6:導く者






 朝の陽射しが昼のそれに変わろうとしている時間帯、美月たちは部屋の中で来訪者との対面していた。
 戒と名乗った人物は、部屋の中に通されると椅子に座り、テーブルに置いてあった茶器に手を伸ばして自ら茶を注ぎ始めた。湯飲みを四つほど並べて丁寧に茶を入れ、それをどうぞ、と水杜たちに差し出した。……どちらがこの部屋を借りた人物かわからないほど自然に。

「お初にお目にかかります、月姫。律師の戒と申します」

 自ら入れた茶を一口飲んで落ち着いたのか、彼はにこりと美月に微笑みかける。銀色、いや、白に近い彼の長い髪は、窓に差し込む光を受けてきらきらと輝いている。それを呆然と見ていた美月は、彼の言葉にはっとする。彼は自分を月姫と言った。水杜たちがそれを言う前に。

「四蓬の方々にもお初にお目にかかります。水杜さんと、火杜さんですね?」
「……そうだが。なぜ俺たちがここにいると?」
「杜貴に連れて来てもらったのです。さすがに鳥の羽には何度も置いていかれそうになりましたが」

 苦く笑いつつ、火杜の肩に止まっている杜貴を見る。
 そうしてすぐに彼は水杜に視線を向けた。そのときには先ほどのにこやかな表情は消え失せ、いくらか緊張した面持ちに変わっている。

「風杜と守はまだ不在だとか」
「……杜貴が言ったのか?」
「ええ。こう見えても一応律師ですので」
「っていうか、あんたホントに律師? 髪、白いぜ?」

 火杜が物珍しげに戒の髪に触れる。まっすぐに伸びた銀色の長い髪。美月からしてみれば戒の銀色の髪は当然ながら、水杜の藍色の髪も、火杜の朱色の髪も珍しい。だからいまさら彼の髪が珍しいとは感じなかった。

「白い、といわれると白髪みたいでちょっと嫌ですねぇ。せめて銀髪ぐらいにしていてくれませんか?」
「銀髪って言っても、もう色抜けてるぜ?」
「ええ、でも年のせいではないですよ、これでも水杜とそれほど変わりませんから」

 あはは、と軽く笑う戒ではあったが、水杜はいまだ警戒しているらしい。どこかぴりぴりとした空気が漂っているように感じられた。
 杜貴に連れてきてもらったということといい、風杜、守の不在を知っていることといい、律師ならばありうるけれども、それでも警戒せざるを得ない。なんといっても、普通の人間だったはずの祐理という男に昨夜襲撃を受けているのだから。
 戒と名乗るこの男が水杜と火杜という名を知っていても、彼が律師だから、と直結させて考えることが出来ないのだ。それは月姫を守る四蓬として当然ともいえる警戒心。
 ──ところが。

「へえ、あんたそんな若いのか。って言っても水杜と同じぐらいってことなら俺よりは年上だろうけどな。でもここまで白いと、誰が見ても白いんじゃねぇの?」

 律師だと名乗ったせいなのかどうかはわからないが、火杜がすでに懐いている。もともと人懐こい性格ではあったので、仕方ないといえば仕方ないのだがあまりにも警戒心が無さ過ぎないかと言われたらおそらく火杜は言い返せないだろう。それはまっすぐな心根を持った火杜らしさ、とも言えるのだが。

「水杜が疑うのは仕方ありませんね。いきなり律師だって現れられても、何だこいつ、と思うのは当然でしょうから」
「……律師というなら、今の状況がわかっているんだろう?」
「律師といえども、なんでもわかるわけではありませんよ。一応、現状は杜貴からも聞きましたし、それなりには理解しているつもりではありますけれども。まぁでも、水杜にこれからずっと警戒されているのも寂しいですから、何か証明する必要がありますねぇ」

 何か方法はありませんか、と戒が訊ねる。のほほんとした空気を持つ彼は、何を言われても証明することが出来る自信でもあるように見えた。
 剣呑とした表情の水杜と、相対する穏やかな表情をしている戒。彼ら二人を見比べながら、美月は言葉を挟めずにいた。彼が律師というなら、自分がこれからどうなるのか聞ける。水杜が律師か守がいればどうにかなるかもしれない、と言ったのだ。だから彼ならば、何かがわかるのではないだろうかと考えていた。
 たとえそれがどんな返事であろうとも、知りたかった。

「戒さん」
「はい」
「わたしは……もう、帰れないの?」
「……月姫」
「わたしは月姫じゃない。わたしは何も出来ない。だからわたしは月姫じゃない。月姫じゃないなら……帰れるんでしょう?」

 その答えが欲しい。律師だというなら、何らかの答えを持っているはずだから。
 美月の瞳は潤んでいた。今にも零れ落ちそうな涙が、孤独を訴えていた。
 帰りたいと泣き叫ぶほど、あの居場所に愛着があったのかと言われれば、美月はそうでもないと答えるだろう。だが自分の存在が曖昧すぎてどうしていいのかわからない。これまで踏みしめていた場所が何もない。足元からすべてが崩れ去って、何もかもがなくなって、何もかもが変わってしまった。ここに居場所があると言われても、存在理由があるといわれても、それは自分ではないものにしか思えない。
 けれど、彼女に待っていたのは残酷な言葉。

「──残念ですが、私はその術を知りません。月姫として降り立たず、一人の少女として降り立ってしまった今……一人の少女を異世界に帰す方法を私は知らないのです。もし知る者がいるとしたら、月姫であるあなた自身、そしてあなたを月姫に着任させることの出来る四蓬の守だけだと思われます。月姫は次代の月姫を任命することが出来ますから、月姫になればあるいは……と」
「……じゃあ、月姫になれば、わたしは帰れる?」
「帰れるのかどうかは、私にはわかりかねます。ですが呼ぶ@ヘはあると聞いています。それに関しては、私ではお力になれません。残念ながら、その力のことは詳しくは知らされておりませんから。本来、月姫とは異世界からの召喚であったとしても、月姫となる前に仁本に現れることはないはずなのです。ですから、あなたがこうして月姫に着任する前に降臨してしまったということは、すでに伝わっているものと違います。何かが急速に変わり始めている。もしあなたが月姫に着任しないとなれば、そのときは……月が導いてくれるかもしれませんが」

 月が、と小さく美月は呟いた。そして戒が頷く。

「あなたは、何よりも月に近い存在ですから」

 ここに来る前、あの『黒』の世界で、美月には月がついていた。だから何の恐怖も感じずに、夢心地でここに辿り着いた。あの月が、自分を帰してくれるのかもしれない。なんといっても、触れないはずの月に触れられたのだから、そんな奇蹟があるのかもしれない。

「ただ、月姫」

 美月が思考の海に落ち込む前に、戒が穏やかな声を掛ける。
 はっと顔を上げた美月の前には苦く微笑む戒の表情があった。

「出来ることならば……月姫として、この国を守って欲しいと、私は願います」

 無理にお願いは出来ませんけど、と戒は微笑んだ。
 彼のその言葉は彼の持つ願いの真実だろう。そしてそれは、水杜や火杜にとっても同様だ。月姫という存在は、彼らの存在を示すものでもある。彼らの存在は、月姫のためにあるのだから。

「月姫、お名前をお教えいただけませんか。月姫と呼ばれるのはお嫌でしょう」
「……逢坂、美月です」

 名を名乗った彼女ににこりと戒は微笑みかける。彼の言葉は彼女の願いを打ち砕くような結果ではあったが、今はそれを教えてもらえたことでどこかすっきりとしていた。右も左もわからないこの場所にいるには、はっきりとした真実が欲しかった。
 もちろん、それで彼女の孤独感がなくなるわけではないけれども。

「さて、水杜。どうしたら律師としての証明ができますかね?」
「……美月、こいつが律師だと、信用できるか」
「……え?」

 戒が水杜に訊ねると、彼は美月に訊ねた。突然問われた美月は驚いた顔をして水杜を見るが、彼の瞳は真剣なものだった。戒を振り返り、じっと彼の表情を見る。青褐色の瞳はわずかに細められ、美月をじっと見つめ返していた。

「律師、というものがどういうものか良くわからないけど……信用は、出来ると思う」

 そうか、と水杜は頷いた。美月がそう言うならば、彼は律師なのだろう。そう理解したのだ。月姫として着任されていなくても、彼女は月姫である。それは彼らの中の揺るがない事実であり、その月姫が戒を認めたのなら、それで彼は納得できた。

「月姫に最初に認めていただけるなんて嬉しいですね。では、信じてくださったお礼、というわけではありませんが道を失っている美月に、道を授けましょう。今後、峯鳴から離れ、遠江へ行くのが良いでしょう」
「遠江?」

 きょとんと目を丸くして美月が訊ねると、戒は自分の手元から一枚の地図を取り出した。それは先日水杜が美月に書いた地図とは似つかない、細かいこの国の地図。けれどやはりそれは美月の知る日本と同じ形だが鏡に映したように左右反転している。彼が指を指したその場所は、反転した日本においても遠江と言われていた静岡県に当たる場所だ。

「これは先代の律師より賜った言葉ですが……道に迷ったならば、遠江に答えがある、ということです。それが何を意味するのか、それは私にもわかりません。けれども、先代の月姫に仕えた律師の言葉です。何かの意味があると思いませんか」

 答えは、自ら見つけるしかない。そう戒は付け足した。少なくとも、琥山から遠江まではそれなりに距離があり、何日かかけた移動が必要にはなる。その間に風杜や守に会えるかもしれない。その淡い期待を抱いて出てみるのも良いのではないか、と。
 美月は黙り込んだ。今、この場で決定権を持つのは水杜でも火杜でも戒でもない。だから彼らは静かに彼女の決断を待った。美月にそれを決定する権利があるという理解があるとは思えないが、それでも彼らは黙って彼女の言葉を待っていた。

「……そこで何かがわかるかもしれないなら……行きます」

 面持ちは明るいものではない。つい先ほど、帰ることが出来ないという烙印を押されてしまったのだから。けれど彼女は決意した。これから先にどうするのか、自分の道を見つけるためにも。

 他所人を好まないというこの町の性状は戒も知っているらしく早々に町を出ることを薦められた。一泊の宿を提供してもらったのだから、確かにこの町に長居する理由も無いということで、水杜たちもそれに賛同した。

「他所人を好まない、ってそんなに?」
「……宿の人間を見ればわかるだろう。そんなに好意的に見えたか?」

 水杜に言われて美月がふと宿に来たときのことを思い返すと、確かに不親切、というかそれが客に対する態度か、というほどに嫌な視線を向けられていた。舌打ちする音でも聞こえてきそうなほどの険悪な空気。それがなぜなのかはやはり美月には理解できなかった。

「でも、どうしてそんなに嫌いなんだろ」
「さあな、ここは前からそうだった。ここ数年はさらに酷い気もするが……出て行けといわんばかりの視線はさすがにこっちも不快だからあまり近づかないようにしている」
「……そうなんだ」
「こういうところに限って、馬鹿みたいに金を取るわ治安が悪いわでむかつくんだよな。とっとと出るに越したことはないさ。これから向かう先も決まったんだ、のんびりくつろいでいる理由もないだろ」

 そうだね、と美月が頷いた瞬間、ドアが大きな音を立てて叩きつけられたように開かれた。
 それは音と共に押し入ってきた。四蓬の男が二人いるにも関わらず、その二人ともが気配を感じ取ることが出来なかった。五人の男が荒々しく扉を開いて押し入ってきたのだ。

「気配なんか感じなかったぞ……!」

 驚いた火杜はすぐさま立ち上がり、前に出る。男たちは火杜が目前にいるにも関わらず、ぎょろりと瞳を動かして部屋の中を探る。そして、ある一箇所でその動きは止められた。にぃ、と嗤った男はそこで足を止める。

「ミツケタ……!」
「イタゾ……!」

 その声は低く、どこかおぞましく感じさせる。震え上がった美月は椅子から立ち上がり、そっと後ろに足を引いた。その前に水杜が立ち、傍に戒も立っている。それまで居たはずの杜貴は、姿が見えなくなっていた。
 激しく開いた扉からどかどかと入ってきた男たちの目はどんよりと濁っている。その瞳の先に映るのは、ただ一人。戦う術を持たない月姫だけだ。五人の男は手に包丁や鍬などの刃物を持ち、美月に近づこうとしている。

「見つけた……? 美月を探していたとでも言うのか」

 呟きながら火杜は片手を腕輪にかざし、それを目の前に持ってくる。手のひらから白い透明な炎がふわりと立ち上り、次の瞬間、その手には大きな太刀が握られていた。その太刀を構えて火杜はじりじりと男たちに近づいていく。男たちは火杜を見ているようで見ていない。濁った瞳は虚ろで、何を映しているのかわからなかった。
 殺せ、と男たちの奥の方から声が響く。それを合図に、男たちは手にした刃物を掲げて叫びをあげて近づいてくる。

「コロセ……! 月ヲコロセ……!」

 叫びと共に、嗤い声が響く。ケタケタと殺すことを楽しむような嗤い声。

「やらせるかっ!」

 火杜の太刀が空を切る。相手は人だ。火杜の太刀ならば断とうと思えば簡単に断つことは出来るだろう。けれど彼はそれをしないよう、相手に傷を負わせつつ、遠ざけるように戦っている。それでも彼が太刀を払えばその軌跡を炎が飛び散る。その炎が彼らを焼くことは可能だった。

「水杜、焼けたら消せよ!」
「最初から焼くな!」
「しょーがねえだろ、零れちまうんだからっ!」

 そう言いながらも大きく弧を描いて走る太刀は彼らを少しずつ傷つけていく。炎の軌跡を水杜の雨が消していく。
 その繰り返しの中で、背に美月を守っている水杜は戒に訊ねた。

「戒、あんた戦えるのか」
「私ですか? まあ……あまり得手ではありませんが、一応は。防御が主ですけれど、少しは剣も使えますよ」

 水杜も戒も言葉を交わしてはいるものの、その瞳は襲撃してきた男たちから離れることはない。男たちの攻撃を火杜がかわしているが、いつまでもそのままでいることは出来ない。五人の男たちよりも、先ほど聞こえた後ろの声の主、それを倒さなければこの男たちは退かないだろう、と水杜は考えた。

「美月を守れ」

 それだけを言って、水杜は美月から離れる。すばやく火杜に近づき、その手には剣が携えられていた。

「もう一歩下がっていただいてよろしいですか?」
「……え?」
「彼らが動き易いようにして差し上げましょう」

 にこりと笑った戒の瞳は先ほどまでの穏やかな微笑みとは違い、冷酷なものだった。それを見た美月は目を丸くして戒を見上げる。けれど戒は美月に背を向けて立ち、手のひらを天井に向けて掲げた。

「月の白光、降りませい!」

 細い腕が振り下ろされ、その言葉と同時に光が部屋の中に降り注ぐ。白い眩い光が部屋の中を埋めつくし、あまりの眩しさに美月は思わず目を閉じた。目を閉じてもそこが白く光っていることがわかるほどに、その場は白い光に包まれている。
 美月がそっと瞳を開くと、彼女の前には白い細いものがふわりと浮いていた。それが何かと美月が気付くまえに、その白い細いものの持ち主がくるりと振り返る。

「戒……さん?」

 白い細いものの正体は、術を使って起きた風に揺れている髪だった。戒の長い白めの銀髪がその風に煽られて揺れて光る。

「戒で結構ですよ、美月。私はあなたに仕える者なのですから」
「今、何を……」
「ああ、結界というものです。あのまま戦っていたらあの部屋に甚大な被害が及ぶでしょう? いくら他所人を好まないといわれても、こんな待遇を受けたのに修理代を払うのは馬鹿らしいじゃないですか」

 さらりと言って戒は微笑む。それは先ほどの冷酷な笑みと同じだった。





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