8:海に潜む闇






 仁本という国は気候も日本とそう変わらないらしい。左右反転している遠江に向かう道のりの間に冷たくなっていく風を受けて美月はそれを感じていた。
 次第に渇いていく空気は、冬のそれと似ている。仁本でもまもなく冬が訪れようとしていたが、それは美月の知るところではなかった。

「はぁ、やっぱり気候がちょっと違うようですね」
「戒は寒いの苦手?」
「いえ、そういうわけでもないのですけれど。琥州より東にはあまり行ったことがないもので……美月は寒いのは平気ですか?」
「どっちかっていうと苦手かなぁ。動くの億劫になるし」

 確かに、と戒は頷く。ただの面倒くさがりじゃないのか、と火杜はぼそりと呟いていたが幸いして彼女たちには聞こえていなかったようでさらりと流された。
 美月だけならまだしも、戒のあの冷たい視線はどうにもいただけない。笑いながら殴られそうだ、というのが火杜の持つ戒の印象だった。そしてそれは、当たらずといえども遠からず、というところだろう。

「ところで美月。先日お会いした影の人ですが」
「……え?」

 影の人に会った、というのにはかなり語弊がある気がする。影の人≠ニいう表現もおかしいし、ましてや影だけが襲ってきたのだから。

「美月たちは一度お会いしたことがあるのですよね? 残念ながら、私は相手の風体を知らないので……どういった人でした?」
「えっと……名前は祐理、っていって」
「ああ、名前は良いですよ。覚える気もありませんから」

 微笑んで言うことではないと思う、と彼女たちは思ったが誰もそれには触れなかった。
 確かに覚えておきたいと思える名ではない。自分たちを襲撃してきた者など。だが、そうもあっさり吐き捨てることはないだろうに、と思うのも事実だ。まだあの男が本当に焼かれたのかどうか解かっていない。これ以上関わってこないならばそれに越したことはないのだが、また襲い掛かってくるようなことがあれば排除しなければならない。だからこそ相手のことを知っておく必要はあると思うのだが、それに名は必要ない、ということだろうか。

「黒髪で……火杜と同じぐらいの身長だけど、すごくやせ細っていて……目が、ぎらぎらしててちょっと不気味な感じで」
「……そんなに月姫降臨が嫌なんですかね」
「おい、そういう問題ではないだろう。月姫降臨なんて知る者はそういないはずだ」

 ここに一部の四蓬がいないことでも証明される。仲間の四蓬にも、月姫降臨が伝わっているのか謎なのだから、どうみても一般人、しかも夜盗風情が月姫の存在そのものを知っているとは思えなかった。

「だから不思議なんですよ。月姫降臨を嫌がるような立場にある人間ではないと思われるのに、月姫を狙って襲いに来るということが。美月、他に何かその男について覚えていることはありませんでしたか?」

 戒が聞くとうーん、と美月はうなって考えはじめる。祐理自身にそれほどの印象がない。どこか気味が悪いと思ったこと、怖い、という感情があったこと、それ以外には先ほど言った風体しか思い出せなかった。それでも他に何かあっただろうか、と考えて、あっと小さく声をあげた。

「そういえば……峯鳴の洞窟で会った時にも怖かったんだけど、南都で会ったときには少し目つきが変わっててなんか……背後に黒いもやみたいなのがあった、かな。あと……」
「あと?」
「目つきが変わってたんだけど……目が、深紫色になってた。こっちで珍しいのかどうか、わからないけど」
「深紫色、ですか?」

 こくりと美月が頷くと、戒はうなる。それを聞いた水杜と火杜ははっとしたような顔をして眉間に皺を寄せた。深紫色の目というのは、何か彼らに気にかかることだったらしい。そう思った美月は、首を傾げて彼らを見る。どうかしたか、と訊ねると、戒は苦く笑った。

「……深紫色、というのは禁色なんです」
「禁色って……使っちゃいけない色っていう、あれ?」

 はい、と戒が頷く。
 着用してはいけない色。人々が使ってはいけない色。確かに紫は高貴なる色、という印象がある。それは美月にとっても同様だが、この世界でも同じだとは思わなかった。
 なんと言っても、水杜は濃藍だし、火杜は朱色、戒にいたっては銀髪ときたら……紫が禁色、なんてことは思いもよらなかったのも無理はないのかもしれない。

「禁色を使用できるのは陽姫と陽姫に仕える四蓬のみ。同じ姫王といっても、月姫と星姫は使用できません。そして生まれた時からそんな色をしていたら確実に常人ではありません。しかも人の瞳が深紫……藤色に近い紫でしたら妖魔の可能性もありますが、深紫というと、ちょっと穏やかじゃありませんねぇ」

 苦く笑うことしか出来ずにはあ、とため息を吐く。思い当たることが何かあるのだろう。
 水杜と火杜にいたっては黙ったまま、あえてその会話には触れようとしなかった。
 彼らはそれから言葉を失った。下手なことを言うのはまずいと思ったのかどうかは誰もわからないが、誰も彼もが黙り込み、ただ足を進めることになった。静かな中に、足音だけが響く。次の町まであとどれくらいで着くだろうか、そんなことを思いながら、美月も足を進めていた。

 峯鳴から出て、豆州に近づいてくると海が近くなる。潮風が強く吹き始め、磯の香りが漂いはじめる。それまで山ばかりの場所だったというのに、少しの間続いた森を抜けると、広大な海が広がっていた。

「……うわあ」
「うーん、やっぱり海はいいなぁ」
「おや、火杜は火の属性なのに海が好きなんですか?」
「別に火を操るだけなんだから、好きなもんは水だっておかしくないだろ。っていうか、オレ、海好きだし」

 ぐんと大きく腕を広げて伸びをする。海辺でこれをすると気持ち良いのは何故だろう、などと美月は考えていた。
 けれど、火杜も戒も海を見て穏やかな表情をするのとは正反対に、水杜の表情は険しくなっている。眉間に埋められた皺は深く、まるで嫌悪するかのように海を睨みつけている。それを見た美月は首を傾げてそっと水杜に近づいた。

「……水杜?」

 はっとしたように水杜は美月を見下ろす。その顔にはわずかに険が残っていて、美月は心配そうに話しかけた。

「……大丈夫?」

 何が、というわけではない。海を嫌悪しているように見えたから、というよりも、どこか痛そうに見えたから、というのが本音だ。美月自身、どうしてそんな風に感じたのかはわからない。けれどどこか痛そうに見えて、辛そうに見えて……そうして口を開いてこぼれた言葉が、大丈夫かというものだった。

「……ああ、なんでもない」
「なら、いいけど……どっか、痛い?」

 その言葉に、眉間に寄せられた皺はよりいっそう深くなった。まずい、と美月が思ったのも間に合わず、水杜はふいっと知らないフリをして砂浜を歩き始めた。取り残された美月は、心配そうに水杜の背中を見ている。すると後ろから火杜が近づいてきた。

「……水杜か?」
「……うん。なんかまた悪いこと言っちゃったみたいで……ダメだな、なんか無神経すぎるのかも」
「気にするなよ、美月がまだオレたちのことをちゃんと知らないのは当然だし。あいつが海に来て嫌そうな顔をするのは、いつものことだから」
「そうなの?」

 ああ、と火杜は頷いた。
 本当のことを言えば、「いつも」と言えるほど水杜のことは知らない。だから水杜が海を嫌悪する理由は、火杜も知らない。それを知っているのは水杜だけだ。けれど実際はその水杜も知らない。幼い頃に何かあったのかもしれない。「水杜」になる前に何かがあったのかもしれない。けれどそれは、今の水杜の中に答えはない。ただ、嫌悪する気持ちだけが残っている。
 だが、美月は水杜が「水杜」になるという意味、四蓬が「四蓬」となる意味をまだ知らない。だから火杜は彼女に気にするな、ということ以上のことは言えなかった。
 潮風が吹き抜けて、彼女たちの髪を泳がせる。けれど、のんびり歩いている暇は無かった。次の町に早く辿り着かなければならない。そうしなければ、この海の広がる場所で野宿をしなければならなくなる。それはどうにか避けたい事態だ。

「まぁ、火杜がいますから火は使えますけどね」
「人を明かり代わりにするな」
「何を言ってるんです、明かりじゃなくて焚き火ですよ。凍えるのはご免ですから。夜通し起きていてもらいますからね」
「うわ、最悪……」

 そんな軽い会話も無力で、水杜は素知らぬ顔をして足を進めていく。火杜たちの会話はまったく耳に入らないのか、海を睨むように見ながら水杜は歩き続けていく。その姿を美月は心配そうに見ている。けれど水杜がそれに気付くことは、やはりなかった。

 数日かけて豆州を抜けて駿河に入る。豆州を抜けても、まだ海は続く。剣呑とした雰囲気を持ったまま歩き続けては居るものの、豆州で襲撃にあわなかったことで少しはほっとしていた。祐理はあれで焼かれたのか、それともあきらめたのかそれは解からない。けれども、こうしている間に襲ってこないということは、近くには居ないのだろう、と勝手に思っていた。
 けれど、それが油断であったことに気付いたのは、駿河に入ってからのことだった。
 海に近い町は活気に溢れている。この辺りにも当然のように洞窟の町はあったが、美月たちはそこには近寄らずに出来るだけ眺めの良い海の辺りを選んで歩いた。火杜や戒も水杜が海に対して嫌悪感を抱いているのはわかっている。けれど、あえてそうしたのは見通しの良い場所の方が被害が少なく済むからだ。水杜自身もそれをわかっているので、海に近い場所を歩くことになんら異論を唱えることはなかった。

 だが、それでも影は、動き出す。

 砂浜で渦巻く風が巻き起こった。海では激しく白波が寄せては返すのを繰り返していて、波の音が大きくなっていった。嵐でもくるのかと思えるほどに強くなっていく風に、彼らは不穏なものを感じ取った。

「……おかしい」
「おかしいな」
「おかしいですねぇ」
「何が!」

 水杜以下火杜、戒と続けておかしいとだけ言われても美月には全くわからない。海を見ている三人と同様に美月も海を見渡してみる。けれど、強い風が当たってくるのでまともに目も開いていられない。髪を押さえるようにして美月は振り返った。

「なんでいきなりこんな風が強くなるのぉっ!」
「そりゃもう、自然の風じゃないからだろ」
「はっ?」

 火杜がにっと不敵な笑みを浮かべて答えると、美月はきょとんと目を丸くする。異変って何だ。確かに月姫降臨で何かが変わってきているとは言っていたが、風が強くなるのは何の関係もないと思われる。だが、実際そう思っていたのは美月だけで、水杜と火杜は剣呑な顔をして海上を見つめていた。
 それは自然に起きた風ではない。自然の中にある風とはまったく違う。薫るのは磯の香りではなく、妬み嫉みの怨嗟の匂い。

「美月、こちらにいらしていてください」
「え?」
「あなたに害を与えるわけにはまいりませんから。火杜の火はこの風では消されてしまいますし、水杜、ここは頼みますよ」

 わかっている、と短く答え、水杜は剣を手元に出した。
 出した、といっても手のひらから光を発して現れる、というのは常識的にはありえない。けれどそれもまた美月の知っている常識で考えてはいけないのだろう。そもそも、水杜がそう言っていた。それを思い出した美月は、じっと水杜を見ている。
 手の中の青い光から出てきた長く細い剣。日本刀にも似ているような気がする。刀身が青黒く光り、海上にある太陽の光をきらりと跳ね返す。
 水杜が海に向かって剣を構えた。
 刹那。
 ごう、と風の音を立てて海から高い波が押し寄せてくる。美月たちを飲み込むには十分の高さだ。思わず目をつぶった美月は動くことも出来ず、水が覆いかぶさってくるのを待っているかのように立ち尽くしていた。だが、いくら待っても水は落ちてこない。そうっと目を開くと、美月の前には剣を構えた水杜が立っていた。
 横一文字に剣が空を裂き、波がばらばらと海の中に帰っていく。立ち上がった波が刻まれて落ちていくそのさまは、ガラスが落ちてくるようだ。けれどそこに響く轟音は、金属的な音は皆無、滝のそれに似ている。
 思わず耳を押さえた美月が正面を見ると、次の波が立ち上がり、先ほどの波よりも背が高いものが近づいてきていた。

「水杜!」
「下がっていろ!」

 それだけを叫んで水杜は飛び上がる。砂地を蹴り上げた水杜が剣で一閃。それで二度目の高波もまた滝のように落ちてきた。
 美月たちを飲み込もうとする波を水杜が剣で薙ぎ払う。すると波が崩れて落ちていく。崩れていくそれも水なのだから、それに飲み込まれたらひとたまりもない。けれどそれは、戒がすばやく結界を紡ぎだしたおかげで、辺りに大雨が降っている程度で済んでいる。

「火杜、後ろを!」
「おうよ!」
「氷刃!」

 戒が腕を掲げて叫ぶ。空から細いものが降ってくる。遠目に見ればそれは細い針のような雨に見えたが、それは確実に体積があるものだった。空を切って落ちてくるそれがさくりと地面に刺さっていて、次の波を崩していく。キラキラと輝く細い針、そして押し寄せる波。
 対峙する人間がいるわけではないので水杜は結界内で戦うことが出来ない。そのため降り注ぐ波のかけらで水杜の全身がびしょ濡れになっていた。

『……海里……沈メ……海里…………!』

 海が声をあげているように聞こえる。海の声は優しいものではなく、戦いを挑むもの。海里、と呼ぶそれは誰のことなのか、何のことなのか、美月たちには検討もつかない。けれど海はうめき続ける。叫び続ける。

『海里ヲ……沈メロ……!』

 その声と同時に、高い波が起こる。美月の背よりも数倍高い。近くの山など容易に飲み込んでしまいそうなほどの波だ。波が近づくのと同時に聞こえるのはうめく声。切なる訴えをしているかのような、嘆く声。

『オォォォォ……!』
「まずい……! 水杜、こちらに!」

 それまでの津波とは規模が違う。それまで襲ってきている波の何十倍もの怨嗟の声が響いてきている。ひとまずこの波をやりすごさなければならない。戒は結界をより強靭にすることでこの高波を乗り切ろうとしている。だが、水杜はまだ結界の外だ。

「水杜!」

 呼ばれるが、水杜はぴくりとも動かない。何かに捕らわれたのか、と戒が息を呑む。ゆらりと振り返った水杜の目は虚ろだった。

 ──そして次の瞬間、波が水杜を飲み込んだ。

 水杜を飲み込んだ海に、静寂が広がる。
 残ったのは、打ち寄せられた波と一緒に海底から強制的に連れて来られた木片や藻屑、そして……

「…………そんな馬鹿な」
「どこ行きやがった……!」

 砂浜にわずかに残る、もう一人の跡。波が砂を連れていく。わずかに残っていた水杜の足跡は、跡形もなく消えていく。そろそろと足を進める美月は呆然として海に引いていく波に近づいた。辺りを見回しても、どこにも水杜の姿が無い。つい先ほどまでそこに居たはずなのに。つい先ほどまで、剣を振るっていたはずなのに。

「……みな、と?」

 呼んでも、答えは返ってこない。
 ぶっきらぼうに、そして不機嫌そうに「何だ」と答える声が、聞こえない。

「水杜──っ!」

 叫ぶ声に答える者は誰もいない。
 


◆ ◆ ◆ ◆



 はじめてここに来て、黒い世界で何がなんだかわからなくて。
 そこに居たのが、水杜だった。
 どうしてここにいるのか、さっぱりわからないわたしに教えてくれたのが、水杜だった。どうしてだろう、ずっと水杜について行ったのは。水杜は、どこか安心させてくれたから。安心できるような言葉なんて何もなかったけど、どこに行けば良いのか教えてくれた。どうしたら良いのか、教えてくれた。

 ──ううん、そうじゃない。

 ただ、付いていくのが普通だと思えたから。一緒に行かなくちゃいけないような気がしたから。だから、水杜についてきた。
 守る、って。
 わたしを守ってくれる、って……そう、言ってたのに。





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