4:春の夜






 ゆきに待ち受けていたのは、親友、ちやの仕事の愚痴だ。ちやの家へ行く途中、ゆきは缶チューハイを何本か買い込んだ。一応ちやの家にも安酒は常備してある。当然、ゆき用にちやが用意してくれているのだ。
 本来、ちやもそれなりに飲めるものの、ゆきとは飲む量は比べ物にならない。それに、日常的に飲んでいるわけではないので、常備しておく必要はあまりないのだ。
 だが、それがあるというのは、お互いの家をよく行き来している二人だからこそだろう。
 そして常備してある酒があるのはわかっているものの、一応少しぐらいは買っていくのがゆきの心遣いであった。まあ、それもほとんどをゆきが飲むのだけれども。

「……は? 声優?」

 ちやの家に行ってすぐ、お疲れさま、と乾杯をした二人の話題は、今日の出来事である。もちろんちやは愚痴を言いたくてゆきに連絡をいれたのだが、ちやにはゆきの「今日の出来事」の方が気になったようだ。
 先日の飲み会の時に偶然会った男のことは、まだちやに話してはいなかった。たまたま偶然、飲み屋で遭遇しただけの人物であり、その人物とまた遭遇することになるとは露ほども思わなかったからである。
 だが、今日の出来事を話すには、そこから触れていかなければならず、ゆきはそれを説明した。飲み屋で会った男と再び偶然会ったのだと。そしてその人物と今日は居酒屋に行ったのだ、と。
 それを告げると、ちやはぽかんとした顔をしていた。それも仕方のないことだろう。ナンパの類は、ゆきもちやも大の苦手としていて、確実に声を掛けられても無視をする。居酒屋で偶然会った相手がナンパ目的ではなかったことは、今ゆきから聞いて理解したけれども、それにしても、である。
 見ず知らずに近い人間といきなり呑みに行くとは。

「声優なんて初めて見たよー。芸能系の知り合いなんて一人もいないから」
「そりゃね、数少ないし。演劇やってます、って人ならその辺りにいるかもしれないけど、第一線でって人はねえ……。ね、その人なんて名前だって?」
「あ、えっと真幸龍二ってひと。えーっと……あった、こういう字」
「ちょっと待って」

 メールに入った文字をゆきが見せると、それを受け取ってぱっと立ち上がったちやはパソコンに向かってぱちぱちと何かを打ち始めた。

「この人?」
「あ、そう、この人!ちょっと若い気もするけど……すごい、ネットに写真載ってるんだ」

 パソコンの画面に映る小さな写真は、龍二のプロフィールなどと一緒に掲載されていた。真幸龍二、誕生日や血液型、身長までも載っている。ただ少し不思議なのは、生まれた年や年齢が載っていない事。

「芸能人だと年齢はあんまり表に出さないってことなのかな?」
「さあ……そうかもね。でもゆきはその人の年、聞いたんでしょ?」
「うん。33歳だって」
「え、見えないねー。この顔ならまだ20代でいけるんじゃない?」

 とはいえども、ディスプレイに映った写真は、龍二の少し若い時の写真である。もちろん、そんなことはちやの知るところではない。
 興味津々、といった様子でちやが龍二の出演作品などを見ていく。ちやはマスコミ関係の仕事をしてはいるものの、芸能人とは縁遠い。だから出演作品を見ても見たことも聞いたこともないものが多かった。あるとすれば、洋画吹き替えぐらいだろう。
 だが、ゆきもちやもどちらかといえば洋画は字幕派である。吹き替えで見るとしたらテレビで放送しているとき。つまりキャスティングが一定していないことがある。

「どこかで聞いたことはあるかもしれないけどね」
「そうだねぇ。ちや、知ってるのないの?」
「この映画あたりはDVDで見たけど……字幕で見たからなあ。テレビでやったときに見た気がするけど、さすがに声は覚えてないよ」
「それもそうか」
「今度探してみたら?」
「うーん」

 別にそこまでする必要はないとも言えなくもない。だが、ゆきとしては好みの声ではあったことは確かである。だからすこしばかり興味がある、というのも事実だ。レンタルで探してみようか……などと思いつつ、ゆきが出演作品のタイトルを眺めていると、ぶーん、と音が響いた。

「あ、真幸さんからだ」
「アドレス教えたの?」
「あー、うん、成り行きで」

 生返事をしながらゆきは携帯電話を弄っている。ぽちぽちと押してメールを見ているあたり、少しばかり文章が長いのか、などとちやは思っていた。
 すぐさま何か打ち始めたあたり、ゆきも返事を送っているのだろう。微かに頬が緩んでいるのは気のせいではなさそうだ……などと思いながら、ちやはにやりと笑ってパソコン画面を見ていた。

(それにしても多いなー)

 龍二の出演作品履歴を見ていると、古いものもあれば新しいものもある。ちやが知らないものが多いのだが、出演量は相当なものだ。スクロールバーが短い。かりかりとスクロールを下ろして見ている間に、ゆきのメールも終わったのか、ぱちんと携帯電話を閉じる音がした。

「終わったの?」
「うん。今日はお疲れ様ーって」
「マメな人だねえ」
「そうかも」

 実際のところはゆきの知るところではないのだが、わざわざメールでご連絡をくれるのだから結構マメな人なのだろうと思えた。それはゆきにとってはプラスの評価である。偶然から始まったものではあるけれど、少しだけ親しみが湧くものだ。
 それに相手は仮にも芸能人、と言える人である。しかもあの呑みのあと、家に帰って台本を読むと言っていたのだ。仕事に対するマジメな一面も少しばかり覗いてしまった。ゆきは仕事にマジメな人間というのは大好きだ。
 出会ったときにも別に悪い印象を持っていたわけではないうえに、ゆきにとってはプラスの評価が続いていく。龍二に対して興味を持つのに、それほど時間はかからなかった。



 三月の終わりに、送別会があった。不満だらけの送別会の中で偶然出会ったのが龍二である。そして四月の初め、桜が辺りに咲き誇り、陽射しが暖かくなってきた頃。

「暁さん、今日の歓迎会の会費くれる?」
「あ、はい」

 三月末の送別会から二週間程度。そしてまたすぐに歓迎会。この季節は歓送迎会という交際費が意外とかかるものである。そして、また不満の残る飲み会になるだろうこともわかっていた。
 そうまで思うならば参加しなければ良いだろう、というのもわかってはいるのだが、さすがに歓迎会を無視するわけにはいかないだろう。しかも歓迎会の主賓は、同じ部に入る女の子だ。たとえ坂上のようにうまく折り合いがあわなかろうとも、最初にゆき側から拒否するのは失礼とも思えた。
 今日の歓迎会のある場所は、前回の送別会と同じ場所。少しばかり複雑な心境である。
 あれから龍二や楠原とは会っていない。一度だけ二人からメールが来たことはある。楠原からは「また呑みましょう」というお誘いだったし、龍二からは「元気ですか?」という近況報告的なメールである。
 そしてゆきは、返事はするものの、自分からはメールを送ってはいなかった。
 さすがにまだ二度ほどしか会っていないし、彼らの仕事が声優という仕事なだけに、どういった時間帯に連絡するのがベストなのかもわかっていない。自分で受ける分には仕事中だろうがさほど気にならないのだが、彼らが仕事中にメールを送るのはまずい気がしてしまったのだ。
 夜に、といっても普通の会社で働いているのとは違う彼らの生活時間帯が、よくわからない。そうして結局、二週間、ゆきからは一度もメールを送ったことがないのだ。
 ちやに言わせれば「だからメールがあるんでしょ!」ということだったが、たとえメールでも思い切れないのがゆきであった。
 夜になって、歓迎会が開かれる。そしてやはりというか何と言うか、送別会の時とそれほど空気は変わらない。新人さんが二人ほどいるから、その二人は話をしているからまだいいけれど、新入社員の歓迎会だというのに、はりきっているのは坂上で、いつも仲が良い女性社員や集った男性社員と楽しそうに話をしている。新入社員などそっちのけだ。
 次第にイラついてきている自分に気付いて、ゆきは席を外した。
 トイレの前に行くと、思わず二週間ほど前の「あの時」を思い出した。

(あれは……痛かったっけ?)

 出来事としては思い出せたのだが、実際痛かったのかと聞かれるとよく覚えていないのだ。酒も入っていたし、さほどでもなかったのだろう。たとえ翌日、少し痣になってはいても。
 トイレではあ、とため息をついてから外に出る。ああ、気をつけないと外の人にぶつけるんだっけ……と思い出しながら扉を開けると、どんっと扉が押し戻された。

「え!」

 やってしまった! と思ったゆきはそっと一瞬戻ったドアを開けた。人影がひとつ。背の高い男性の背中が見えた。

「す、すみません」
「あ、いえいえ、だいじょう……あれ? ゆきちゃん」
「へ?」
「久しぶりー」

 ドアの向こうにいたのは、にこりと笑った龍二だった。

「真幸さん!」
「今度はオレがぶつけられたみたいだね」
「あ、う、あああ! そうでした、大丈夫ですか!?」

 一瞬固まったあと、ゆきが慌てて細く開いたドアから外に出た。その場所の狭さを知っているからか、龍二がすっと足を引いてくれる。ひと一人分の隙間がちゃんと出来ている。

「大丈夫大丈夫。ちょっと背中ぶつけただけだから」
「え、じゃあノブが……」
「あ、ちょっと刺さったかも。それより、ゆきちゃんはどうしたの? また送別会?」
「いえ、今日は歓迎会で……って真幸さんはまた打ち上げ?」
「んにゃ、打ち入り」

 ふるふると首を横に振る龍二の顔は微笑んでいた。前回会ったときよりも、いくらか気さくな雰囲気が強く感じたゆきは、ああ、知り合いなんだな、と改めて思ってしまった。
 その前に出会ったときも、まあいきなり花束を渡されたりしてはいたけれど、当然、その時のように不信感は持っていない。ゆき自身の心境の変化、ともいえるかもしれない。

「春の番組のね、もう始まってはいるんだけど、仲間内でちょっと」
「そうなんですか」
「大丈夫? 今日は不機嫌になってない?」
「え……?」

 突然聞かれたゆきはきょとん、と目を丸くする。すると、龍二は少し困ったように眉根を寄せて微笑んだ。

「会社のだったらそんなに変わらないかー、って、トイレの前で話してるのっておかしいよね?」
「……そういわれてみれば」

 一度目にしても二度目にしてもすでに何度目だ? と思いながらゆきは考える。なんでまずはトイレの前、しかも扉をぶつけあってるんだ私たちは、と。トイレから始まった出会いなんて、少しばかりイヤだ。
 こいこいと手招きされて、ゆきは龍二の後ろをついていった。座敷席を抜けて、ゆきの会社の飲み会の場所には近づくこともなく、出入り口付近の少しだけ静かな場所で、龍二が立ち止まった。

「それにしても縁があるね、この店は」
「そうみたい……ですね。今日は楠原さんも?」
「いや、クッシーはいない。この番組は出てないから。それより、大丈夫?」
「は……?」

 龍二としては気がかりなのはゆきの方である。初めて会ったときもこの店だった。次に会ったときに、あの時は会社の送別会だったのだと聞いている。送別会、という場所の飲み会で、「機嫌が悪いだけです」と笑ったゆきを、龍二は忘れてはいなかったのだ。
 今日、この日も会社の飲み会だというなら、また気分を悪くしているのではないか、と気になるのもしかたない。
 だが、前回そんなことを言ったのを、ゆきはすっかり忘れていた。

「そういえば……そんなこと言いましたっけ」
「言ったよ。忘れてたの? うわ、オレ結構びっくりしたのに。オレ何かしたかなーって。いやまあ、ドアぶつけたけどさ」
「いえいえそれは……今日は私がやっちゃいましたし」
「絶対あのドアは替えるべきだな。他にもおんなじ目に会ったヤツ、絶対いるって」
「まあ、それが最初で知り合いになる人はあんまりいないでしょうけどね」

 それもそうかも? と龍二が笑うと、ゆきもくすくすと笑った。彼らもトイレでドアをぶつけたからといって、知り合いになったわけではないのだが。実際はそれはきっかけに過ぎず、そのきっかけのあとに何度も顔をあわせたりしたせいだ。そう思いたい。トイレだけが原因だなんて、ちょっとどころかかなりイヤだ。そんなことをゆきは思っていたけれども。

「まあ、無理はしないで、あんまり気分悪くなりそうだったら、早く帰っちゃったほうがいいよ?」
「はあ……まあ、一次会しかいるつもりはないですし。それさえもきつかったらとっとと帰りますよ」
「うん、その方がいいよ。仕事と思って割り切れるならいいけど……そうでもないみたいだしね?」
「仕事に影響出ないように出てきたはずなんですけどねえ……」

 なかなかうまくいかないものだ、とゆきが言うと、龍二は苦く笑った。うまくいくように、と努力しても、本人だけの努力ではうまくいかないことなどいくらでもある。それはゆきだけでなく、龍二だって同じだ。

「なんだったら、オレたちの所来てみる?」
「え! いやいや、いいですよ! 無理ですから、私、人見知りするし!!」
「嘘だあ!」
「嘘じゃないですよ!!」

 いくら必死で弁明しても、いまや龍二とこうして話をしているのだから、あまり信用できるものではなかった。それはおそらく、ゆきが龍二に「オレ人見知りだから」と言われても納得しないのと同じだろうが、多分どちらが言っても、どちらも納得しなければどちらも必死で弁明することだろう。

「あ……」
「え? あ……坂上さん。お疲れ様です」
「…………お疲れ様です」

 龍二と話しているところを坂上が通りがかり、ゆきに気付いた坂上がそっけない挨拶だけをして通り過ぎていった。あの愛想のなさはどうにかならないものか、とゆきは無意識にため息をついてしまった。

「今の、会社のひと?」
「あ、はい。同じ部で、似たような仕事をしてる人です」

 ゆきが頷く顔を龍二が見ていた。一瞬で無表情になったゆきを、彼は見逃さなかったのだ。
 坂上が通りかかったときに、一瞬だけ浮かべた微かな笑みは愛想笑いだろうけれども、ゆきの同僚はそれを一蹴して、ぼそりと挨拶だけをして通り過ぎていった。愛想笑いのかけらもなく、だ。
 ちらりと自分と目があったことに龍二も気付いて、わずかに会釈したのだが、相手はふいっと目を背けてとっとと通り過ぎていった。

「ゆきちゃんの苦手な相手?」
「いえ、別に?」
「笑顔が怖いよ、ゆきちゃん……」
「あはは、冗談ですよ」

 愛想笑いではなくあの「機嫌が悪いんです」と言ったときと同じような笑顔を浮かべたゆきに、龍二が笑って返した。
 笑って誤魔化していたゆきではあったが、感情が顔に出易いのか、決して誤魔化しきれてはいなかった。

「一次会ってあとどれくらい?」
「え? あー、そうですね、あと一時間ぐらいじゃないですか?」
「一時間も耐えられる?」
「何がですか?」

 にこりと笑うゆきではあったが、龍二は心の中で呟いた。「無理だろうな……」と。その一時間の間に、ゆきは何度席を立つことになるのだろうか。それはゆき自身がわかっていた。少なく見積もって一回。一回は席を立つことはすでに彼女の中に確定事項になっていた。もちろん、龍二には言わなかったけれども。

「そろそろ戻らないと。真幸さん、いつまでトイレ行ってるんだー! ってお酒呑まされちゃいますよ?」
「そんなことするようなクッシーはいないから大丈夫だけど。ま、ゆきちゃんも席外しっぱなしになっちゃうしね。じゃあ、頑張って」
「何をですか」

 くすくすと笑ってゆきはじゃあ、と自分の宴席へと戻っていった。真幸は少し心配そうな顔でゆきを見送る。かといって、何を出来るわけでもないので、真幸もまた踵を返して自分たちの宴席へと戻ろうとした。
 ふとすれ違った相手と目があう。先ほどの、ゆきの同僚、坂上だ。
 ぺこりと龍二が会釈すると、相手はちらと見てから会釈をする。微かに彼女の唇の端が上がったのを、龍二は見逃さなかった。

(あー、ゆきちゃん、ごめん、オレ別に悪気はないんだよ……)

 心の中で、龍二は謝っておいた。この先のことを少しばかり予測して。





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