7:その背に負うもの






 ──怒っている、ように見える。
 胸の奥でそう思ったが、美月はそれを音にはせずに黙っていた。

「それほど広いわけではないですが、少しは彼らも動き易いでしょう?」
「戒っ! そんなこと出来るんだったら早く言えっ!」

 火杜が怒号を上げる。彼が男たちをすぐに斬らなかったのは、零れる炎で部屋を焼かないように、という配慮だったのかもしれない。それは、火杜の炎が強くなったことで理解できた。五人の男たちは火杜と水杜を相手に刃物を振り回している。それは武器と呼ぶには粗末なものだが、殺傷能力が無いわけではない。

「簡単に壊れたりしないだろうな!」
「まあ、律師になれるくらいの力はあると言って置きます」
「火杜! 一番後ろの影だ!」
「りょーかいっ!」

 地を蹴った火杜がふわりと宙に浮く。あっと顔を上げた男たちは空を見上げ、飛び上がった火杜の行く方向へと視線をめぐらせた。それと同時に水杜は剣を正面に向けて叫ぶ。

「水刃!」

 剣を一文字に斬りつける。それと共に水が鋭利な刃物になって男たちを斬った。男たちの背中にそれは容赦なく叩きつけられ、彼らの衣服は肉と共に裂傷を負う。
 男たちのうめく声には振り向きもせず、火杜は一番奥にある黒い影に近づく。太刀に渦巻いた炎が赤く燃え上がる。炎は先ほどまでとは比べ物にならないほど強く、視界を歪めるほどに燃え滾っていた。

「いっけぇぇぇ!」

 火杜の叫び声とともに太刀に渦巻いた炎がうねるように影に喰らいつく。黒い影に喰らいつくと、声だけが響く。

「うわああああっ!」

 姿は無いのに、なぜか声だけが響く。姿がないのになぜか影が焼かれていく。燃える影など聞いたことも無い。だがその影は確実に炎で焼かれ、苦しげにうめき声を上げている。水杜と火杜、そして美月はその叫ぶ声にはっとする。
 うめく声。叫ぶ声。そして、月を殺せといった、その言葉。それらすべてに聞き覚えがある。ほんの数時間前、峯鳴の南都で聞いたあの声だ。

「祐理……!」

 なぜ、あの男が影となってここに居るのだろうか。南都で追い払ってすぐに美月たちはあの町を出た。それなのにどうして彼女たちがここに居ることを祐理が知っているのか。後をつけて来たというのならそれもおかしくはないが、ここまで水杜と火杜はその気配に気付いていなかった。相手がただの人間ならば、それはありえないはずだ。祐理には南都で会った時から強い殺気が渦巻いていた。それなのに、その殺気を隠して、四蓬たちに気付かれずについてくるなど到底出来るとは思えない。

「月ヲコロセ……!」

 焼かれつつも影は声をあげる。月を殺せ、月はいらない、と。
 それだけを影は繰り返し叫ぶ。火杜の炎に焼かれながら、影はゆっくりと水杜に近づいていく。水杜の持つ水の気配を察知して近づいているのだろうか。それでもその姿のおぞましさは変わりない。

「マジかよ……」
「あの炎で動くとは……」

 人ならばすでに焼失するほどの炎の勢いだ。影だけだから、といわれればそうかもしれないが、そもそも人が影だけで存在することが出来るはずはないのだ。ゆらりと身体を動かすその様は薄気味悪いものにしか見えない。

「火杜、焼き尽くしてください。影とはいえども、月を侵害しようとする者に断罪を」

 戒の言葉は容赦のないものだった。祐理という男に戒は会っていない。けれど、彼が美月を侵害しようとしているのは明白だった。故に、その男には断罪が必要となる。

「人に影は必要なものです。ですが影が一人歩きをすることはありえません。人ならぬ影ごときが月を侵害するなど笑止。消してしまいなさい」

 それは真実。
 影が一人で歩き、一人で攻撃などしてくるはずがない。その影を操る何者かが存在するのは明らかだ。まずはこの影を消し去り、この戦いを終わらせることが先決だ。それは水杜にも火杜にも同意できた。
 ──月を侵害するものを処断せよ。美月を害する者を断罪せよ。

「砕炎刃!」

 彼の太刀が空を切り裂き、その風圧で祐理に無数の裂傷を与える。そして燃え盛る火杜の炎が太刀から離れて祐理の影に襲い掛かる。切り裂かれたところから炎が燃え上がり、みるみる彼の影が炎に包まれていく。焼かれていく影は揺らめき、薄れていく。実体のない影が焼かれる、というのはなんと奇妙なものかと見えるが、影が怨嗟の声を発するのだからすでに存在そのものが奇妙でしかない。
 しばらくするとしゅう、と音を立てて影が霧散する。燃やし尽くしたかけらは何も残らず、灰ですらもその場には無かった。

「……消えたか」
「ああ」

 火杜が炎と太刀を収める。水杜が手のひらにふっと息を吹きかけ、残った炎を消していく。手にしていた剣は鞘に収められ、青い光を発して消えた。

「これでひと段落、というところですね」

 にこりと笑った戒はぱちりと指を鳴らす。と同時に辺りの景色は部屋の中に戻っていた。そこは先ほどまでの炎の焼け跡も何もない。何事もなかったような、静かな部屋があった。

「……なんでなんともないの?」
「あはは、結界を張っていましたから、損害は無いはずですよ」

 へら、となんということでも無いように戒は笑う。水杜と火杜もそれを知っていたかのようにしれっとしていた。美月にとっては驚くことだが、それは本当に普通のことのようで頷く以外に答えようがなかった。

「あの男をあなたたちは知っているのですか?」
「知っているというほどじゃない。ただ、美月が峯鳴の洞で会ったというだけだ。あの時は気付かなかったが……それから何かと近くにいる。南都でもあいつに襲われて俺たちはここに来た」
「……なるほど。南都で襲われてからここへ来たときには異変は?」
「何も。向こうは夜中に出たからあいつがここに来ているとは思えなかった」

 ふむ、と戒は頷いて考えこむ。それは何かがおかしいのではないか、と。
 四蓬が余人の気配を覚れないとは。相手がよほどの者でなければ、そうそうあれほどの殺気を隠すことは出来ないはず。それにも関わらず、四蓬の二人は全く気付かず、律師であり術者の戒ですらも気付かなかった。部屋に入り込んでくるまで全く気付くことが出来なかったとは何たる不明。

「美月には申し訳ないことをしました。私たちがついていながら全く気付かずにいたとは。ですが、火杜が影を焼き尽くしてくれたおかげで、相手の存在はわかりやすくなります」
「……どういうこと?」

 戒はにこりと微笑んで、冷たい言葉を吐き出す。

「影が使い魔ならば影のない人間に用心すれば良い。使い魔ではなく術者なら、その人物は影と共に焼き尽くされているはずですから、気にかける必要はありません。まあ、影を使い魔に出来るほどのつわものには見えませんでしたから、もし使い魔にしているならその背後に何かあるでしょう。影の持ち主もまた使役の一人かと。どうせどこかの小悪党でしょうがね」

 盗賊風情が、と言って捨てる戒の表情は微笑んでいても決して優しいものではなかった。それを見た火杜が、こそりと水杜に話しかける。

「……あいつ、見た目より怖くない?」
「……ある意味、危なそうだ」

 それは戒の耳には入らなかったが、かすかに聞こえた美月は苦く笑っていた。



◇ ◇ ◇ ◇



 遠江。そこに辿り着くにはいくつもの町を越えていかなければいけない。それなりに道は整備されているが、それでも道と言われているものは土の道。慣れない美月は足元に気をつけながらそろそろと歩き続けている。今はそれが美月にはちょうど良かった。
 戒に言われた、戻れないという事実。それを思えば、美月の心は沈む。けれど駄々をこねるような気にはなれなかった。それよりも喪失の感覚が強すぎるのかもしれない。何もしたくない、そう思うことの方が容易く、水杜と火杜、戒について行くことで気を紛らわしているというのはある。

「遠江には何があるんだ?」
「何、と訊ねられても私も遠江に行くのは初めてですからねぇ。武州から出るのは億劫で……」
「武州?」
「ああ失礼、琥州ですね、今は」

 陽姫のいる王城のある場所を琥山と言い、その琥山のある琥州はもともと武州と言われていた。けれど当代の陽姫が武に長ける者ではなく、どちらかといえば武力などを厭う性質であったため武州という名を改め、琥山という国の機関のある場所をとって琥州と名を変えた。けれどいまだその名はなかなか浸透していないらしく、町の人々は武州、と言ってしまう者も少なくは無いと言う。

「……昔の名前と、一緒なんだ」

 ぽつりと思い当たったことを美月は口にした。戒は首を傾げてそれは何かと訊ねる表情をした。

「東北の方は、陸奥の国とか奥州とか言いませんか?」
「東北ではありませんけど、西北はそういわれていますね。南東にある島は筑紫島、薩州や向州があります。美月はその国の名をご存知なのですか?」
「ううん、日本では昔そういう名前で呼ばれていたの。本で読んだだけだから、それほど知らないんだけど……遠江という場所もあった。ただ、東西が反対なんだけど」

 ほう、と戒は関心したように声をあげる。彼女がそういったことを知っているとは思わなかったのだろう。水杜や火杜もへえ、と驚いた顔をしている。彼らは元々仁本の人間だ。この国の裏側、日本のことは伝説として以外に知っていることはそれほどない。それでも、普通の人々よりも多くを知っているほうではあるが。
 美月は戒から地図を借り受け、それを空に向けて掲げる。光で透けて見える裏返しの地図、それこそが日本と同様の形をしていた。それを見て、美月は彼らに話しかける。

「これが日本の形。奥州は東北、九州……じゃなくて薩州、向州は南西にあるんだ。琥山のある場所は東京、あんまり場所は変わらないけど。だから遠江に行くには私の感覚だと西に行くんだけど……ここだと東西が逆みたいだから、東に行くことになるんだね」
「本当に裏側なんですねぇ」
「へえ、ホントにおんなじ形してるんだ」

 感心したように目を細めて彼らが地図を見て言うと、美月は苦く笑った。
 自分の知っていることなんてこれくらいで、自分が居た場所のことなんて何にも知らない。水杜や火杜、戒は自分たちの居場所も自分のするべきことも理解している。そう考えると、自分は本当に何も知らないな、と思わされる。

「二人はどこに住んでいたの?」

 気を取り直して訊ねると、彼らは言葉を濁した。火杜は苦く微笑みを見せて水杜は素知らぬフリをする。それに触れてはいけなかったのだろうか、と美月はそのまま言葉を飲み込んだ。
 わずかに重くなった空気を引きずって、彼らは足を進める。向かう先は遠江。豆州や駿州を抜けなければならない。それを言われた美月は、それぞれの国の名前と地図を照らし合わせて、日本のどの場所か、を当てはめていく。それでなんとなく距離を測るのだ。
 あまり日本と比較するのは良くないか、と思わなくもないのだが、それで国の形や行く先を覚えるには好都合だった。だからできるだけそのことは口に出さず、イメージを重ね合わせて自分の中で整理していく。
 遠い幻の国を思いながらでもなんでも、水杜や火杜、戒たちは彼女が必死でこの国のことを覚えていこうとしている姿は、微笑ましくも思えた。

 夜になって、途中の町で宿を取る。遠江まではまだ距離があるというのにまた何者かの襲撃にあうのは出来ればご免蒙りたい。そう思った彼らは宿帳には偽名を使い、部屋を確保した。
 それは水杜が南都でとった行動と同じだということに美月はそのとき初めて気付く。あの時、いや、こちらに来たときからすでに危険と隣り合わせだったのか、と。
 その夜、美月を一人にするのはさすがに危険だということで、水杜が同室になった。

「…………ちょっとだけ」

 深夜、水杜も眠りにつき、あたりが静まり返った頃、美月はそっと部屋を抜け出した。
 一人になりたい、と思ってもなかなか機会が無かったたにめそうすることが出来なかった。こうして宿を取っているのだし、それほど離れなければ大丈夫だろう、と思った美月は部屋を抜け出した。かといって、特に行く場所もない。階下にある広間で椅子に座ってぼんやりと思考の海に落ち込んだ。
 どうして、こんなことになったんだろう。
 ただ、月を見上げてから眠っただけなのに。ただ、ぼんやりとしていただけなのに。
 気付けば月の傍らにいて、気付けばびしょ濡れになって洞窟の町にいた。水杜や火杜、戒は美月を月姫と信じて疑わない。月姫着任をしていないということは彼らは理解していたけれども、それでも彼らにとって彼女は月姫以外の何者でもなかった。着任していないのならば、月姫足りえないはずなのだが、彼らの中では月姫は美月のことだった。

「……月姫って、なんなの」

 月姫は次代の月姫を任命できると戒が言っていたことを思い出す。ならば、琥山にいるだろう今の月姫を訪ねれば良いのではないのか、そう思ったりもしたのだが、それを水杜に言ったら彼は短く「現在、月姫は存在しない」とだけ言った。
 その言葉の意味は美月にはわからなかった。自分を呼び寄せたのは月姫ではないのか、その月姫がいないというのはどういうことか、と聞きたかったのだけれど、それを言った水杜の表情があまりにも苦しそうに見えたために、美月は問うことが出来なかった。
 広間の窓を見上げると、そこには月が浮かび上がっていた。

「美月」
「……水杜さん」
「水杜で良い。一人で抜け出すな」
「……ごめんなさい」

 小さくため息を吐いた水杜が美月の向かい側の椅子に座った。

「考え事か」
「……まあ、ちょっと。何か、信じられないことばかりだから」
「だろうな、無理もない。一人で考えたいというのも解からなくは無いが、ひとこと声を掛けていけ。勝手に抜け出されたら俺が同室になる意味がない」

 ごめんなさい、ともう一度美月が謝ると、水杜は解かれば良い、と言ってそれ以上何も言わなかった。彼にとって、美月は守らなければならないもの、自分の存在意義そのものである。だからといって、美月がここに存在する意味、月姫であるということは、美月自身によってまだ受け入れられていないのも理解している。だからこそ彼女が考えたいことがあると一人になるのも理解は出来るのだが、その間に彼女に何かがあっては意味が無いのだ。
 特に会話が交わされることもなく、水杜はそこに座って美月を見る。美月は先ほど言われたことを気にしているのかどうかは解からないが、窓の外を眺めている。大きな丸い月が、そこに浮かんでいた。

「……月が好きなのか」
「え? うん……小さいころから好きなの。なんか……落ち着く」

 そうか、と短く返事をして水杜もまた窓の外に浮かぶ月を眺めた。金色に輝く丸い月。それは何もかもを見通しているのだろうか、そんなことを思いながら。

「水杜さん」
「…………臣下に敬称はいらない」
「臣下って言われても……」
「火杜も戒も敬称はいらない。俺も同様だ」
「えと、みな……と?」
「何だ」

 憮然とした表情で水杜は美月を見る。美月はそれがなんともおかしかった。確実に水杜は美月よりも年上だろう。敬称を付けなくても良いと言われても迷うのは迷うのだが、むっとした表情で敬称をつけるな、と言われるとなんだかおかしかった。

「水杜は……四蓬になるのは、嫌じゃなかったの?」
「……ああ。どちらかといえば、四蓬になりたかった」
「どうして?」

 少なからず、それまでの自分と離れなければいけない。今の状況を考えると、それは美月の想像の範囲内にはあった。今まさに、自分がそうなりそうだからだ。けれどそれを知っていても四蓬になりたかったというのは、美月にはうまく理解できなかった。自分が自分ではなくなるような、そういう感覚は無かったのだろうか。

「四蓬になることで、俺は俺の存在の理由が出来る。だから四蓬になりたかった」
「……でも、水杜は水杜でしょう? 水杜がいるだけで、存在の理由はあるんじゃないの?」

 美月が聞くと、水杜は眉間に皺を寄せた。曇ったその表情を見て、美月は思わず黙り込む。また何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。そう思ったら次の言葉をすぐに出せなかった。
 ──四蓬。
 それは、継ぐものである。血統ではなく、その代に必要な能力が備わった者が次代の四蓬に任命される。そして四蓬になる代償は、それまでの生だ。それまでの生すべて、自身すべてを四蓬に任命されることで失うことになる。だが、それを迷う者はいない。これまでの四蓬に任命された者で迷った者、断った者がいたとは聞いたことがない。それだけそれまでの生に対して執着できない者が多いからだろう。

「……水杜?」

 考え込んでしまった水杜に美月が首を傾げて声を掛ける。はっとした水杜が彼女を見ると、どうかしたかと聞いてきた。

「いや。確かに存在しているだけで理由はあるのかもしれないが……確固たる理由が欲しかった。だから俺は四蓬になった。火杜もおそらくそうだろう」
「確固たる理由って、自分が嫌いだったの?」
「……そんなようなものだ。そろそろ部屋に戻るぞ。戒にばれたら何を言われるかわからない」

 水杜が立ち上がると、美月もまた立ち上がり水杜の後について部屋に戻った。
 水杜は考えていた。四蓬が四蓬になりたいと願う理由。それを美月に言うのは躊躇われた。それを言えば自分が水杜以外の自分を持たないことを言わざるを得ない。そのとき、まだ月姫に成りきっていない美月がどう思うか。そう考えると、口に出すことが出来なかったのだ。
 四蓬は、それまでの生を捨て、四蓬以外の生き方を出来なくさせる。「水杜」という名は継がれていくが、彼が生まれたときに持っていた名はどこにも無くなる。四蓬となったそのときに、四蓬はそれまでの自分を喪失する。名も、生の記憶も、すべて。ここに存在する四蓬という存在は、過去を持たない空虚なもの。それはきっと、幻の国から訪れて、帰りたいと願う気持ちがわずかにでもある美月にとって、あまり優しくない現実のような気がした。

(自分が嫌いだったのか、か……。確かに、好きではなかったかもしれない)

 その言葉は胸のうちに収められて、誰にも届かないものであったが。





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