12:闇夜に浮かぶ影






 美月はわずかに怯えていた。これまでに見た穏やかな表情とはまったく違う戒の不機嫌な顔。それが誰に対してなのかわからないが、少なからず美月はどうかしたのだろうか、と気にしていた。自分があんなことを言ったからだろうか、それとも他に何かあるのだろうか……と。

「あの……戒?」
「はい」
「怒ってる……の?」
「ええまあ、それなりには」

 言い捨てるその言葉のとげとげしさ、そして表情の硬さを見てそれなり≠ニ言われたら相当怒っているのではないかと思われる。それだけ戒の表情は険しく、怒りが表れている。それを見たら、自分に対してなのかどうかなど聞けるわけもなく、思わず美月は謝った。

「何がですか」
「その……囮になる、とか言って」
「ええそうですね、本当に。でもそれだけで怒っているわけではありません」

 にこりと笑った戒の顔が怖い。
 そう思ったのは美月だけではなかったようで、風杜もまたぴんと背筋を伸ばした。
 酷薄な笑みを浮かべたまま、戒は遠くを見つめる。窓の向こうに映るのは闇色の空。そしてその空の上空には銀色に輝く月が姿を現している。月光が窓に差し込む。戒の銀の髪が、月光を浴びてキラキラと輝いている。

「……とにかく、美月にはしばらく行動を自粛していただきます。先日のように一人で出歩くようなことはなさらないで下さい。良いですね」
「先日?」

 きょとん、と首を傾げて美月が訊ねると、戒は冷たく微笑んでちろりと美月を見る。

「私が知らないと思っているんですか? 先日の宿で、水杜とお話をなさっていたでしょう。一人で抜け出して怒られましたね」

 戒に見つかる前に戻ろうと水杜に言われてすぐに部屋に戻った、あの日のことだ。
 まさか彼が知っているとは思っても見なかったので、美月はあ、と声をあげた。

「あの日は何事も無かったから何も言いませんでしたが、今は何があるかわかりませんから決して一人で外に出ないように」
「……う、うん。ごめんなさい」
「物分りが良くて結構ですね。風杜、ひと時たりとも美月から離れないで下さい。必ず影は動き始めます。万が一あなたが傍に居られないときには火杜なり私なり呼んでください」
「わ、わかったわ」

 頷く美月と風杜を認めて、戒は再び微笑んだ。その笑顔はいつものやわらかいものに戻っている。

「では、今日はお休み下さい。水杜も動けませんし、私たちにも休息は必要ですから。明日、水杜が動けるようでしたら再び遠江へ向けて出発しましょう」

 それでは、といって戒は部屋を出て行った。
 後姿を見送ってドアが閉まったあと、部屋に残された美月と風杜は顔を見合わせ、ほっと息をついた。

「……戒って、怖い……」
「ホントね……目が笑ってないって、あーいうのを言うんだわ……」

 誰よりも敬うべきは月姫のはずなのに、月姫までもが恐れをなす律師。それが彼が律師になった理由だとは、戒をはじめ誰も知らない。


 
◆ ◆ ◆ ◆



 暗い夜闇に影が揺れた。影はじっと上空を見つめている。じっと空を見つめて、ぶつぶつと呟いている。
 夜が更ければ、それだけ月の明かりが明るくなる。
 その前に、しとめなければ。
 あれは、我が獲物。
 あれは、我を邪魔する者。
 月が空に満ちる前に。あの力が満ちる前に。
 ──その前に、月を、空から落とさなければ。


 
◆ ◆ ◆ ◆



 部屋の中では、風杜と美月が談笑していた。
 美月にとってはこちらに来て初めてまともに会話をした女性であり、それまで水杜といたときとは比べ物にならないほど気が楽になっていた。

「美月はこっちの人じゃないって聞いたけど……やっぱり、違うもの?」
「え?」

 興味津々、といった様子で風杜が訊ねてくるので、美月は目を丸くした。水杜も火杜も戒もそんなことを聞いてきた事はない。そういえば、向こうでのことを思い出すことがあまりなかった、などと美月は思い返していた。

「ほら、私たちはずっとここの人間だから。だから伝説だけで言われるような世界ってどんなかなぁって興味はあるのよ」
「ああ……そうか、そうですね」
「って、なんで美月が丁寧語なのよ。気楽にしてちょうだい、私のが年は上かもしれないけど、あんたの方が一応立場が上なんだから」
「立場……って言われても」

 自分が月姫だといわれてもいまだ信用できない。魔を封じる、などといっても実状では何も出来ないという意識が強いせいでもある。
 だがそれは美月だけが知らないことであり、風杜はもう知っている。自分を呼んだのが月姫であり、その月姫は目の前の少女だということを知っているのだ。だから本来は彼女を美月≠ニ呼ぶのも不敬かとは思ったのだが、彼女は自身が月姫であると信じていないこともあり、気楽に、気さくに話をしている。
 ──もともとの性質、というのも多大にあるが。

「そういうことばっかり言ってると、月姫って呼ぶわよ」
「……それは」
「嘘よ。でもほんとに、丁寧語はやめて。戒相手だけでも窮屈でしょうがなくて」

 あの黒男め、と風杜は悪態をつく。
 もちろんそんなことを本人に対しては決して言えないのだが、いないからこそ言いたいことでもあったのだろう。

「絶対あの男、腹の中真っ黒よ。どす黒いったらありゃしない」

 美月はぷっと吹き出して苦く笑った。
 確かにいつも穏やかな笑みを浮かべているように見える戒ではあるが、怒ったときとのギャップはかなりのものだ。言葉でこそ丁寧ではあるけれど、丁寧だからこそ余計に怖く見えさせる。もしかして狙ってるのだろうか、などと思ったりもしてしまうほどにあの丁寧語の裏に隠された笑顔は恐ろしい。

「で、どんなところ?」
「えっと……そうだなぁ。月とか、太陽とかは変わらない。でも、もっと夜でも明るくて、賑やかな街とかがあって……そうそう、洞窟で人は住まないかな」
「そうなの? それでも住む場所って足りるの?」
「うん。だってこんなに山ばっかりじゃないもの」

 かつてはどこも山だらけだったのだろうけど、と美月は言う。
 彼女の知る場所でも山だらけの所はあるけれども、それでもあちこち伐採されて平地が作られ、車が通り、人が住んでいる。
 少なからず、この世界に来てからは同じような街は見ていない。
 それを言うと楽しげに風杜は微笑んだ。
 風杜にとっては見も知らない、伝説の場所。自分のいる場所と全く正反対の形をしていると聞いたと火杜が言っていた。彼女たちにとって、その夢のような世界は、話に聞くだけでも楽しくなってくる。

「……帰りたい?」
「…………」

 ひとしきり話を聞いた後、風杜がぽつりと聞いた。美月は思わず息を呑んだ
 確かに、あの場所は自分が居たところだ。そしてこうして話をしていれば懐かしさはある。けれど、帰りたいのかと正面から聞かれると、言葉が出ない。
 帰りたくないわけじゃない。こんな何もかもわからない場所で安穏にしていられるはずもない。
 だが、それほどに恋しいかといわれたら、わからない。
 ただ居るだけだった、あの場所。
 そこに居るのが普通だったからか、当然だったからかはわからないが、こちらに来てからずっと感じていた孤独感は、少なからず薄れている。それもこれも、風杜たちが一緒にいるからかもしれないけれども。

「……少し、眠った方が良いわよ。私もすぐ寝るから、先に休みなさい」
「……ありがとう」

 美月にそれ以上聞くこともなく、風杜は微笑んだ。
 聞かないでくれて、ありがとう。
 そうは言えなかったけれど、ほっとした気持ちで美月はベッドにもぐりこむ。

「戒に声を掛けてくるわね。部屋から出ちゃダメよ」
「ん」

 隣の部屋へとドアを開いて風杜が出て行く。一人にするなとさんざん言っていた戒だから、きっと風杜はすぐに追い出されるのだろう。それを想像して美月はくすりと微笑んだ。
 だが、すぐにその身は硬くなる。
 ベッドで仰向けになったまま、視線が天井から動かない。身体も、ぴくりとも動かない。

「……帰れば良いだろう?」

 声が、響く。
 部屋の中には誰もいないはずなのに、声が響く。そしてその声は、紛れもなくあの男の声だ。
 美月は飛び起きようとしたが、一向に身体が動かない。
 誰もその部屋の中にはいないはずなのに、身体はまったく動かない。天井をじっと見つめたまま、視線を動かすことも出来ない。
 冷たいものが背中に感じた。肌が粟立ち、総毛立つ感覚がする。
 かすれた声で、美月は必死で声を出した。

「だ……れ……」
「帰れば殺されなくて済むんだぞ。死にたくなければ、早くもとの世界に帰れ」

 誰もいないはずなのに、美月に向かって話しかけてくる声がある。
 美月にはその声が何を言っているのか、意味がわからなかった。

「……なに、を」
「あんた、月姫になりたくないんだろう。なら、その身体を俺に寄こせ。俺の身体を焼いた代わりにお前の身体を寄こせ」

 のそりと何かが美月の視界に映った。黒いもの。
 それが何か、一瞬だけ考えてはっとする。

「か……げ……!」

 必死で動こうとするが、身体が言うことをきかない。
 あの声は、紛れもなく祐理のもの。だけどその人物がこの部屋に入ってくるはずがない。そう思っていた美月はそれを見てごくりと息を呑む。
 ──なぜ、影がここに。
 確かに先日、美月たちを襲ってきたのは影だけの祐理だったが、その影は火杜が焼いた。焼き尽くしたはずだった。だからもしも現れるなら影のない人だけだと思っていたのに、今ここにあるのはあの時と同じ影だけの祐理だ。

「お前たちが影を焼くから、本体が焼けちまった。寄越せよ、その身体。ここに居たくないんだろ。だったら目を閉じてれば良い。そうすれば、お前の身体は俺がもらってやるよ」
「美月!」

 ドアが大きく開いて風杜が姿を見せた。
 その瞬間、祐理が美月を束縛する力が弱まったのか、美月は起き上がることが出来た。けれどとっさに動くことが出来ず、風杜の方を見るに留まってしまった。

「ああ、また女か。ったく、男の身体のがちょうど良いんだが……」
「あんたが祐理?」
「俺を知ってるのか? へえ、意外と有名人だな、俺」

 その声は楽しげにも聞こえる。
 美月はその場に座り込んだまま動けない。風杜と自分の間に、あの影が立ちふさがっているのだ。

「あれ、他のやつらは来ないのか? あいつらには身体を焼かれた礼をしたいんだが」
「代わりに私がもらっておくわよ。だからとっとと消えてちょうだい」
「そうはいかないな、月を空にやるわけにはいかない」

 影がぼんやりと溶けていく。黒いものが溶け出して、形を変えていく。
 黒い影だったはずが、それは次第に人の形を明確にして、人の色を持っていく。
 普通の人間にそんなことをする術はない。影が一人歩きするだけでもおかしいというのに、影が人に成り代るなどありえない話だ。
 けれど、目の前の男はそれをした。
 にたりと笑った男は、峯鳴の洞窟で会った祐理の姿そのものをとっている。双眸は暗いが深紫色をしていた。ただ、その瞳孔は開いていて、風杜の姿も映していないように見える。

「……こんなのが人であってたまるもんですか」

 ぽつりと呟いてから風杜は帯に刺していた扇を開いた。部屋の明かりを受けた扇がきらりと光る。
 その光る扇が狙う先は──黒い、影。





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