15:ある世界 その日、ゆきは洗濯をして、掃除をして、のんびりと過ごしていた。土曜日の休日といったらそれをやるのが基本である。 ゆきは青空の下で洗濯物を干しているのが好きなので、洗濯はどちらかというと好きだ。とはいっても、今はすでに梅雨入りしているので、この日は爽やかな空は望めず、残念ながら部屋干ししかできないのだが。 あいにくの天気が続いている。ゆきは雨は嫌いではないのだが、やはりお洗濯をすると考えると晴れているほうがありがたい。──が、このあと夏の日差しがやってくると思うと、晴れてほしいような欲しくないような、複雑な心境である。 「……そういえば、この間の空港はきれいだったなあ」 ぼんやりと一週間ほど前に行った空港の景色を思い出す。景勝地かと言われたら違うのだろうけれども、それでもいつも見ない光景はやはりキレイだと感じられた。 ずっと前に、一度だけ行ったことはあるのだけれど、その時に見た光景よりもキレイに見えたのは、雨のせいだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。 その時、携帯電話が休日オンリーの着信音を響かせた。普段はマナーモードのため、何の音楽が鳴るか忘れているくらいだ。 「もしもし?」 『あ、もしもし、ゆきちゃん? 元気ー?』 「え……真幸さん、ですか?」 『そうです、真幸ですー。って、アレ、番号でなかった? それとも登録消した? もしくは最初から登録してない?』 「は!? ち、ちがいますよ、ちょっと見ないで出ちゃっただけですっ」 そっかー、と電話の向こうで笑っている声がする。一週間ぶりの龍二からの連絡だ。何も考えずに電話をとってしまったので、誰だか一瞬わからなかったくらいだが。 『でも声でわかってくれたんだー。ちょっと嬉しいかも』 「わかりますよ、もちろん。というか、真幸さん、お仕事じゃないんですか?」 『うん、お仕事終わったところー』 「は!?」 その龍二の言葉に、思わずゆきはぐるりと部屋の中を見回して時計を見た。まだ14時、真昼だ。終わった、って早すぎやしないか? とゆきが首を傾げるのも無理はない。 それが電話の向こうでわかったのか、龍二は笑って答えた。 『今日は朝から1本で終わりなんだ。だからもうオフ』 「そうなんですか……あ、お疲れ様でした」 『あ、お疲れ様。ありがと。でね、ゆきちゃんって今、なにしてる?』 「何って……えっと……」 何をしているというべきなんだろうか? 実際、今なにをしていたっけ? そんなことを思いながら、思わずゆきは部屋をきょろきょろと見回す。見回しても何もない。それもまた当然だ、これといって何かをしていたわけではないのだから。 『のんびりしてた? 暇だったらさ、ちょっと出てこない?』 「え?」 『よければちょっと付き合って欲しいんだけどさ』 「は……?」 今日、この日の予定は、龍二にとって予定通りに進んでいたらしい。そして、この今の時間からのオフも予定通りだそうだ。 その予定通りの一日で、何が変わったのかというと、夕方からの予定に組み込んでいた友人の予定が変わってしまった、ということであった。 この日、龍二は声優仲間が出ている演劇を観に良く予定を立てていたらしい。それを観に行くのを友人と予定していたのだが、その友人に仕事が入ってしまい、一緒に観劇に行くのが難しくなってしまったということだ。 チケットは龍二が持っていて、しかも今日が千秋楽という舞台。その友人と別の日に、という予定は当然立てられなくなった。そしてそこで龍二が思い立ったのが、ゆきである。ゆきに観劇への興味があるのかどうかはわからないけれども、もし行けたら良いかもしれない、と思った龍二が電話をしてきたのだ。 「演劇ですか……あんまり行ったことないんですけど」 『大丈夫、大丈夫。小劇団の舞台で、別にオペラとか見るわけじゃないんだし。だから良かったらどうだろう?』 ゆきは少しばかり迷っていた。演劇というのを観に行ったことがないわけではない。ただ、それは数えるほどだし、やはり少しばかり緊張してしまうのだ。 『あんまり行ったことないならちょうどいいじゃない。機会があるときに行ってみるっていうのも良いと思うけど』 決して龍二も無理強いはしない。優しくそう言ってくれている。興味がない人を無理に連れて行っても、自分が楽しめないのも龍二だってよく判っているのだ。ほんの少しでも興味を示してくれる人、そういう人と一緒の方が、楽しいに決まっている。 まあ、見てから興味が失せる場合も無いとは限らないのだが。 「じゃあ……一緒させてもらってもいいですか?」 『いやいや、そこはオレが一緒にいかない? って言ってるんだし、一緒に行く、でいいでしょ』 「あー……そう、ですかね?」 くすくすと電話のこちらと向こうで龍二とゆきが笑いあっている。そのあと、電話でこれからゆきがかかりそうな時間と待ち合わせ場所を決めて、電話を切った。そこからゆきは大忙しだ。家でのんびりしていたゆきは、慌てて着替えを始めて出かける用意をし始めたのだから。 「いきなり誘っちゃってごめんねー」 喫茶店で合流してすぐ、龍二がそういってゆきに謝った。あまりに突然の予定になってしまって申し訳ない、と。 「いえ、全然。うちでぼーっとしてただけですし」 「そう言ってもらえると嬉しいんだけど。そうそう、今日のその舞台ね、この間の飲み会で会った、吉川さんって覚えてるかな。その人が座長してるんだけど」 「えっと……あの、居酒屋でご一緒させてもらったときの方、ですよね?」 「そうそう」 その時が何度目の偶然かなど、もう龍二もゆきも覚えてはいない。けれども、あのときの出来事だけは覚えている。居酒屋で会った龍二と楠原に誘われて、声優仲間たちの飲み会に参加させてもらったときのことだ。 何人もいた龍二の仲間のうち、全てを覚えているとは言い難い。けれど、『吉川』という人がいたことぐらいは覚えている。ちなみに、ゆきの記憶で顔と名前は一致していないが。 「前から誘われてたんだけど、中々スケジュールが合わなくて結局楽日になっちゃったんだよね。前回の舞台のときも行けなかったから、今度こそって思ってたんだ」 「吉川さんも、声優さん……でしたよね?」 「そうだよ?」 「声優さんって、舞台とかやるんですか」 ゆきから見れば、声優という人たちは、洋画の吹き替えをやっていたり、アニメやゲームに声をあてていたり、という仕事しか想像がつかない。そういう仕事の人たちが舞台をやるというのは初耳だったのだ。 「うん、一応役者だからね。一応養成所では普通に演劇やったりするんだよ」 「そうなんですか!? うわあ、知らなかった……」 「そりゃ演技の勉強をするんだから、演劇はやるよ。それに歌もやるし。人によっては、舞台の方に進む人もいるしね」 「歌もですか!?」 「うん。いまどきはキャラクターソングとかも歌わされるしね」 はあ、とゆきにとっては関心しきりだ。声だけの演技っていうのは、表情で演技を出来ない分、より難しそうだと思ってはいたけれど、普通に演技も出来て歌も歌えるとは。幅広いんだなあ、と驚くのも無理はなかった。 「真幸さんは演劇の方は?」 「うーん、面白そう、とは思うんだけどね。セリフ覚えるの苦手だし、スケジュールの確保も難しいからなんとも」 「そうなんですか……あ、歌は? その、キャラクターソング、っていうのとか出してないんですか?」 「え、あ、まあ……あるのは、ある……」 ぎくりと龍二は表情をこわばらせた。確かにキャラクターソングは出している。が、やはりそういうのは恥ずかしい。自分は声優であって歌手ではないから、歌を出しているというのは一応畑違いであるし、恥ずかしいものなのである。 「一回聞いてみたいですね、真幸さんの歌声」 「え! い、いやいいよ、たいしたものじゃないし!!」 「そんなことはないでしょう? だってそれを買うファンの子だっているんだし。本当にちょっと聴いてみたいかも。キャラクターとかは私はよく知らないしわからないけど、真幸さんの声だったら絶対カッコいいと思うし」 「……っ、あああありがとう……じゃ、じゃあ、そのうち、機会があったら、ね」 「ええ」 にこりと他意もなくゆきが笑う。龍二は複雑な表情をしていた。 ゆきがそう言ってくれるのはとにかく恥ずかしいけれども嬉しい言葉でもあった。しかも、彼女曰く「絶対カッコいい」と思ってくれるらしい。それは龍二が驚くには十分の言葉であったし、龍二の恥ずかしさを倍増させてもくれていた。 一応、龍二も役者であるし、仕事の上で歌も歌ってきた。その歌は、彼の仕事として精一杯やってはきているから、恥ずかしいものではない。仲間内などにはそのCDを渡したりだってしている。 けれど、ゆきに聴かせると考えると、やはり恥ずかしいのだ。それはそのCDの出来映えが恥ずかしいとかそういう問題ではなく、役としての「龍二」を見られるのが恥ずかしいと思えてしまうのだ。ファン相手には普段の「龍二」を見せてはいない。だからそれほど感じることはないのだけれど、「真幸龍二」という「声優」ではなく、「普通の男」として彼女と知り合いなだけに、仕事をしているところを知られるのは、少しばかり気恥ずかしいものである。 そんな龍二に向かって「絶対にカッコいい」と殺し文句を言ってくれるのだ。他意もなく、さらっと、あっさりと。ゆきにとってどういう意味がその言葉に含まれているのかは龍二には計れなかったけれども、まあ、本当にさらりとその言葉に意味を含ませずに言ったのだろうとは推測はできる。 確かに推測はできるのだが、その無意識に出たような言葉に、龍二はより照れくさい気持ちになってしまっていた。 「真幸さん? 何か顔赤いですけど……暑いですか?」 「え、あ、いや、そんなことないよ。じゃ、じゃあそろそろ行こうか」 「あ、はい」 かたん、と椅子から立ち上がり、龍二はあわただしくテーブルに置いてあった伝票を持ってレジへと向かう。ゆきは「あ」と呟いて、バッグを持ってそのあとを追いかけた。 「真幸さん」 「あ、いいよ、これぐらいおごるって」 「でも」 「いきなり誘って出てきてもらったんだから、これぐらいおごらせてよ」 ね、と龍二が笑った。もしかしてまた粘られるかな、とも思ったのだが、それでも龍二も粘るつもりである。なんたって、休みの日にいきなり呼び出して出てきてもらったのだし、それに恥ずかしいけれども嬉しい言葉も貰ってしまった。ちょっと嬉しかったから、龍二の礼のつもりである。 そしてそれをゆきが察したのか、それともただの偶然か、それ以上ゆきが粘ることもなかった。おとなしく喫茶店ではおごられて、龍二より先に店を出た。 龍二が支払いを終えて店から出てくると、ゆきは店を出てすぐのところで立っている。 「ここはご馳走になります。次は私におごらせてくださいね」 「え、それはいやだ」 「いやじゃないです。おごられるの嫌いなんですよ」 「嫌いって……でも、おごりはダメ。オレがカッコつかないでしょ。せっかくデートなんだからおごられてください」 「デッ!?」 「ほら、行こう」 にこりと笑って、龍二はゆきを促し、歩き始めた。ゆきは唖然として一瞬固まっていたが、龍二が何歩か足を進めてすぐ、慌てて追いかけていった。 その顔が赤く染まっていたのは、言うまでもないことである。 ざわざわとした雰囲気に包まれている。それでも、付近にいる人たちの表情はみな同じように明るい。ほっと安心したような、達成感を得ているような、そんな顔である。 ゆきは、そわそわと周りを見回していた。まあ、視線だけではあるけれども。 舞台が終わってすぐ、龍二とゆきは関係者用通路を歩いていた。龍二は泰然としている。こういう雰囲気の場所に来るのは初めてではないから、珍しいという感覚もあまりないのだ。 舞台が終わって、龍二が「楽屋に挨拶に行こう」と言いだした。ゆきは当然のように見送ろうとしていたのだが、龍二はそれを許さなかった。いや、ある意味許さなかったのは、龍二ではなくて吉川かもしれない。 ゆきと一緒に行くことになってから、龍二は吉川に連絡していたのだ。この間飲み会で一緒した子と行く、と。 それに対する吉川からの返事が、ありがとうという礼の言葉と、そして「絶対ふたりで楽屋に顔をだしてね」ということである。 吉川も、ゆきのことはしっかり覚えていたのだ。さすがに顔をはっきりと、まではいかずともそれなりに印象に残っているらしい。 「ものすごく場違い感……」 「そんなことないって。まあ、舞台には関わってないからね、そう思っちゃうのかもしれないけど」 「いえ、舞台に関わってないからっていうのもあるのかもしれないけど……私、一般人ですから……」 「オレだって一般人だよ。芸能の仕事をしてるだけで」 ゆきは思わず「そう来たか」という気分になっていた。確かに、顔を出して歩いていても、ファンに呼び止められることはあまりないようだし、それで結構助かっている。 が、一般人、というのはどうだろう。龍二は役者だし、彼は現在相当な人気があると聞いている。いくら「声優」というのが表舞台に出ることの少ない役者だとしても、彼らは確かに「芸能人」だ。「一般人」と「芸能人」というくくりで分けているいまの会話としては、彼は一般人では決して無い、とゆきは思う。 「真幸さんの場合は、普段こういう雰囲気の中にあるから平気なんですよ! それで一般人なんて言われたら、普通の一般庶民はなんていえば良いんですかっ」 「えーでもオレ、一般庶民だし」 「どこがですかー!!」 そんなことをこそこそと話している間に、吉川の楽屋に到着したらしい。と言っても、小劇団の彼らの楽屋は、男女の別があるくらいで大半が同じ大部屋なのだが。 「こんばんは、おつかれサマでしたー」 「あ、マサくん、おつかれー。来てくれてありがとねー」 「いえいえ、楽しませていただきました。あ、ゆきちゃん、連れてきましたよー」 「え、ホント? うわあホントだ、ホントにゆきちゃんだー。お久しぶりですー」 「あ、ど、どうも、お久しぶりです。舞台、すごく素敵でした」 「ありがとー。来てくれて嬉しいなあ」 舞台が終わって、化粧も落とし、着替えも終わってもう普通の吉川である。けれど、さすがに終わったばかりのせいか、いくらか顔は紅潮している。まだ興奮冷めやらぬ、という感じなのかもしれない。 「いきなりマサくんに呼び出されたんだって? ごめんね、せっかくのデートなのにこんなので……マサくんもデートならもっと気をきかせないと」 「デデデデートなんてっ」 「えー、デートで観劇って悪くないと思うんですけどねえ」 「それはそれでいいかもしれないけど、知り合いのってどうなの?」 「ダメですかねぇ?」 慌てふためくゆきを置き去りに、吉川と龍二が楽しそうに話を進めている。普通にデートで決まりですか!? とゆきが心の中で叫んでいたのは、誰も知らない。 周りは片付けをしている人たちでざわめいている。着替え中の人もいれば、化粧を落としている人、荷物を片付けている人、それぞれである。ゆきは少しそわそわしながら、二人のやりとりを見ていた。 「でも本当に、来てくれてありがとう。ほんとに、マサくんが気を利かせられなくてごめんねえ」 「い、いいえそんな! その、真幸さんに誘ってもらえたおかげで、楽しい舞台を見られましたし、吉川さんにもまたお会いできましたし。むしろ感謝です」 「うーん、そう言ってもらえると嬉しいなあ。でも、楽屋にも顔だしてくれてありがとう。片付けでばたばたしてるから、落ち着かなくてごめんね」 吉川はほんわりと笑った。彼の優しさや柔らかさがほわほわと出ていた。飲み会の時にもゆきが思っていたことではあるが、吉川の雰囲気はとてもおっとりとしている。声も穏やかで、話し方もほんわりとしている。 が、舞台上の吉川は、普段とは全く違う、迫力があった。ゆきはそれを見た瞬間、「すごい、別人だ……」と感嘆していたのだが。 片付けの途中に来てしまったので、まだ彼らも忙しいだろうから、と吉川以外にも簡単に何人かに挨拶をして、龍二とゆきは楽屋を後にした。彼らもこの舞台と楽屋を借りているのだ、時間は限られている。それを邪魔するのは申し訳ないし、それは暗黙の了解で互いにわかっていることでもある。ゆきは龍二についていくだけではあるけれども。 「どう、楽しかった?」 「はい、とっても! 面白いお話でしたし、吉川さん、すごくかっこよかったし」 「楽しんでもらえたならよかったー。でもごめんね、ぎりぎりにならないと入れなかった上に、終わってすぐ立ち上がるような感じになっちゃって」 「いえ、それは別に……というか、あれはどうしてですか?」 「あ、この舞台さ、何人か同業者が出てるから、下手に見つかって何か言われるのもちょっと迷惑かけちゃうし。だからどうしてもあんな感じになっちゃうんだよね」 「なるほど……やっぱり、そういう気を使うのって、大変ですね」 「まあ、そういう気を使わなくちゃならないくらいに仕事をもらえるようになったってことは喜ばしいんだけどね。オーディションが増える時期になると、結構こわいもんだよ、来期の仕事どうしようかなあって」 そう言って龍二は苦く笑った。彼らの仕事は、とにかくギャラもそれほど高くはないうえ、オファーの仕事はそれほど多くはないから、自ら仕事を取りに行かなければならない。オーディションなどで自ら勝ち取る、という仕事をしているためにか、やはり仕事があるというありがたみは、普通のサラリーマン以上に知っていた。 「仕事があるのは良いけど、増えると動きづらい、か……本当に大変なお仕事ですねぇ」 彼は自分でなりたいと思って「声優」という仕事をしている。ゆきからみれば、こうなりたいという夢を持ってその仕事をしている人たちはすごいと思う。それだけの熱情をかけて、その仕事をするようになったのだから。 そしてその熱情を持って、楽しそうに仕事を出来るひとたちに、ゆきは憧れる。きっとどれだけ大変だと思っても、夢があって、やりたいと思えることなら頑張れるのだろう、そう思えて、そうして頑張っている人はすごいと、心から思うのだ。それだけの熱を、ゆきは持っていないから。 「うーん、まあ、大変といったら大変だけど、楽しいよ」 そう言った瞬間の龍二は、本心からの笑顔をしていた。 本当に好きな仕事で、楽しいんだろうなあ、と思えるほどの笑顔を見せる龍二を見て、少しだけうらやましい、と思っていた。 |