3:姫王






 水杜の足は止まらなかった。
 特に何かを話すわけでもなく、淡々と水杜は歩き続ける。美月も必死でその後を付いていく。砂と石が多く、美月には決して歩き易い場所ではない。さすがに美月とのコンパスの差を考えてはくれているのだろうが、一向に止まる気配の無いその状態が続いていたので、美月は息が上がってきている。
 時折振り返り、水杜は美月がすぐ後ろを歩いていることを確認する。
 けれどそれ以上は何もない。淡々と、歩き続けるだけだった。

「み、水杜さん……っ」
「……どうした?」
「あの、隣の町……て……っ」

 息が上がった状態で美月が訊ねる。切れ切れになる美月の言葉を聞いて、水杜は足を止めて振り返った。

「……大丈夫か?」
「はあ……一応、今の、ところは」

 このまま歩き続けて、水杜に追いついていける自信は、美月にはない。だから今のところは、という返事になった。
 けれどそう言われた水杜はその言葉の意味が良くわからなかったのか首を傾げる。
 数歩離れていた美月は水杜に追いついて、膝に手を置く。呼吸を整えようと、浅い呼吸を何度かしてから深呼吸をした。

「今は早く隣の町に行きたい。そこで説明するからしばらく我慢して歩いてくれ」
「どうして隣の町なんですか? あの洞窟の町じゃダメだったの?」
「あそこでは誰に聞かれるかわからない」
「……?」

 首を傾げた美月のことは知らない素振りを見せて、水杜は行くぞ、とだけ呟いた。
 美月は再び歩き始めた水杜のあとを追いかける。
 今、この状況を一番良く理解しているのは水杜だ。だからこそ今ここで水杜に置いていかれるわけにはいかない。水杜ならば知っている、と美月は思っている。ここがどこなのか、自分の身に何が起こっているのか。すべて水杜が知っているような気がしていた。
 それから、どれほど歩いただろうか。歩き続けたその足は、さすがに疲れが表れていて、次第に歩く速度が落ちてきていた。それに気付いた水杜は少し歩くスピードを落としはしたが、止まりはしなかった。時折振り返り、美月を見る。美月はその瞳を気にかけながら必死で水杜のあとに付いていった。
 砂と石がオレンジ色に光り、その色も翳ってきた頃、辺りに人影が多くなってきた。隣の町に到着したのだろうか、と思いつつも美月は黙々と歩く水杜のあとを追いかけている。

「ここで待っていろ」

 振り返った水杜がそう言ったのは、人影が増えたところからしばらく歩いたころだった。建物がちらほらと見えて、人が歩いている。隣の町に着いたのだろう。
 水杜に言われた美月はそこで立ち止まり、水杜が建物に入っていくのを見てから呼吸を整えていた。
 水杜が入っていった先を見ると、看板がぶら下がっている。舷楼宿≠ニ書かれたその看板を見上げた。宿という字があるのだから旅館のようなものだろうか、と美月はぼんやりと考えていた。

「美月」

 建物から顔を出した水杜が呼ぶのを見て、美月は建物の中に入る。建物の中はひっそりとしていて、長いカウンターテーブルの奥に人が一人だけ立っていた。
 テーブルの中の人がぺこりと頭を下げるのを見て、美月もあわてて会釈をした。

「今日はここに泊まる」

 そう言って水杜はノートに記帳をする。そこに書かれた名前に、水杜や美月の文字は無く、覗き込んだ美月は目を丸くする。自分の名前がない上に、知らない人の名前が書き込まれていたからだ。

「こちらが鍵です。向こうの階段で二階へどうぞ」
「ああ」

 カウンターテーブルの中の人物から鍵を受け取った水杜は奥へと向かう。その後に美月も続いた。
 そうして向かった部屋は、いくらか古ぼけた感じではあるが、それなりの広さのある部屋だった。室内にはベッドが二つ、小さなテーブルが一つと椅子が二脚。けれどそれ以外には何もなく、広さはそれなりにあっても、ものに関してはとにかく質素なものだった。
 木造のテーブルの上には紙が一枚ぺらりと置いてあってそれを無造作に水杜は手に取る。さらりと目を通してからすぐにそれをテーブルに戻し、扉の方に視線を投げた。

「何をそんなところで立っている」
「え? あ、あの」
「早く入って扉を閉めろ」

 慌てて美月は部屋に入り、扉を閉めた。けれどどうにも美月には居心地が悪い。男と二人きりで部屋の中にいる経験など、親以外ではそうはないのだから緊張するのも仕方のないことだった。
 けれど水杜はといえば、どっかりとベッドの上に座っている。美月の緊張は全く気付いていないのか、そういったことを口にしようとは微塵も見せなかった。
 美月はどうして良いのかわからず、そのまま閉めた扉の前で立っていた。

「あの……部屋って、ここだけ……?」
「当たり前だ。お前、金なんて持ってないだろう」
「それは……そうですけど」

 そもそも今いるこの場所で、自分の持つ通貨が通用するとは思えない。明らかに、自分がいた場所とは違うのだから。
 だからといって、男と同じ部屋に眠ることになるということに緊張感も違和感もなく受け入れることは難しい。難しいどころか、緊張しないはずがないような出来事だった。
 そんなことを考えて、美月がほんのりと頬を染めてどうしよう、という顔をすると、水杜はちらりと美月を見て言ってのけた。

「安心しろ、手なんか出さない」
「なっ……!」
「それ以前に、どれほど眠れるかも保障は出来ない。そう簡単に説明できるものでもないからな」

 立ち尽くしていた美月はわずかに瞳を見開いて水杜を見た。ひっそりと伏せられた瞳は、何かを考え込んでいるようにも見える。その水杜の様子を見て、美月は足を動かした。
 水杜を信用する、と自分で決めたのだ。水杜しか今の状況を理解している人はいないと自分で思ったのだ。だからこそこうして水杜についてきた。
 こくりと息を飲み込んで、美月は水杜が座った隣のベッドに座り、水杜に向き直った。
 水杜の表情は変わらない。どころか、伏し目がちだった水杜は、より一層険しい表情をして見せた。
 そして、静かに口を開く。
 低い、穏やかな声で、言葉が紡がれた。

「ここはお前のいた世界とは違う。それはわかるな」

 美月は小さく頷く。見たことのない風景、けれどどこか懐かしくも感じさせる風景。教科書で見たものとも違うし、本で読んだものとも違う。少なくとも、美月の知る範囲の中で、こんな場所は、町は、見たことがなかった。

「ここは、お前がいた世界の裏側、ということになっている」
「……は?」

 水杜の言っている言葉の意味を明らかに理解していないような声を出して美月は訊ね返した。けれどそれに水杜は答えない。
 静かに水杜は語り続けた。
 この場所は美月のいた地球の、日本の裏側に当たるという。地球で考えれば裏側は赤道の向こう側、ということになるはずなのだが、それともまた違う。美月から考えるならば異世界、日本の裏側。そしてこの世界、今いる場所から考えると美月のいた世界こそが異世界、この国の裏側ということになり、それは幻想の地だと言われている、ということだった。

「仁本、という。同じ読み方をするが字が違う」
「なに、それ……」
「お前の持つ常識で考えるな。この国でもお前のいた世界は幻の国。常識では存在しない、幻想であり、空想の地ということになる」

 御伽噺か、小説か。どう考えても物語のような話だ。そんなことが美月の脳裏には浮かんでいた。どう考えても美月の持つ常識では考えられない。それを常識で考えてはいけないと、水杜は言う。
 美月はただ静かに、水杜の言葉に耳を傾けた。
 仁本は日本の裏側にある世界であり、それを知っているのは限られた者だけだという。もしも仁本と日本が交わる日が来るとすれば、それはこの国の中枢の一部が変わるときだけ。けれどその真実を知るのは、そのとき中枢部に存在する人間以外には知り得ないことだった。
 空想の国、日本。
 はたまた異世界、仁本。
 どちらが本当の世界かどうかなど、誰も知らない。知りようがないものだ。『本当』の世界があるとすれば、自分の存在するその場所を『本当』とするしかないのだから。誰でも、自分がいる場所を疑いはしないだろう。幻の国にいるだとか、そんなことを考えることはありえないだろう。だからこそ、自分がいる場所こそが『本当』であり『現実』なのだ。

「お前はここに呼ばれてきたはずだが……あの月のもとで、お前は誰にも会わなかったか」
「誰にも……というか、呼ばれたといわれても全く覚えがなくて……誰に呼ばれたのか、教えて欲しいんですけど……」

 美月が首を傾げて水杜を見ると、水杜はかすかにため息をついた。それは美月に見とがめられるほどはっきりしたものではない。
 そもそも、美月には自分がここに来た理由がわかっていない。呼ばれた、と言っても誰の声を聞いた覚えもない。気付いたら、ここにいた。ただそれだけだったのだ。

「……本来」

 お前は知っているはずなんだ、と水杜は続けた。
 この仁本に日本から訪れるには呼ばれないと現れることは出来ないと言われている。その『呼ぶ』者は異世界から訪れた者の意識に仁本という国を埋め込むものなのだ。そして、その者が仁本に呼ばれた意味も知らされる。だからここに美月が現れたということは、何者かに呼ばれ、しかも仁本という場所を知っているはずなのだ。
 だが、美月は知らない、という。この場所も、彼女を呼んだ者も。

「私がここに来たときには誰もいなかった。あの月の傍にいたときにも誰にも会わなかったし……その、呼ぶ≠チていうのは誰にでも出来るものなんですか?」

 水杜は静かに首を横に振る。ありえない、と。

「本来この国と幻の国は交わることはない。交わるときが来るならば、国の中枢にある者だけ、つまり呼ぶ℃メは普通の人間では出来ない」

 それどころかそんなことがあるということさえも、普通の人間は知らないものだ。呼ぶ≠ニいう行為はそれだけ難しいものであり、それ以前に人に知られているものではない。国の大事のことなのだから当然と言えば当然だろう。

「お前をここに呼べる者は限られている。姫王、もしくは四蓬の長だ」

 水杜の言葉には美月がおよそ聞いたことのない言葉が並べられる。かすかに眉をしかめると、水杜は荷物の中から紙を出してさらさらと文字を書いた。

「姫王。仁本を束ねる人物だ。代々束ねる王となるのは女だけと定められていて、その王の総称を姫王という」

 続けて水杜は紙に図を描き始めた。そこに描かれたのは日本列島と酷似している。鏡に映したように反転されたそれを見て顔を上げたが、水杜は一瞬だけ視線をあわせただけで何も言わずにさらに図を書き進める。美月もまた何も言わず、そこに描かれていく世界をじっと見ていた。

「これが仁本の形だといわれている。本当にこんな形をしているのかどうかは俺は知らない。風杜にでも聞けば解かるだろう。そして今いるここは峯鳴という。この国の中心だ」

 そう言って仁本の地図に指を置いてとんとん、と鳴らして見せる。
 水杜が指した場所は日本でいう東京の場所だった。

「峯鳴はこの国の中枢で街も多い。天下の膝元だから当然といえば当然だが。今、俺たちがいるのは峯鳴の南都。さっき出てきた町はここよりも南にある」
「さっきのって……洞窟も街と数えるの?」
「そうだ。中央に近くなればなるほど町は大きい。だが、その代わりその大きな町のすぐ傍にはそういった洞の町が点在する。大きな町では住めない者、もしくはそういった洞で生まれる種族は大抵が洞で生活をする。確かあの洞で祐理とか言う旅人がいたな。長く旅をするような者は大きな町では金がかかりすぎるからそういう洞の町で宿を探すと聞く」

 それでもこの辺りは天下のすぐ傍だから規模は大きい、と水杜は続けた。
 水杜の言葉は、どう考えても美月の常識の範疇を越えていた。日本の中央といえば東京だ。日本史を遡ればそれは時代の中心となった幕府や、京都に置かれた朝廷、と呼ばれたものもあるが、この国のイメージはそのどれとも全く異なるものだった。
 美月の知る『街』といえば東京の都会の街であり、洞窟に住むような人は確実にいない。それどころか美月には洞窟がどういった場所にあるのか、それさえも見当がつかない。それほどに美月の知るものとは程遠いものだった。

「この峯鳴の中心に、琥山という山がある。ここがこの仁本の中枢。姫王がいる場所。陽姫がここで国を動かす」
「……ようき?」

 さらりと紙に『陽姫』と書く。太陽の姫と書いて陽姫。国を動かす女王の一人を陽姫という、と水杜は言う。

「一人、って、他にも姫王がいるの?」
「そうだ。陽姫は琥山の頂に君臨する。そして地底にはこの国の魔封じ、そして判じることの出来る王、月姫が存在する」

 また新しい名前が出てきた、と美月は呟く。水杜がそれを咎めることはもちろんない。彼女がわからないということを当然の事と理解しているのだろう。が、何かを答えることもなく、さらさらと紙に字を書き足した。

「月の姫。陽姫は頂の王と言われ、月姫はそれと反対に地底の王とも言われる」

 国を動かし、統治する陽姫。
 国の魔を封じ、国を正す月姫。
 仁本の王として表舞台に存在するのは太陽たる存在の陽姫であり、それを支えるのが月たる存在の月姫。なぜ地底に存在するのかといえば、表舞台には決して立たない魔封じの月姫が力を誇示する必要はないからだ、と水杜は言う。
 月姫の存在はそれほど知られていない。もちろん口伝などで街の長などのみ伝えられている場所も存在するが、現実として知っている者はほとんどいない。それほどにこの世界から隠れた存在だということだ。

「さらに言うと、魔封じの力を持つ月姫の力を隠すため、とも言われている」
「……隠す?」
「そうだ。強すぎる力は人を脅かす」

 月姫という存在は表舞台にはない。もしもそれが表舞台に立つとしたら、それは『異物』としてに他ならない。魔を封じる力を持つ月姫、つまりそれだけの力を持つ者、ということになる。
 ただ封じる、といってもその存在そのものが封じの役目を負うのだが、そのために必要とされるものはその身体に刻み込まれている。それはたとえば、呪言であったり、剣技であったり、その代の姫王によって異なる。

「どうして月姫がそれに長けることが出来るのかは俺は知らない。それを知るのは月姫のみと言われている。異世界にはそういった術があるのかもしれないが、俺はそれを知ることは出来ない。異世界を知る王以外には異世界のことを知る者はいないからだ」
「……異世界って、日本のこと?」
「ああ。それからあまり知られてはいないが、姫王というのは三人いる。陽姫と月姫、そして星姫。最後の一人は星の姫王だ。予言に長けるという」

 だが水杜にもその星姫の存在はあまり情報がなく、詳しいことは何も話せなかった。

「そして姫王には四蓬がいる。何らかの力によって姫王は選出され、その王には四蓬という守人がつくことになる。その守人の一人が俺だ」
「守人? 水杜さんが?」

 そうだ、と短く返事をして水杜は告げる。『水杜』は守人の名だと。
 美月は目を丸くして首を傾げる。どう考えても話が壮大すぎて想像がつかない、といった感じであった。王政、というもの自体が美月の身近なものではない。そのうえ、一国に王が三人いるというのだからたまらない。何をどう考えれば良いのか、そこから思い起こさなければならなかった。

「日本と仁本が交わるのは国の中枢が変わるとき。そして今、月の無い時に現れた女ならば姫王以外にはない」
「……どういう」
「お前が、月姫だ」





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