9:風が開く道






 凪いだ海は静かに波を打ち寄せる。微かに白くけぶる波頭は、そろそろと美月の足元に近づいては遠ざかって、まるで彼女の様子を気遣ってみているようにも見える。けれど彼女はそこから動かない。波の中にも入らなければ、打ち寄せる波を避けようともしない。呆然と海の遠くの方を見つめている。

「……まだ、怨みの声が聞こえますね。先ほどよりも遠ざかっていますが。せめて風杜がいれば……」

 風の守護者である風杜がいれば、あの波を力ずくでも押し込めただろう。地の無い海の果てに波を返すよう、風で押しやることも出来ただろう。けれど、現実には風杜が居ない。そして水杜が奪われた。
 水の守護者が、水に奪われた。
 それが何を表すのか、それは戒にもわからない。
 険しい表情をして戒は考えていた。美月はすぐ傍にはいるが、何も聞こえていないかのようにも見える。呆然とした瞳には、何も映っていない。それを気にかけた火杜が、何度か美月に声を掛けたが、何の返答も帰ってこないので注意深く美月の様子を見ている。

「……戒」
「はい?」
「杜貴を呼んで。杜貴が風杜の居場所を見つけているから、すぐに連れてくるようにと」
「……美月?」

 美月の様子がおかしい。それを感じた戒は彼女を見る。先ほどまで虚ろだった双眸は、きらりと銀色に輝いている。
 ──これは。

「火杜、ここに火を焚いて。狼煙になるよう、強く」
「あ、ああ」
「戒、早く」
「はい」

 銀色の瞳。それは彼らの君主の色。空の月は、太陽の光を受けて金色に輝く。故に、金色の月とも呼ばれるが、その太陽の光に似た金の色を持つのは陽姫の瞳だという。太陽の姫だから、太陽の光の色を持つ。
 だがこの地にある地底の君主が持つ月は、眩い銀の色に輝くという。それは陽姫と対となる色。月姫とは、太陽に照らされて存在する月とは違い、陽姫とは相反する場所に居る。だから月姫の持つ色は、陽姫と相反するものだといわれている。
 それは月姫という姫王を語られる伝説の一つで、その真偽を確かめた者はない。真実知っているのは、代々の月姫と四蓬……つまり、代々の月姫に携わった者だけだろう。
 そして今、ここで戒と火杜は目の当たりにした。月姫という己の君主の輝きを。
 美月の銀色の双眸は海に投げかけられる。虚ろにも見えたその目は、今は何かが燃え滾っている。美月自身の中にくすぶる君主の炎が、燃え始めていた。
 美月が見ている先は、海と空の境界線。遠くに見えるその場所は、夕暮れ時が過ぎ薄闇が降りてきた頃その境界を隠し始めた。
 火杜が焚いた火は煌々と辺りを照らしている。戒が呼び寄せた杜貴が到着するのを待つように、今は海を見つめたまま時を過ごしている。

「……なあ、戒」
「はい?」
「美月、どうしたんだ?」
「……もしかしたら、自力で覚醒しているのかもしれませんね」

 険しい表情をした戒がぽつりと呟く。それを聞いた火杜ははっとして美月の後ろ姿を見つめた。その背中は先ほどまでと全く変わっていない。小さな女の子の背中。けれど、漂う空気は全然違う。それまでよりも何十倍もぴりぴりしたものが漂っている。
 火杜は炎に目を落とした。
 杜貴はまだ現れない。そして水杜の行方はまだ知れない。
 すぐにでも探しに行こうと思った火杜はそれを美月に止められた。ここで待てと。何故だと聞いても、美月は答えなかった。銀色の瞳は、有無を言わせずここに留まらせるほど、強い光を宿していた。

(……あれ、なんだったんだ)

 炎を見つめたまま、火杜は口をつぐんでいる。戒もまた何も言わず、険しい表情をして焚き火を見つめていた。そのとき、ふわりと暗闇が裂かれる。白い羽が柔らかい風をまとって現れ、すぐにそれは美月の肩に寄り添った。戒が呼んだ杜貴が到着したようだ。

「杜貴、風杜は」

 美月が呟くと杜貴は空を舞う。大きく広げられた白い羽は数回だけ羽ばたいて風を起こす。そして東の方へと首を向けてくる、と啼く。それを聞いた美月も同じように東の方向へ視界を動かすと、その先に広がる茂みがかさりと音を立てた。
 火の傍にいた火杜は立ち上がり太刀を構える。太刀にはすでに炎が宿っていて、太刀がオレンジ色に燃えていた。戒もまた同様に立ち上がり、腰を低くして構えている。剣呑な表情は草むらに向けられ、そこから現れる者を待ち構えていた。

「いたたたた……ったく、杜貴ぃっ、ホントにこっちで良いんでしょうねーっ?」

 女性の声が辺りに響く。夜の海辺は人気がないので余計にその声が高く響いていた。その声を聞いた火杜が構えを解いて太刀を下ろした。戒も同様に普通に立って苦く笑っている。
 草むらから現れたのは、緑色の髪の女性だ。ゆるく波うったその髪は背中の中ほどの長さでやわらかくうねっている。きょろきょろと動かす瞳も髪と同じで緑の色をしていた。いつもの美月ならばそこでまた驚くところなのだろうが、彼女はゆっくりと口を開いた。

「風杜」

 ぽつりと呼んだその声の持ち主の方へ首をめぐらせる。にこりと笑った美月に風杜は駆け寄り、抱きついた。

「月姫ね! やっと会えたわーっ!」

 歓喜の叫びがやはり響く。突然の叫びに火杜は思わず耳を塞いだ。戒はやれやれ、といった表情でそれを見ている。美月はといえば、初対面の人間だというのに、微笑を浮かべたままでいた。

「まったく、なんで現れたなら現れたって教えないのよっ!」
「風杜、あなたもわたしが来たことに気付かなかった?」
「え? ええ……そうね、私には聞こえなかったわ。杜貴が来てくれなかったらずっと気付けずにいたかもしれない。まあ、月が出たからもしかしたら、とは思えたけれど」
「そう……」
「おかしいわよ、どうして四蓬が月姫降臨を知ることが出来ないの? どうしてそれを杜貴が知らせているのよ?」

 それは誰にも答えられなかった。誰もがそれを知りたいところだ。月姫がこうして存在しているのにも関わらず、四蓬がそれに気付くことなく訪れる時を待っていたのだから。
 だが、今彼らが話したいのはそんなことではない。もっと現実に近いこと。つい数時間前に起きた出来事のことだ。

「風杜、着いて早々悪いのだけど、水杜を探してほしいの」
「水杜? 水杜って……一緒じゃなかったの? 杜貴は火杜と水杜と律師がいるって言ってたけど」
「いた。いたけど……数時間前に、攫われたの」
「……穏やかじゃないわね、どういうこと?」

 風杜が訊ねると、戒がそれまであったことの説明を始めた。最初に月姫と会ったのは水杜だったということ、そしてその後火杜と戒が合流し、今は遠江に向かっていること。峯鳴では祐理に襲われたこと、数時間前にこの海に襲われたこと、そして……水杜が消えたこと。
 かいつまんで、という形ではあるがそれはいたしかたないだろう。実際その場にいたのではないのだから説明のしようがないところは多々ある。だから要点だけをまとめてわかりやすく戒が風杜に説明した。
 頷きながら、風杜はその説明を静かに聞いている。一通り話したところで、うーん、とうなり声を上げた。

「……なによ、それ。水杜は水の守護者よ? どうして海がその水の守護者を攫うの」
「わからないんですよ、それが。わかるのは、海が怨嗟の声をあげていたこと、その怨嗟は海里≠ニいうものに向かっていたこと。けれど居なくなったのは水杜、ということ」
「じゃあ何、水杜が海里≠セとでも言うわけ?」

 それは戒も考えた。けれどそれの真意はやはり定かにはならないのだ。四蓬は真の名≠知らない。覚えていない。たとえここに水杜がいて、彼に水杜が海里≠ゥと聞いたとしても、きっと答えは出てこないだろう。
 そして結局、答えは闇の中。
 答えは、誰も持っていない。
 誰もが難しい顔をして足元を見つめている。火杜の焚いた炎のおかげでその付近はだいぶ明るい。その炎の明るさの前で、誰もが言葉を失っていた。

「水杜が海里≠ナあろうとも、彼を沈めさせるわけにはいかない。彼は、わたしの四蓬なのだから」

 誰もが黙りこくる中、ぽつりと美月が呟いた。はっとして火杜と風杜は顔を上げ、美月を見る。彼女はにこりと微笑んだ。そしてそれを見た戒が息を呑む。

(これは…………これでも、覚醒していないというのか……?)

 瞳の色は月の輝きの色。あれから美月の瞳が元の黒の瞳に戻っていない。そして、明らかな存在感の違い。美月のままここに居たときとは違う、それよりもずっと強い存在感がそこにある。

「いずれにしても、水杜をこのままにするわけにはいかない。風杜、風を」
「何をする気?」
「水杜を呼ぶ」

 それだけを言って美月は立ち上がる。
 広大な海に向かって歩き始め、打ち寄せる波に向かっていく。小さくさざめく波はそっと美月の足に触れてまた海原へと戻っていく。その中に美月は自ら足を入れて、歩いていく。火杜と戒はなす術もなくその場で立ち尽くしている。風杜は美月のあとに続いて海に向かって歩いていった。
 波が引いても足が海から出なくなった辺りで美月は足を止める。海原に向かって両手を広げた。そしてそれより数歩下がったところで、風杜は小さく何かを呟いている。刀印を結んで、瞑目した風杜が言葉を紡いでいる。さわりと風が吹き始めた。次第にそれは強くなり、海に広がる小波が大きく揺らぎはじめる。水面に映った月がゆらりと揺れる。
 月の波紋から静かに白いものが揺らぎ始める。

「月姫の名において命ずる。光の道よ、海の闇を指し示せ。四蓬、水杜。海の闇より立ち戻れ」

 風杜の起こした風によって美月の髪は舞い踊る。広げた両手を空にかざし、美月は月を見上げている。空に浮かんでいる月が銀色の光で海上を灯す。何かを指し示すように一点だけを目指して光の道が出来た。美月はくるりと振り返る。

「風杜、あの水面を切り裂いて」
「了解」

 短く答えた風杜は言葉を呟きながら、腰帯に刺していた扇を取り出す。両手に握られた扇をぱっと広げると、扇の端がきらりと光る。すっとその扇を空に向けて構え、袈裟懸けに光の道を切る。その扇の起こした風が音を立てて海面にぶつかる。風が水面を走り、斜めに切り裂かれた海はしぶきを上げる。そのしぶきから、ぷかりと浮かんだ一粒の泡があった。

「……水杜!」

 泡の中には、うずくまった水杜がいた。
 小さくうずくまった水杜は、指先に鈴をぶら下げてただそれを見つめていた。

「四蓬、水杜。戻りなさい。月姫のもとへ」

 ぷかりと浮かんだ海の泡は音もなく小さな光だけを灯して美月に近づいてくる。ゆっくりと泡が近づいていくと、海が咆哮をあげた。

『返セ……! 渡サヌ……!』
「また水が襲い掛かりますか……!」
「くそっ、水が相手じゃオレにはどうにも出来ねえじゃねえか!」

 火杜が険しい顔をして海を睨むと、海に近い方から高い声が上がる。

「退かせなさい、海神よ。それは海里≠ナはなく水杜。この四蓬は月の王のもの、海神にでも渡すわけには参りません」

 毅然とした声が高らかに海に向けて投げかけられる。美月の声は、先ほどまでより冷たく響く。火杜と風杜は息を呑む。
 戒はごくりと息を呑む。
 ──あれは、誰だ。
 美月と同じ姿をした別人。そのようにしか見えなかった。それまで一緒にいた、何もかもがわからないといった美月の表情とはまったく違う。
 けれど、彼女のまとう銀の光。それは月姫が持つ姫王の光。美月を覚醒させるには、守の力が必要なはず。だが今、その人はここにはいない。なのになぜ美月が月姫に見えるのだろう。美月が月姫であるというのは四蓬と律師にとってすぐにわかるもの。だから彼女が月姫として降臨したのだということは戒も十分に知っている。
 けれど、美月自身がそれを理解していなかったために、月姫の輝きはまだ宿っていなかった。覚醒していない月姫は、ただの人と同様なのだ。
 それなのに。
 そこにいるのは月姫そのもの。銀の光を宿したその人が徒人であるはずがない。では、月姫とは何者だ。月姫というのは、魔封じの力を持つという。その月姫とは、何者なのか。
 ──その答えは、月姫が持っていた。

「その怨嗟は彼に向けられるべきものではありません。彼は罪を贖った。これ以上を求めることは、我が神も許されません」
『渡サヌ……海里<n沈メネバナラヌ……!』
「海神よ、聞こえないのですか。水杜は赦しを得た者です。赦しを得た者を、怨む者にされるがまま捕らえさせるのですか」
『……月の姫よ、それはまことか』
『沈メロ……海里<鋳セメロ……!』

 怨む声と海の声が響きあう。怨む声は、彼を沈めろと叫び続け、海の声は、月姫に真実を問う。それに向かって、美月はわずかに微笑んだ。

「彼は四蓬。四蓬とは姫王を守る者。そして姫王は──神の代行者。海神よ、我が神を信じることは出来ませんか」

 月姫に侍る者が罪人であるはずがない。神が選ぶ月の姫の守護者が罪の赦しを得られずに守護者となれるはずがない。それは、誰も知らない真実。歴代の姫王と四蓬、律師以外は知りえない事実。
 姫王とは、神の定める者。神の代行者。
 だが、ここにいる四蓬はそれを知らない。月姫が、月姫ではなかったために。
 先代の月姫と四蓬たちは、何も残さずに姿を消した。だから姫王が神の代行者ということは誰も知らない。知るのは現在ある陽姫と星姫、そしてその四蓬や律師だけ。その場にいた火杜も風杜も戒も知らなかった、その真実の言葉をごくりと飲み下す。

『良いだろう。この怨嗟は我が留め置こう。月姫よ、今は我が力でお前を助けよう。だがこれからも神の加護の前に歪みが起こっていくだろう。失われし影に気をつけるがいい、月読の姫──』

 海神の静かな言葉がこだまする。荒れた波は、海神によって静かな海に変わっていく。怨嗟の声は遠のいて細くなり、やがて消えていく。海から上がった一粒の泡は、美月の足元でぱちんと割れた。

「水杜!」

 火杜と風杜が彼に駆け寄る。先ほどのうずくまっていた、悲しそうな顔をした男はそこにはいない。険しい表情をして眠っている、水杜の姿がそこにある。
 美月は振り返り、彼を見下ろす。ふわりとわずかに微笑んで、意識を手放した。





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