと口をあいていた。 「あれ? どしたの?」 「……あ、いえ、私も名前知らなかったんで」 「ですよね。はじめまして、真幸 龍二(マサキ リョウジ)です」 「あ、はじめまして、暁 ゆきです」 ぺこりと頭を下げる二人を見て、楠原は笑っている。何してんだろう、この二人、と。 呑み屋で遭遇しただけだというなら、確かに名前を知らなくてもおかしくはないだろう。それだけは楠原も認められるのだが。 普通の会社員のお仕事が終わるような時間帯に一緒にいて、なんで名前も知らないんだ、と思うのは普通だろう。楠原は知らなかったのだ。ここでもまた、二人が偶然会ったのだということを。 それもまた仕方のないことだ。楠原が現れたときには、ゆきの同僚らしき人物はすでにいなくて、龍二とゆきが普通に話をしていた。まあ、楠原も龍二と同業者、職業柄、まさかファンとかにつかまってるんじゃないだろうな、と思ったのだが。 ところが実際はファンどころかまったく知らない人だと二人で言う。それに、ゆきを見て、楠原はまあ、ファンということは無いだろう、と思えたのだ。どちらかというと、興味はないだろう、と。それにさきほど「はじめまして」と挨拶している。本気で全く知らないんだろうな、と納得した。 「暁さん、この辺で勤めてるんだ?」 「え、あ、はあ」 「俺、てっきりファンにでもつかまってるのかと思ったよー」 「そんな、こんな街中でありえないでしょ」 「そんなのわかんないじゃん、マサ人気者だしー」 「うわ、なんか嫌味言われてる気がするっ」 楠原と龍二が楽しげに話しているのをききながら、ゆきは首を傾げた。 彼らには『ファン』がいるらしい。一体何をしている人なんだろう、と思ったけれど、さすがにいきなり何の仕事をしてる人ですか、とは聞けない。さすがにそこまで突っ込むのは失礼にあたるだろう。 「あ、ごめん、話置いてけぼりにしちゃった。俺は楠原。マサとは養成所からの友達なんだ」 「養成所……ですか」 「あ、そっか、名前知らなかったくらいだし、仕事なんて知らないよね。俺とマサはまあ……俳優?」 「声のな」 「声って……声優さん、ってことですか」 そうそう、と二人が笑う。 声優というといわゆるアニメとか映画の吹き替えとかナレーションとかする人のこと、という認識ぐらいは、ゆきにだってある。アメリカとかフランス映画などは字幕で見る人が多いのに、昨今流行った韓流ではなぜみんな吹き替えで見るのだろう、と思っていた。そう思っているゆきは、基本的に字幕派で韓流にはあまり興味がないので見ていないのだが。 「あ、だからファンにって」 「そういうこと。まあ、俺たちの顔を知っててファンやってるって子は秋葉系っぽいのが多いから警戒しやすいけどね。だから街で見かけても声を掛けられることなんてほぼ無いし。でも、たまーに突撃隊がいたりするからね」 「声の俳優だから、そんなに顔出ししないし、目立たないからね」 楠原がうんうん、と頷いているのを横目に、ゆきはなるほど、と呟いた。 ゆきの龍二への第一印象は『いい声』だったのだ。声がゆきの好みであったのは偶然だろうけれども、相手が声優だというのならば、いい声だと思うのも無理はないかもしれない、と思えたのだ。 「この間の飲み会はある番組の打ち上げだったんだ。だから結構うるさかったでしょ」 「ああ……なるほど、俳優さんなら、声通りますもんね」 「打ち上げだから、普通の会社の人もいるし、声優の数は少なかったからマシな方だとは思うけどね。仲間内ばっかりの飲み会だとかなりうるさいと思うよ」 ゆきの同僚、坂上が別の座敷がすごくうるさい、と言っていたが、それも当然だ。彼らは声が武器なのだから、それだけ声量もあるだろうし、響いてしまうのも仕方のないことである。 そして声が武器でもなんでもない坂上がうるさいのは、ただ単にやかましいだけだ。 「ところでマサ、これからどっか行くの?」 「いや、事務所戻って台本もらってくるだけだけど」 「マジ? じゃ、軽くいかない?」 「うーん、明日早いから、軽くなら」 「ああ、俺も明日早いし、大丈夫。ね、暁さんもよかったら一緒にどう?」 「へ?」 突然楠原に言われてゆきがきょとんと目を丸くする。初対面の人にいきなり呑みに行こうと誘われるなど驚くのも当然だろう。そういうのが得意な人もいるだろうが、ゆきはどちらかといえば人見知りもするので、そういう場面に立ち会うことはほぼ無い。 「暁さん、仕事終わったんでしょ? 酒だめ?」 「あー……呑めなくはないですけど」 「じゃ、一緒に行こうよ。ここでずーっと突っ立って話してんの疲れるしさ」 「おい、クッシー、いきなりそれはどうなの?」 「せっかくナンパしたならご飯ぐらい誘ったっていーじゃん」 「ナンパ!?」 ゆきと龍二が二人同時に驚いた。あまりに声がぴったりに揃ったので、言った二人が驚いて顔を見合わせた。 「うーん、仲いいねえ」 「違うだろ、楠原っ」 「え、違うの?」 楠原は首を傾げつつ、顔がにやけている。別に楠原もナンパが趣味というわけではないが、せっかくお知り合いになったのだから、こういうチャンスは生かすものである、というのが楠原の持論だ。龍二がナンパしたのではないことは楠原もわかっている。龍二がそんなことを一人でやるタイプではないことをよく知っているのだ。 「んじゃ、移動しよ、移動。マサ、早く事務所行ってこいよ、俺、暁さんと店探してくるから」 「お前なあ……。暁さん、こんなの相手しなくていいですよ。予定とかあるんじゃないんですか?」 「え? いえ、別に」 思わず勢いでいいえと言ったあと、ゆきは「しまった!」と思った。用事があると言ってこのまま帰ればよかったのだ。だが、時すでに遅し。 「けってーい。軽くね、軽く。暁さんだって明日仕事だろうし、俺たちだって明日仕事あるからそんなに呑めるわけでもないしさ。偶然の再会を記念してもっとお近づきになってみよーう!」 にこにことして楠原が言い、龍二は呆れた顔をしてため息をつく。こうなったら止められないだろう。せめてゆきを巻き添えにするのをやめさせようと思ったのだが、それも出来なかったのだ。 楠原曰く、偶然が何度もあると思うな! ということらしい。 龍二もゆきも、またしても偶然会った、というのが驚きではあったし、確かに何度もあるものではないというのは理解している。 だからといって、いきなり呑みに誘うのはどうなんだ!? と多分普通の人は思うだろう。楠原が普通なのか普通ではないのか、は別として。 「暁さん、無理しなくていいからね! クッシー、オレすぐ戻るから、その辺で待ってて!」 「店決めとくって」 「いつものとこでいいだろ。暁さんも帰りたくなったら帰っていいから。そいつその辺放置しといていいから!」 そういい残して、慌てて龍二はゆきと楠原から離れていった。 「事務所、近いんですか?」 「うん、こっから10分かからないよ。俺はそこのスタジオで録りをしてきたの。ま、アニメの脇役だけどね」 「そうなんですか……」 ゆきにとっては、俳優というのは縁遠い存在だ。ゆきの親友のちやはマスコミ系の会社にいるが、それでも芸能人などは会社で見たことはないらしい。マスコミといっても幅広いのだから仕方ないのかもしれない。まあ、ゆきも親友のちやもそういったところには疎いのでよくわからないのだが。 龍二が来るのを待つ間、店を探すわけでも、どこかで落ち着いて待つわけでも、龍二が言った「いつもの」店に向かう様子もなく、楠原と会話をしていた。 楠原曰く、龍二は映画の吹き替えもあるが、アニメーションに声をあてることが多いらしい。そして最近は主役そのものは数少ないが、メインの悪役だったり、常に出てくる脇役だったりすることが多いという。先日の打ち上げの番組では、主役だったらしいけれども。 「多分何かで聞いたことはあると思うよ」 CMでも、特番系のナレーションでも、数は多くないけれど、声を当てているものはあるということだった。 どうやら龍二は売れている声優らしい。それは楠原の言ではあるが。 「ま、適当に待ってよう」 そう楠原が言ってゆきを見たので、ゆきは微かに微笑んで、はあと頷いた。 |