4:月に集う 「お前が、月姫だ」 その言葉に目を見開いた美月は、唖然とした風体で水杜を見つめる。けれど水杜は何も答えない。ただ美月をじっと見ていて、美月の反応を待っているかのようにも見えた。 「ちょ、ちょっと待ってください。どうしてわたしが月姫だなんて……」 「本来月姫は月城、琥山地底にある月姫の城に現れるはずなんだが……しかも四蓬も俺以外の者が現れない。それだけこの国は何かが狂い始めている。それを正すのが、月姫であるお前の存在だ」 「いやだからあの、ちょっと待って下さいっ!」 「紛れもなく、お前が月姫だ」 つい先ほどの美月の問いかけにはさらりと流していた水杜が、じっと美月を見て答えた。他の誰でもなく、お前が月姫だ、と。 水杜は美月から視線を外し、窓の外を眺めやる。窓の向こう側には大きな青白い月が浮かんでいた。暗い夜闇に浮かぶ月、そして周りに侍る星。美月がここに現れた時の『黒』の世界で見たものと同じものが、その空に浮かんでいる。 「お前が現れると同時に、月が現れた。お前が月姫である証」 「でも、月姫は月城に現れるはずなんですよね? じゃあ、わたしは違うじゃないですか」 「それの理由はわからない。だが。月が隠れていたこの仁本に、月が現れ、お前が現れた。しかも幻の国から。そして四蓬である俺がお前を見つけた。だからお前は間違いなく月姫だ」 どうあっても水杜は美月を月姫だと言う。だが美月はありえないと否定し続ける。美月は月城に居たのではないし、ましてそんな国を守るなんて大それた人物にはなれないと言い続けるが、それは水杜には通用しなかった。 「──月は、空に在るもの。だが、お前の隣に月があった。違うか」 「そうです……けど」 「月が、お前を選んだ。だから俺はお前のもとに現れた」 「どう……っ!」 訊ねようとした言葉は飲み込まれる。水杜の動作によって。 水杜は片膝を立てて床にしゃがみこみ、美月を見上げた。その瞳は、髪の色と同じように深い藍色。けれど、光を飲み込んだその瞳は薄く紫を宿して紺桔梗の色にも似ていた。それを逸らすこともなく、まっすぐに美月を見上げて言う。 「お前が月姫だ。そして俺──水杜は、月姫の四蓬となり、そばに仕える者」 据えられた瞳を見て、告げられた言葉を聞いて、美月はこくんと息を呑む。水杜の表情は真剣そのもので、嘘を吐いているとは到底思えなかった。けれどそれがどういうことか。それを飲み込むには時間が必要でもある。 (まさか、本当に現れるとは) 真実、月姫とはこの仁本において重要な人物である。だが、水杜となってそう間もない彼には、どういった形で月姫が現れるのかなど詳しく知りはしない。彼が知っているのは、自分が月姫を守るために存在していること、それだけだ。それが何よりも重要であり、何よりも大切なことである。そうでなくてはいけない。──そう教えられてきたのだった。 美月はあんぐりと口をあけて水杜を見ていた。こうして跪かれたことなどないのだから当然と言えば当然だろう。何をどう問えば良いのかわからない。違うといっても水杜はそれを聞き入れようとはしないのだ。何をどうしたらそこまで断言できるのかと問いたくなるほどに。 突然、水杜は背後に視線を送り、すっと立ち上がる。唇に指を当て、美月に目配せをした。何も言うな、ということだろうと受け取った美月は何も言わず息を殺した。そっとドアに近づいて、水杜は外の音を聞くようにドアに耳を近づける。 その扉の向こう側から何が聞こえたのか、美月にはわからない。けれど、次の時には水杜が口を開いた。 「月が輝く夜は良いものだな。何より少しは治安がよくなる」 それまでの会話とは全く関係のなさそうな言葉を告げ水杜はそっとドアノブに手をかけた。その一拍後にぐい、と思い切り押し開かれた。 ドアの向こうには驚いて目を見開いた男が立っている。その男には水杜も美月も見覚えがあった。やせぎすともいえるほどに頬がこけていて、どんよりと曇った目をした男。町の人と同じような衣装を身に着けている。昼間、祐理と名乗った男だ。 その暗色の瞳がわずかな驚きのあと水杜を見ていた。どんよりとした瞳の奥に、ぎらぎらと光るものがある。水杜の後ろから覗き込むようにしてその男を見た美月はびくりと身体を縮ませた。 「……俺は昼間はおとなしくしていろとは言ったが、夜になったら近づけと言った覚えはない」 ちろりと水杜が祐理を見る。落ち着き払ったその水杜の態度は少なからず祐理の気に障ったのだろう、彼はじろりと水杜をにらみ返した。けれど、水杜にはなんということもないのか、冷たい視線を投げかけるだけだった。 「……お前ら、何者だ」 ぼそりと言った祐理の言葉が美月にも届く。美月はそっと祐理を見た。 やはりぎらぎらと光る彼の瞳に嫌悪を覚える。少なくとも、友好的ではない視線。だからこそ嫌悪を感じるのかもしれないが、本当にそのせいだろうか、と美月は考える。全身総毛立つようなおぞましさと恐怖が美月の中に生まれた。 どこまで聞かれただろうか。少なくとも、今ここで話していたことは、一般の人間が知っていて良いものではない。水杜はそれを考えつつも祐理を見下ろしている。 口伝や物語で語り継がれている月姫と星姫。それはあまり余人に知られて良いものではない。だからこそ文書でもなく、伝統でもなく、『語る』ことでしか継がれていないのだ。それに関わってきた者は代々、それを奥深くに隠して眠りにつく。もちろんここに居る水杜も、それを余人にいたずらに知られてはいけないと気を遣っていた。 ところが、正面にいる男はいつの間にかこの部屋の前にいた。 くぐもった声、睨み上げる瞳。それに対する水杜は冷たい視線を投げかけている。美月はその後ろで少し怯えつつも水杜の袖につかまるようにしていた。 「……いつからそこにいた」 低い声で水杜が訊ねる。祐理はそれに答えるつもりもないようだった。 別段彼が何かをしたわけではない。けれども、水杜と美月にとって良い印象は無いに等しかった。じろりと水杜が睨めつけると、祐理は一歩足を引く。けれどそのどんよりとした瞳ははっきりと敵意を見せて水杜を睨み上げている。 「いつからそこにいた、と聞いている」 再び低い声が響く。美月は水杜の後ろに隠れるようにしていた。 何かを疑うような、けれど脅すような。憎しみにも似た色を瞳に乗せて、祐理はじろりと水杜を見上げたままぶつぶつと何かを言っている。 「……何だ?」 低い、小さな声で何かを言っているのを聞いた水杜は、聞き返す。だが、祐理は濁った瞳を躍らせて、水杜の後ろ、部屋の奥の方をじろじろと見ている。水杜の後ろに隠れて美月は彼の服をがっちりと掴んでいた。美月の手の震えが服を伝って水杜に伝えられる。 わずかに水杜が振り返ると、震えている美月の顔は青ざめていた。 「どうした」 「……あの、祐理って人……なんか、おかしい」 「おかしい?」 首を傾げて水杜は祐理を見る。目の前に居る男はどんよりとした目を泳がせながら、いまだ何かぶつぶつと言っている。薄気味悪さは確実にある。だが、美月がどうしてこうも怯えるのか、水杜には解からない。 だが、その疑問は祐理の言葉により拭われた。 「……邪魔者ハ……去れ……」 「なんだと?」 「消エろ……月ハ、イらなイ……!」 「……下がれ、水杜!」 その言葉と同時に、紅い風が吹き抜ける。炎のように紅いそれは、強く吹き抜けて祐理に向っていく。美月は腕をかざして自分をかばう。すると、ぐいっと腕を引かれた。 「なっ……!」 「つかまれ!」 驚いた美月は水杜に言われたとおりにして彼の服にしがみつく。水杜は美月の腕を掴んで後ろに飛ぶ。その中で美月がうっすらと目を開くと、先ほど居た辺りが黒く焦げていた。 そしてドアの向こう側にいた祐理の正面には、紅い髪の男が立っていた。背は水杜よりも低めだが、ほっそりしている。かざした腕の周りに炎が渦巻いていた。大きな太刀を肩に担いでいるその腕には透き通った朱色の布が巻かれている。その腕の先には細い銀の腕輪が巻かれていて、その腕輪にぶら下がった銀色の細いものが、腕輪を打ってしゃらん、と音を鳴らす。 「……へえ、音が鳴った。やっと見つけたってことかな?」 「火杜、とりあえずそいつを追い払え。なんでもかんでも焼き尽くすなよ」 「わかってるって。で、こいつなんなんだ?」 「邪魔者ハ……去レ……!」 どんよりと濁った瞳が、今度は火杜と呼ばれた男に注がれた。火杜は祐理を睨んで太刀を構える。するとかざしていた腕に渦巻かれた炎が太刀に向かってするすると降りていく。白い炎が太刀の上でゆらゆらと燃えていた。 「消エロ……月ハ、イラヌ……!」 そう言って祐理は地を蹴る。祐理が目指したのは火杜の背後に居る水杜と美月。それを阻むように火杜が太刀で薙ぎ払う。太刀を払った軌跡をわずかに炎が道を残す。その小さな炎が、祐理を捕まえた。 「う……わぁぁっ!」 「焼き尽くされたくなかったら、このまま退がるんだな!」 もう一度太刀を大きく振り払い、炎を零していく。部屋の中すべてが燃えるのではないのかと思えるほどの熱気が部屋の中に充満していた。 「ちょ、ちょっと水杜さんっ!」 「何だ」 「火が燃えてるっ!」 「……火だからな」 「じゃなくてっ! 部屋がっ!」 美月が焦って水杜に言うと、今気付いたかのような顔をしてそんなことかと小さく呟いた。すると水杜が手のひらを天井に向けて開く。ふ、とその手のひらに息を吹きかけると、霧のような雨が部屋の中に広がった。部屋に飛び火した炎は消えたが火杜の太刀に宿った炎は消えない。火杜は祐理を追い詰めるように太刀を振り回す。こぼれる炎が祐理を焼く。服がこげる匂いが部屋の中に充満していた。 「このまま退くならばオレも退こう! 最後の選択だ、選べ!」 火杜がどこか楽しげな声で太刀を振り下ろしながら最後の選択権を与える。祐理は苦い顔をして後ずさった。 部屋の中に広がる霧雨は視界をうっすらとぼかしている。火杜の放つ炎のこぼれた場所だけその霧雨が降る。火杜の周りの霧雨は火杜の熱気で霧散する。美月にとってはありえない光景でしかないだろう。自分たちは雨を受けていないのだから。 「さあ、どうする!」 「……チッ」 ひゅん、と音を立てて祐理が退く。ドアの手前まで下がった祐理は、じろりと火杜を睨み上げ、その次に視線をめぐらせて水杜と美月を睨んだ。美月はおびえて水杜の服の袖をつかんだ。かたかたと震えているのが水杜にも伝わる。わずかに眉間に皺を寄せて水杜は祐理と火杜の動きを見ていた。 「クッ……!」 舌打ちをして祐理は踵を返し逃げていく。火杜がちらりと水杜を見ると水杜は首を横に振った。追わなくていい、ということだろう。 火杜の太刀から炎が小さくなっていく。太刀の先から零れ落ちた小さな炎はふわりと浮かび上がり火杜の腕輪に吸い込まれ、太刀はしゅう、と音を立てて消えていく。その様を美月は唖然と見ていた。 「ちょ、ちょっと……これ、何なの……」 「やけどしなかったか? 狭いから一応抑えたつもりだけど」 さらりと彼は言ったが、もしもここが広い場所で人に被害を与えないとしたら、彼はどれほど暴れるのだろうか。それを一瞬考えた美月はぞっと身を震わせた。 「もうちょっと広いとこだったらなぁ、気楽にやれるのに」 ぼそっと呟いたあと腕を払うと火杜はすぐに水杜に向き直り、それで、と訊ねた。 「さっきのは誰だ?」 「お前、知ってて攻撃したんじゃないのか」 「いんやぁ? なんか胡散臭い空気がしたから攻撃しただけ。そしたら水杜が下がったからヤバイ奴なのかと思って」 違ったかと訊ねる火杜に水杜ははぁと小さくため息をついた。 水杜と火杜はどうやら顔見知りらしい。それは二人の様子を見れば容易にわかるのだが、その二人の親しげな様子をあんぐりと口を開いて見ている者が一人いた。 「あの……?」 「あ、あんたが月姫だな? やっと会えたな。オレは火杜。見ての通り、火の守人だ」 にっと笑って火杜が右手を差し出す。あんぐりと彼を見つめる美月は勢いに負けて右手を出した。握り締めた手をぶんぶんと振られてから手を離す。 水杜よりも少し小さいが美月よりは背が高い。顔を上げて彼の顔を見ると、瞳は朱色で先ほど紅くみえた髪は穏やかな朱色っぽい色に変わっている。それを見てあれ、と呟いた美月に火杜は首を傾げた。 「どうかした?」 「あ、いえ……もっと髪が紅かった気がしたから……」 「ああ、そりゃ炎使ってたからな」 さも当然のことのように火杜が言う。炎が反射していたという意味だろうかと美月は考えたが、炎が反射したからって髪が紅に染まることはないだろうと思いなおした。 そもそも先ほどの火杜のやったことはなんだったのだろう。水杜のやったことはなんだったのだろう。彼女にとってはそれもまた謎だった。 理解できないことを答えてくれるのが、水杜だった。だから美月は水杜を振り返る。 「……四蓬というお前を守る者は、特殊な力を持っている。今言えるのはそれぐらいだ。火杜、他のやつらには会わなかったか」 「他? って風杜とか?」 頷く水杜に会っていないと火杜が答えるのを聞いてすぐ、眉間に皺を寄せた水杜が部屋の中に置いていた荷物を担ぎ上げた。 「……水杜さん?」 「出るぞ。どうも胡散臭い」 「は?」 きょとんと目を丸くした美月が何かを聞く暇もなく水杜は歩き始める。元々荷物など水杜の持ち物と洞窟の町でもらった服ぐらいだ。それを軽々と水杜が担ぎ上げればいつでも移動が出来る。 「ちょ、ちょっと待ってよ、ここに泊まるんじゃなかったの?」 「さっきの男がここを知っている。寝込みを襲われたらたまらない」 「な……っ! そんな危ないのっ?」 美月が驚いても水杜と火杜はしれっとしている。確かにここに存在するのが月姫なのだから彼らには少々の危険は覚悟のうえ、というものだ。 だからといって、襲われるかもしれない危険を寝て待ってやるつもりは毛頭ない。 「まあなぁ、さっきのやつ月はいらないとか言ってたからなぁ」 「月は……いらない?」 火杜の言葉に首を傾げて美月が振り返るとにっと彼は朱色の瞳を細めた。 「どっかの馬鹿が月姫を邪魔だと思ってるんだろ」 「火杜!」 じろりと火杜を睨みつけて水杜は言葉を制した。それを見た火杜は肩をすくめてはいはい、と返事をしてから水杜の後に続いて部屋を出ようとする。 最後に部屋に残されていた美月は慌てて彼らの後を追う。置いていかれたらたまったものではない。こんなわけのわからない、危険かもしれないという場所に一人でいる理由はどこにもない。 部屋の中にはまだ焦げた匂いが残っているように感じられた。 外は夜の帳に包まれていた。右を向いても左を向いても暗闇。それでも今日は月が明るいため道はかすかに見て取れる。この町に訪れるときに見たそびえ立つ山々の間を縫って続く道には明かりもなく、うっすらと見える道の先はやはり暗闇だった。 「月姫は暗いの、平気なんだ?」 首を傾げて火杜が訊ねると目を瞬かせて美月は彼を見上げた。 そこにあったのはやはり朱色の瞳。月の明かりしかなくてもやはり彼の瞳は朱色だし、髪もまた朱色に近い。前を行く水杜の髪もまた濃藍に変わっただけでやはり藍色に見える。 「月姫?」 「あ、ごめん。別に平気。やっぱり暗いのって怖いもの?」 気付けば気さくに話しかけてくる火杜の雰囲気に呑まれたのか、美月もまた砕けた口調に変わり始めていた。水杜は振り返りこそしないが、わずかに唇の端をあげていた。今は確実にわからないことだらけの美月が落ち着いていてくれるのは少なからず助かる。当代の月姫がヒステリックな女じゃなかっただけでもありがたいものだった。 「いや、そういうわけじゃないけど。オレとか水杜とかは男だし、あんまり気にならないけどさ。女だとやっぱ違うのかなって。とは言っても、月が象徴の月姫なのに夜が怖いってのはおかしいか」 「……ところで、その月姫っていうの、やめてくれるかな」 少しだけ嫌そうに眉根を寄せて火杜を見上げると、どうしてかと火杜が聞いてきた。 月姫というものの存在は先ほど知らされたばかりだし、それが自分のことだとは到底思えないのだ。月姫という存在を疑うことはしなくとも、それを自分だと言われるのは微妙な気分だ。今現在、異世界にいるということだけでもわけがわからないというのに、自分が月の姫だなどと言われて信じろというのが無理というものだろう。そんな御伽噺のような話をどうしたら信じられる。今でも夢の中に居るような気持ちなのに。 「……って、水杜、マジ?」 「俺に聞くな。だがここに守が居ないのも事実。こいつの様子から考えるとまだ月姫の着任が成されていないということだろう」 一歩前を歩いている水杜に訪ねると、彼ははあ、と軽いため息を吐いてから答えた。 マジ、と聞きたいのはわたしのほうだ、と美月は思ったがさすがにそれは口にしなかった。 「んじゃ、しょうがないか。じゃ、月姫の名前は? なんて名前?」 「逢坂……美月」 「美月、ね。やっぱり月姫だ」 「……火杜さん」 あえて月姫と言う火杜をじろりと美月が見上げると、火杜はくすりと笑った。 「冗談。火杜でいいよ、美月。これから長い付き合いになるんだしね。で、水杜。これからどうするんだ?」 二人が美月の一歩前を歩いている。美月が彼らに並んで歩かないのは、二人の相談になど参加しても自分にはわからないことぐらいは理解しているからだ。……いや、ただ今ある状況を飲み込めないだけに、ただ二人についていくことしか出来ないだけかもしれない。 ──少し、一人になりたい。 美月は、無意識に小さくため息をついていた。 |