11:迷いと迷いと決行。






 龍二は台本をぺらりと捲っている。いつもよりも相当分厚い台本。三十分放送のアニメーションなどの台本は結構薄いものなのだが、これはゲームのための台本である。
 ゲームとなると、それなりに単発的なセリフもあれば、ストーリーの中のセリフも大量にある。ストーリーの中のセリフなどは、選択肢によってセリフが変わったりするので、これまた膨大な量になるのだ。もちろん、ジャンルによりけり、というのもあるけれども。
 その分厚い台本を、龍二はマジメな顔をして捲っていた。

「うっわー……読めない文字が多い……」

 ぽつりと呟いて、龍二は立ち上がり辞書を手に戻ってくる。台本に書かれているセリフは、大半の人が読める文字を使われているのが普通である。当て字のようなものはルビだって振ってある。
 けれど、今回の台本は中国が舞台のせいか、難しい漢字の羅列が多いのだ。人名や地名は読み方が変わっている場合も多いからルビも振ってあるのだが、専門用語的なものになると、あったりなかったり、でわからなくなる。

「でぇーい、読めんっ」

 辞書を繰りながら台本を読んではいるものの、どうも集中力がないらしい。落ち着かない。はあ、とため息をついて、龍二は立ち上がる。コーヒーでも飲もう、ということで立ち上がったのだが、それと同時に携帯電話が鳴り響いた。

「もしもしー?」
『あ、マサさん?』
「おー。どした、珍しいじゃん、滝ちゃんから電話なんて」
『ええまあ。あ、聞きましたよ、この間、呑みに行ったんですってね、ゆきちゃんと』
「え、なんで知ってるの?」
『楠原さんが言ってましたよー。さっきまで一緒だったんで。瀬田さんも来たとかって……すごいですね』

 同じ声優仲間の間でも、玲が飲み会に参加することは滅多になく珍しいものなのである。玲とお近づきになりたい声優仲間はたくさんいたりもするのだけれど、あのキャラクターで玲は結構周りを寄せ付けないのだ。

「あれはクッシーのお手柄。オレも玲くんとはあんまり呑みに行ったことないもん。それで、どしたの?」
『あ、ごめんなさい。今日って収録あります?』
「うん、夕方だけど?」
『あー、夕方かー。甲田くんと里香ちゃんと遊びに行こうかって話しになってて、マサさんもどうかな、と思ってたんですけど……夕方からじゃムリですかね』
「ごめん、今日は夜までかかると思うんだよね。早く終わったら連絡しようか」
『あ、じゃ気が向いたら。そうそう、甲田くんがマサさんの携帯番号知らないって嘆いてましたよ』

 電話の向こうで、滝口が笑っている。龍二も苦く笑っていた。甲田が嘆いている姿が目に浮かぶようで。
 別に本気で教えるのがいやだとかそういう意味で教えなかったわけではない。本当に偶然なのだが、多分それに気付いた瞬間の甲田はものすごくダメージを受けていただろう。そして甲田は、そういうことで弄られやすいから、簡単にその瞬間が想像できる。

「あはは、今度教えとくよ。この間、冗談言って教えないとかってやってたから、そのまま忘れちゃったんだよね」
『寂しがってましたよー。じゃあ、気が向いたらお願いします』
「うん、ありがと」

 電話を切ると、龍二はそれをテーブルに置いて、キッチンに行った。コーヒーをいれて、また部屋に戻ってくる。

「まったく、クッシーも言いふらすなよなー」

 確かに玲が来たことがレアだから、言いたくなる気持ちもわからなくもない。だったら、玲と龍二と呑みに行った、ということだけいえばいいものを、なぜわざわざゆきのことまで。
 おそらくは、前にゆきが参加した仲間内の飲み会の席に、滝口がいたから言ったのだろうけれども。

「まあ、別にバレて悪いわけじゃないけどさー……」

 残念ながら、どこの社会でもあるものなのだ。変に噂にする人、というのは。ついつい、警戒してしまうのも仕方ないことである。
 それを気にしているのは、つい先日、ちょっとばかりネットでふらついていたときに、ふと見つけてしまった書き込みのためである。
 そこのサイトは、龍二と玲のファンサイトらしい。基本的にそういうサイトには行かないのだが、そのときたまたま見つけたのは、そこの掲示板が検索にかかってきたからである。
 検索サイトでひっかかったその掲示板に書かれていた文字を見て、思わず龍二はそのサイトを見に行った。

『先日、某所で真幸さんと瀬田さんを見かけました。なんか女の子と飲んでたよ。彼女かなあ。彼女だったらめちゃめちゃショック。彼女いないって聞いてたんだけど、やっぱりいるんだーとか思って。でもすっごい普通の子だったんだけど』
『私も二人とも彼女いないって聞いてたけど……嘘だったのかなあ。マジだったらすっごい、ショックだー。同業者じゃないの?』
『女性声優とかあんまり知らないからわからないんだけど、ふつーの人だったよ。仲よさげでムカッときた』

 こういうのを見てしまうと、少しばかりげんなりしてしまう。ファンがいてくれるのは嬉しいことである。演技が好き、声が好きと言ってもらえたら確かに嬉しい。
 けれど、やはりプライベートのこととなると、話は別だ。そういうところは、放っておいて欲しい、と思えてしまう。
 普通の人で何が悪い。普通の人と知り合いではおかしいのだろうか? そんなはずはないだろう、こっちだって一応声優という職業をしているだけの、普通の人だ。と、龍二は思ってしまうのだが、こういう世界は『普通』とは扱ってはもらえない。
 好きでなった職業ではあるけれど、こういうところばかりは、少しばかりいやだと思ってしまったりもする。まあ、芸能人とは言えども顔出しの仕事はめったにないし、基本は声の仕事だから、自由に動けるほうだけれども。

「あんなの見たら、下手に連絡も取れないよなあ……。ゆきちゃん、何してるんだろ……って仕事か」

 平日の昼間なんだから、仕事に決まってる。
 そう思いつつ、あの飲み会以降まったく連絡を取っていない相手がどうしているかなど、ちょっとばかり気になっていた。
 あの飲み会から二週間。ゆきのなかで、『友達』と呼べるようにはなったのだろうか、気になっている。だからといって、『オレ、友達?』などと聞けるはずもなく。

「あーもー、なんか悶々としてきた……ってクッシーじゃん」
『やっほー、マサ』
「やっほーじゃねぇよ。いきなり電話してきてどうした?」

 ぐるぐると考えていると、いきなり電話が鳴り出した。電話の主は楠原。今日は電話が多い日だなあ、と龍二は考えていた。

『アレからさ、ゆきちゃんとちやちゃん、連絡とった?』
「は? とってないけど……何、クッシー連絡したの?」
『んにゃ、してない。その後どうしたかなー、と思って。向こうからは?』
「来ないよ。っていうか、ゆきちゃんがいきなり電話してくるとは思えない」

 そういうタイプではないだろう、と龍二は思っていた。実際、過去にメールだって、あの時しか来ていないのだから。

『そっかー。んじゃ、連絡してみたら? また呑みにいこうーって』
「そんなん何度もできるか!」
『いいじゃん、別に。断られたらまた次の時って言ってさ。だってマサ、ゆきちゃんお気に入りだろ?』
「は!? なに言ってんの、楠原」

 突然の楠原の言葉に、思わず龍二の声が裏返った。思いも寄らないセリフだっただけに、驚くのも無理はない。が、楠原には突然でもなんでもないセリフだったらしく。

『何って……マサ、ゆきちゃんお気に入りじゃん。大丈夫だって、俺は邪魔しないからー』
「だから、何言ってんだって。別にそんなんじゃないよ」
『そう? 本当に? あれから一回もゆきちゃんのこと考えなかった?』
「それは……」

 ない、とはいえなかった。何度か考えている。あのとき、機嫌悪そうには見えなかったけど、気分を害さなかったかな、とか、仕事ではあのそりの合わない同僚と、なんとかうまくやってるのかな、とか。
 だからといって、それを聞くために連絡をするのも出来なかったし、あの掲示板を見てから、下手にゆきと会ったりしたら、またどこで誰に見られるかもわからないし、と複雑な心境になっていた。
 もちろん、そんなことは楠原には言ってないのだが。

『マサ、俺前にも言ったじゃん。偶然は何度も起きないぞって』
「え? あ、ああ、そう……だっけ」
『忘れんなよー。あのとき俺、結構いいこと言ったんだから。気になるなら話せばいいじゃん。別にそれが友情だろうが恋愛だろうが構わないと思うんだけどな』
「……お前、何考えてんの?」
『いや、別に何も。マサさ、踏み込むの苦手じゃん。だから、ちょっと後押し、みたいな?』
「そりゃどーも。別に踏み込むの苦手とかそーいうわけじゃないよ。特に用事もなく連絡するのも、悪いかと思ってるだけ」
『それが踏み込むのが苦手っていうんだよ。ゆきちゃんが連絡してこないのも、おんなじようなもんだと思うけど。前にマサも言ってたじゃん、俺たち時間が不規則だから、連絡取りづらいのかもしれないって。時間不規則な人間相手に、用事もなく連絡してくるのは、ゆきちゃんだって苦手だと思うけどなあ。だったら、不規則な人間の方が用事なくても連絡すれば、ちょっとぐらい話してくれると思うけど』

 ゆきにも龍二にも、それぞれの過ごし方があって、それぞれの時間の使い道があって。それが重なることはそう多くはないのが当然だ。しかも龍二は不規則な時間帯での生活が習慣化している。ゆきとは正反対なのだ。
 だったら、不規則な方が、規則的な人の時間に合わせるほうがあわせやすい。それも当然である。

「……楠原、俺に何させようとしてんの」
『だから、別に他意はないって。まあ、マサがゆきちゃんとお近づきになりたいのかなーって気はしてるけど。で、呑みに行くなら俺も誘ってねってだけ』
「お前なあ……」

 便乗したいだけ、という口ぶりで言う楠原に、思わず龍二は苦く笑った。でもまあ、楠原をダシにするのも悪くは無い。
 というか、そういうことでしかきっかけが作れないのかオレは、と思うとちょっとだけ虚しい。なんてことは楠原には言わないけれども。

「まあいいや、心配してくれてありがと」
『いえいえ。また瀬田さんに来てもらうのは難しいだろうけど、俺はいつでもマサのために時間を空けるからなっ』
「仕事入ってたらどうするんだよ」
『そ、その時は速攻仕事して行くことにする』
「マジメに仕事しろよ」
『あははー。ちゃんとしてから行くって』

 じゃあ、移動するから、と言って楠原が電話を切った。収録合間の移動中にわざわざ連絡したらしい。楠原なりの気遣い、というところだが、龍二はまた違う方向に思考をやった。

「オレがダシになってたりして?」

 楠原がゆきに近づくために、きっかけを龍二が作っている、そんな風にも、考えられないことはない。とは一瞬だけ考えたけれども、わざわざそんな回りくどいことを楠原がするとは思えなかった。第一、楠原には彼女いるし。
 龍二はテーブルに置いてある手帳を手にして、スケジュールの確認を始めた。今日は夕方からの収録、一応九時までのキープ。そのあとは予定なし。九時なら……電話ぐらいはいけるだろうか。
 しばらくは仕事の予定が夜まで入っている。早くても九時では、さすがに飲みに行こうと誘える時間ではない。それこそ、ゆきの会社の飲み会の二次会として、とでもしなければ無理というものだ。

「夜にでも電話してみるかー……」

 電話したからといって何を話す? それを考え始めれば、電話なんて出来ない。それもわかっているので、龍二はひとまず、頭で考えることをやめることにした。

「近況だけでも話せたらいっか」

 まあ、実際そんななんでもない話が出来れば十分だ。


◆ ◇ ◆ ◇


 ゆきはとりあえず不機嫌だった。まあ、いつものこと、坂上のおかげである。「せい」じゃなくて「おかげ」という心境は、いかに不機嫌かを物語っているかのようである。
 無表情に不機嫌さを上乗せして、ゆきはつかつかとフロアの中を歩いていく。フロアから出て行くためだ。

「……ムカつく」

 ぽそりと呟いたその言葉は、同じオフィス内で働いている人の耳には届かない。どこもかしこもかすかなざわめきと忙しさで他人をかまっていられない、というところだろうか。
 この日は、ゆきもまた忙しい日だった。
 普段はイレギュラーな仕事がない限り、基本的な仕事はヒマな方である。が、さすがに締め日となれば話は別。締め日直前の今日、それまでにやらなければならない仕事があるのだ。
 それにも関わらず、なにやら会議との呼び出しがかかり、同じ課の人間が会議室に集められた。もちろん、ゆきはそれだけでも「迷惑な」と思いはしたものの、他の人だって忙しくても会議には出なくてはいけないのだから仕方のないことと認識して、とくに不満を口にするわけでもなく会議に出席した。
 そしてその会議の場で、ゆきの不機嫌は最高潮に達する。
 ゆきはそのままフロアを出て、エレベーターホールへと向かった。ゆきの働いているオフィスは地上七階。さすがに階段で降りるはずもない。
 エレベーターに乗りこんだゆきは、そのまま一階へと降りていき、裏口の方へと回った。人の少ない裏口は、今のゆきにとって好都合である。

「ったく、時間の無駄なんだよ! ああ、ムカつくっ」

 忙しいのだから、自分の席にもどって早いところ仕事を始めようと思ったゆきだったのだが、さすがに不機嫌がピークにきている。仕事などする気力さえわかなかった。少し外の空気でも吸えば、気分が変わるかな、と思って外に出てきたのだ。
 そして実際外に出てきて、確かに気分転換にはなった。けれど怒りは治まらないが。
 何をそんなに怒っているのか、というと。
 無駄の多すぎる会議に、である。
 会議というよりも打ち合わせだ。同じ課の人間が集まって、仕事の相談をする。それはまあ、普通のことだろうけれども、今回集まって出た話題の半分以上が、仕事に関係ない、いや、関係はあっても会議の場で言う必要のないことだらけだったのだ。
 その会議の場には支店長や部長と上司の面々も同席しているのにも関わらず、座席で騒いでいるときと同じ調子でどうでもいいことを言い出していた。部長が何か言えば、簡単に「ええ〜、それ私がやるのぉ〜?」と不機嫌丸出しの声を出す。意見するような口調ではなく、友人と話しているかのような口調で。ありえない。
 だが当然のように部長も支店長も何も言わないし、それで一緒になって騒ぎ出す。それなりに長く勤めているのだし、慣れてくれば言いやすい、とかいう次元を超えている。 
 そんな無駄な会議で割かれた時間は二時間。迷惑極まりない。
 とはいえど、坂上たちがそのように話すのは、いつものことではある。そしてゆきがイラつくのもまた、いつものことだ。

「こればっかりは慣れない……ってか慣れたらまずいとは思うけど……」

 無駄に疲労が増していく、そんな気分がしてしまうのも無理はなかった。
 携帯電話を取り出したゆきは、イライラを存分に文字に打ち込み、ちやに愚痴メールを送信した。それぐらいはしないと気が治まらない。出来ることなら夜に呑みにでも行って愚痴りたい気分ではあるが、さすがにまだ火曜日、まだ一週間は長い。

「そういえば……あれから連絡とかとってないなあ」

 ふとゆきが思い出したのは、携帯でメールを送るときに出てきた名前の相手。
 前回、呑みに行ったときから連絡は何もない。とはいえども、こちらも用事があるわけではないので特にメールを送ったりはしていないのだが。
 あの時から二週間程度経っている。まあ、そこまでの知り合いでもないのだし、用がなければ連絡を取らないというのはそれなりに普通のことではあるけれども。

「……そういえば、真幸さんっていい声してたよねえ」

 呑みの席でも、時折演じるような声音で楽しませてくれていた。その声はやはり、最初に聞いた時に思った感覚を違えることなく、ゆきの好きな声音だった。少し低めの、優しい声。

「ああ……ちょっと声聞いたら癒されるかなあ」

 好きなものを聞いたりすると、癒しになるものである。疲れているときに好きな音楽を聞くのと同様で、龍二の声を聞いたらちょっと癒されるかも、などと思ったのだ。

「……って、いきなり電話するわけにはいかないしね」

 第一、龍二相手に仕事での愚痴などそう言えるはずもない。まだ知り合ってそれほど経ってないし、相手は忙しい相手だ。職場だって場所ごとで関わる人が違ったり、場所だってその時々で違ったりして、色々大変そうだというのに、こんなことを愚痴のように言うわけにはいかない。

「ってことは、やっぱりちやに愚痴るのが一番か」

 けれど今すぐに出来ないのはやはり悔しい。
 はあ、と軽くため息をついてから、ゆきはオフィスの中に戻る。フロアに戻れば、きっとまた坂上や他の面々が騒いでいることだろう。ウザイ。
 だが、ゆきが抱えている仕事もあるのだし、相手にしないで仕事するより他に手はない。せめて彼女たちの声のトーンがもう少し抑えられて、仕事時間中はそれなりに仕事をしてくれるならば、もう少し気が楽になるのだが……それを求められるとも思っていなかった。

「はあ……」

 そのため息は、誰に聞かれることもなく空に消えていった。


◇ ◇ ◇ ◇


 オフィスの外に出ると、外はもう暗くなっていた。それも当然だ、時間は八時を過ぎている。あと少しで夏が来るとはいえども、まだ入梅していないし、まだ陽はそれほど長くはない。
 薄暗くなった街の中を歩くゆきは、うんざりとした顔をしていた。
 残業をして帰ってきたわけだが、あのイラつく会議からずっと、坂上と、ゆきの隣に座っている女性社員が騒ぎ続けていたのだ。仕事の話は、その会話の中の五分の一程度。しかも仕事の話といっても、会社の人の文句だったりするのだが。
 それに便乗する部長や支店長。そういう情景を見ていると、本当にうんざりする。
 ゆきは抱えていた仕事をそれなりに終わらせ、キリのよいところで上がったのだが、それでも八時過ぎ。同じような仕事を抱えている坂上は、定時のチャイムが鳴ってからのろのろと作業を始めていた。それで残業代までもらうのだから、冗談ではない。

「……疲れた」

 とにかく、神経が逆立っているのが自分でもわかる。
 仕事での疲れ、プラス坂上たちのバカ騒ぎの疲れ。とにかく、仕事をするには不向きな環境だな、としみじみ思っていた。

「あ、れ……ゆきちゃん?」
「へ?」
「お疲れ様、ゆきちゃん。今帰り?」
「あ、真幸さん!? ど、どうしたんですか、こんなところで」

 駅から歩いてきた龍二が、驚いた顔をして、そのあとにこりと笑って駆け寄ってくる。ゆきは唖然として足が止まっていた。

「オレはこれから事務所に寄るところ。予定よりも録りが早く終わったんだよね。ゆきちゃん、今帰り? ずいぶん遅いんじゃない?」

 前に、今ぐらいの時間はもう家にいるって言ってたよね、と龍二が言うと、ゆきが苦く笑った。そう、いつもなら帰っている時間だった。

「ちょっと仕事が多くて、残業だったんです。そういえば、前も真幸さんが事務所に行くときに会いましたよね。もしかしたら、ずっと昔から何度かすれ違ったりしてたのかな」
「そうかも? ほんとにすごい偶然だよね」

 くすくすと龍二が笑っている。本当に、ありえないほどの偶然だ。しかも龍二は、これから事務所に行って、台本を受け取ったら早々に帰ってゆきに電話でもしようかと考えていたのだ。
 申し訳ないが、早く終わったけれどもちょっと疲れたから、と滝口には謝罪の電話を入れてある。もちろん、甲田への電話番号連絡も済ませていた。
 そうだ、と思い出したように龍二がゆきの顔を覗き込む。

「残業ってことは、ゆきちゃんメシまだ?」
「え? あ、はい、まだです……けど」
「じゃ、一緒にどっか食べに行こうか。酒でも良いけど、軽く」
「え、で、でも、真幸さん、これから事務所ですよね?」

 龍二の突然の申し出に、驚いたゆきは声がうわずっていた。それを聞いた龍二はふわりと微笑む。

「なんでそんな緊張してるの。事務所行くって言っても、またしても台本取ってくるだけだからすぐ終わるし、ね」
「えーっと……でも、真幸さん疲れてるんじゃ……」
「それはこっちのセリフかなあ。ゆきちゃん、結構疲れた顔してるし。早く帰って休んでって言った方がいいのかな、とも思ったんだけど、ちょっと飲んで話とかしてもストレス取れたりしない?」

 ぽかん、とゆきは龍二を見上げた。そんなに疲れた顔をしていただろうか。そんなつもりはなかったのだけど……と。そのゆきを見て、龍二はくすりと笑う。

「オレもまあ、疲れてはいるけど、ゆきちゃんと話できたら多分疲れ飛ぶ気がするんだよなー。だから、付き合ってくれない?」
「……真幸さん、かえって疲れるかもしれませんよ?」
「それはないかな。ゆきちゃんと話したときに疲れたことないから。じゃ、一回事務所寄るから、一緒に行こう。ここでゆきちゃん一人にしとくわけにもいかないし」
「え、ええ!?」

 はい、行くよー、と龍二は笑って歩きはじめる。ゆきは慌てて龍二を追いかけた。来た道を、戻るようにして。





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